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『U.S. グラント 回顧録』より 3 [アメリカ南北戦争]

【戦争初期の南軍と北軍の比較】

ケアロにいた間、しばしばコロンバスに駐屯する南軍と会合する機会があった。彼らは、休戦旗を掲げて来るのが大変気に入ったように見えた。2、3の機会に私は同様の仕方で行ったことがあった。彼らの船の一隻が白旗を掲げてやって来ると、ホルト要塞(Fort Holt)の低い砲台から大砲が発射された。舳先の少し前を横切り、それ以上近づくなという信号であった。私は、幕僚と、時には何人かの将校とともに蒸気船に乗り、彼らを受け入れるために下った。彼らの中に、ウエストポイントとメキシコ戦争で顔見知りの将校が何人かいた。これらの将校たちは、学校と実戦で武器の専門教育を受けており、戦争開始時において南部が北部に対して非常に優位を持っているという印象を受けた。彼らは[戦前の]国の教育を受けた軍人の30ないし40パーセントを占めていた。[南部諸州の分離宣言で軍を辞して南部に帰ったとき]彼らは属すべき軍がなかったので、その結果、これら訓練を受けた軍人たちは、彼ら自身の州の部隊に仕事を見出すことになった。このようにして軍事教育と訓練は軍全体に分配された。[喩えて言えば]パン全体が酵母で発酵された。
北部は非常に多数の教育訓練を受けた軍人をもっていたが、彼らの大部分は(常備)軍に留まり、一般に戦争が何ヶ月も続くまで、戦前の部隊と階級のままであった。ポトマック軍には「常備軍旅団」(”regular brigade”)と呼ばれるものがあり、そこでは司令官から最も若い中尉まで、皆専門教育を受けていた。多くの砲兵中隊も、通常各4名の将校は全て専門教育を受けていた。当初、これらの一部は、全く軍事訓練を受けていない師団司令官の下で戦いに参加した。これらの事態は私にある考えを起こさせ、私はそれをケアロにいる間に公表した。すなわち、政府は、幕僚団以外の常備軍を解散し、戦争が続いている間は志願兵として以外には報酬を受け取れないと解散した将校たちに通知する。名簿は保持されるべきであるが、終戦時に志願兵の軍務についていない全ての将校の名前は削除されるべきである。

“Personal Memoirs of U.S. Grant” Sec.21より。


『U.S. グラント 回顧録』より 2 [アメリカ南北戦争]

【1861年11月7日 ベルモントの戦い ――最初の戦闘経験】

1861年8月、グラントは准将に昇進し、ミズーリ州南東部の司令官となり、イリノイ州南端のケアロ(Cairo:エジプトのカイロからとった名前)を司令部としていた。
1861年11月6日、グラントは南軍の拠点ケンタッキー州コロンバス(Columbus; ケアロの下流にある)の動きを牽制するため、3,000名余りの兵とともに船でミシシッピ河をコロンバスに向かった。

私は、政府軍(National Army)による攻撃を期待した命令を受けていなかったし、私がケアロを出発したときには、その種のことを意図していなかった。しかし、出発後私は、将校と兵士たちが、ようやく彼らが志願したこと――彼らの国の敵と戦うこと――をする機会を得たという期待で意気軒昂としているのを見た。もしこのまま何もしようとせずにケアロに戻ったならば、どのようにして彼らの規律を保ち、私の司令に信頼を保つことができるか知れなかった。...私は、コロンバスの対岸にあるベルモント(Belmont)に南軍の小さな野営地があることを知っていた。そして私は、河を下り、上陸しベルモントを占領して野営地を破壊し、そして帰営することを決心した。

11月7日朝、グラントの軍はコロンバスの大砲の射程外に上陸した。

ベルモントで戦った将校と兵士たちは、このとき初めて砲火にさらされた。彼らが敵の野営地に達するまでは、歴戦兵でも彼ら以上に見事には振る舞えなかったであろう。そこで彼らは、勝利のために規律を失ってしまい、勝利の完全な成果を得損ねた。...野営地に達した途端に、兵士達は武器を置き、テントの中をひっかきまわして戦利品を手に入れた。一部の高級将校たちも兵士達と同様であった。

この間に野営地を捨てた南軍兵はグラント軍と輸送船の間に逃走していた。やがて事態を知ったコロンバスから砲撃が始まり、南軍の増援の船が近づいてきた。

この時、「包囲された」という警告が与えられた。敵の砲声と包囲されたという報告によって、将校と兵士達は完全に統制可能になった。当初一部の将校たちは、包囲されたことは絶望的状況で、降伏するほかに途はないと考えたようであった。しかし、私が、我々は切って入ったのだから同じく切って出ることが出来る(we had cut our way in and could cut our way out just as well)と告げると、それは将校と兵士たちにとって新たな発見のようであった。彼らは速やかに隊列を形成して船に戻るための行動を開始した。間もなく敵と遭遇したが、敵の抵抗は弱かった。しかし、我々は彼らを捕虜にするために止まるわけにはいかなかった。というのは、我々が見た敵(の増援部隊)は、このときまでに河を横切って下船し、我々よりも輸送船に近かったからである。

兵士たちが乗船している間に、グラントは一人で自ら接近してくる敵の偵察に行き、輸送船が岸を離れようとしているときに乗馬のまま船に跳び乗った。

1861年11月7日のミシシッピ河は水位が低く、そのため川岸は蒸気船の上部デッキに立っている兵士たちの頭より高かった。南軍兵は河から少し背後に離れていたので、彼らの射撃は高く損害はほとんどなかった。我々の煙突は銃弾で穴だらけになったが、船上では三名が負傷しただけであった。そのうち二人は兵士であった。私は、デッキに上がったとき先ず操舵室に隣接した船長室へ行き、ソファに座った。私はすぐに起きて様子を見るためにデッキに出た。私が出て間もなく銃弾が船長室に飛び込んできてソファの上部を貫通して床に達した。

戦いの翌々日、戦死した政府軍兵士の埋葬と捕虜交換の合意がなされた。

休戦船に乗っている間に、私は、ウエストポイントとメキシコ戦争で顔見知りのある(南軍)将校に、彼らの部隊が通過したときトウモロコシ畑に私がいたこと、私は馬に乗り兵隊の外套を着ていたことを話した。この将校はポーク将軍(Leonidas Polk)の幕僚であった。彼は、彼も将軍も私を見たこと、そしてポークが兵士たちに、「あそこにヤンキーがいる。もし腕試しをしたければ彼を撃ってよろしい」と言ったが、誰も撃たなかった、と話した。

ベルモントの戦いは、北軍が約3千名、南軍は増援を含めて約5千名で戦われ、双方約6百名の死傷者を出した。1861年中に西部方面で戦われた戦いとしてはこれが最大のものであった。
グラントは、不要な戦いをして損害を出したと非難されたが、グラントの兵士たちは実戦を経験し、グラントの冷静な指揮に信頼を置くようになった。

グラントは、ウェリントン将軍と同じように「弾に当たらない」という幸運を持っていた。幸運に恵まれなければ、大きな成功は難しい。

『U.S. グラント 回顧録』より [アメリカ南北戦争]

【南北戦争勃発間もない頃】

〇志願の手紙
戦争勃発後、グラントがワシントンの陸軍司令官補佐官(Adjutant-General)に送った手紙

「... ウエストポイントでの4年間を含めて常備軍 (Regular Army) で15年間軍務に就き、そして、政府を支えるために奉仕を申し出るのが政府の費用で教育を受けた者の義務と考え、恐れながら、戦争の終結まで、ご提示されるいかなる任務でも奉仕を提供たします。御差し支えなければ、もし大統領の御判断で私に信任頂けるのであれば、私の年齢と軍務経験の長さから、連隊の司令官が適当であると感じております。...」

連隊の大佐のような高位の階級を示唆したことに、私がそのような地位に叶うか少々疑わしいと、私は幾らか躊躇を感じた。しかし私は、イリノイ州で入隊したほとんど全ての大佐たちに会っていたが、もし彼らに連隊の司令官が務まるのであれば、私にも務まるであろうと信じた。

上記の手紙は、ワシントンでどこかに紛れ込み、戦後に発見されるまで誰にも読まれることはなかった。

グラントは、当時彼が住んでいたイリノイ州ガレーナ出身のイリノイ州知事の推薦で、イリノイ第21歩兵連隊の連隊長(大佐)に任命された。

〇最初の出動
1861年7月、グラントは、敵に包囲された連隊の救出を命じられ、第21連隊を率いて出動した。この時、彼は初めて、「全てが自分に懸かっている」という責任の重圧を経験した。

「戦場」と想像される場所に近づくにつれて、私の気分は愉快とは程遠いものであった。私がメキシコで戦いに加わったときにはすべて、1個人としてであって、指揮官としてではなかった。もし他の誰かが連隊長であり、私は副官であったならば、狼狽を感じることはなかったであろう。クインシー(イリノイ州)でミシシッピ河を渡る準備をする前に、私は、不安から解放された。というのは、包囲された連隊の兵隊たちがバラバラと町に入ってきた。想像するに、どちらの側も、恐れをなして逃げ去ったのであろう。

次いでグラントは、南軍のハリス大佐 (Thomas Harris) 率いる部隊の野営地を攻撃に向かった。

小川の両側に延びる丘はかなり高く、恐らく100フィート以上あった。ハリスの野営地を見ることができると思われる丘の頂きに我々が近づくにつれて、私の心臓はどんどん高くなって喉にあるかのように感じられた。もしイリノイに帰ることができるのなら、何でも遣ったであろうが、停止してどうすべきかを考えるだけの精神的勇気が私にはなかった。私は進み続けた。下の谷の全景が見渡せる地点で、私は停止した。数日前からハリスが野営していた場所がそこにあり、未だ最近野営した跡がはっきり見えた。しかし、部隊は去っていた。私の心臓はあるべき位置に戻った。その時、私がハリスを恐れていたのと同じくらい彼も私を恐れていた、という考えが浮かんだ。これは、それまで考えたこともなかった問題の見方であったが、私は、その後それを決して忘れなかった。その時から戦争の終結まで、私は、敵に直面して狼狽することはなかった。尤も、私は常に多少なりとも不安を感じはしたが。私が彼を恐れたのと同じように彼には私を恐れる訳があった。この教訓は有益であった。

〇戦術の教科書

私がウエストポイントにいた頃軍で使っていた戦術はスコットの戦術書 (Winfield Scott; "Infantry Tactics") であり、フリントロック式歩兵銃ものものであった。私は、卒業以来戦術書のコピーを見たことはなかった。その学科の私の席次は、クラスで最下位に近かった(※ある資料によれば歩兵戦術は28番/39名)。1846年夏のメキシコ戦争では、私は、連隊の主計および兵站将校に任命され、それ以来、大隊教練は受けなかった。その後武器が変わり、ハーディーの戦術書 (William Hardee; "Rifle and Light Infantry Tactics") が適用された。私はコピーを手に入れて1課程を読んだ。最初の日の教練の命令は、このようにして学んだものに限定するつもりであった。この過程を毎日続けることで、遠からず一巻上げられると考えた。
我々は丁度街の外れの、囲われた家と庭が点在する郊外の公有地に野営していた。そして、私の連隊が行軍をしていたとき、もし私が学んだ教科に従うならば、場所をつくるために幾つかの庭の柵を取り払わなければならないことがわかった。しかしながら、ハーディーの戦術書--それはフランス語からの翻訳にハーディーの名前がついているだけなのだが--は、常識以外のなにものでもなく、スコットの体系に、時代の進歩をあてはめただけであることが、すぐに認識できた。命令は短縮化され、動作は迅速化されていた。旧い戦術では、行軍における方向転換はほとんどすべて、先ず「停止」し、次いで方向転換が続き、そして「前進」となった。新しい戦術では、これらの方向転換はすべて動作中にすることができた。私は、私の連隊を望むところに導き、障害を迂回させることに、何の困難もないことに気づいた。私が用いた戦術を私が学んだことがなかったということを、私の連隊の将校たちは気づかなかったに違いない。

ウィルマー・マクリーン氏の奇遇な体験 [アメリカ南北戦争]

南北戦争勃発当時、ウィルマー・マクリーン氏 (Wilmer McLean) は、ヴァージニア州マナサスに住んでいた。1861年7月21日のブルランの戦いでは、彼の家は南軍司令官ボオリガード将軍の司令部として使われた。戦いが始まると、北軍の砲弾が台所の暖炉に飛び込んできた。
マクリーン氏は、家族の安全のために戦場から離れた場所に移ることに決め、1863年春、約200km離れたヴァージニア州アポマトックスコートハウスの近くに引越した。
それから2年後、再び彼の家の近くに軍隊が押し寄せてきて戦いを始めた。そして、1865年4月9日、彼の家は、リー将軍降伏の会談場所として使われた。

ジョンストンの降伏とシャーマン将軍の怒り (後編) [アメリカ南北戦争]

【続き】

4月21日、グラント将軍は、閣僚会議の席でいつものように沈黙していた。会議後彼は、速やかに、しかし人目につかぬように行動し、24日朝遅く、ノースカロライナ州都ローリーのシャーマンの司令部に到着した。グラントの到着はシャーマンと幕僚たちを驚かせた。
グラントは、閣僚会議の状況もスタントンの指示も一切話さず、シャーマンに覚書の却下の理由だけを説明して、交渉をやり直させた。
シャーマンは、ジョンストンに停戦の破棄を通告した。

「合意書の第1項により、貴殿がこれを受領してから48時間後に、我々の合意した停戦あるいは敵対の一時停止は消滅することを認識されたし。」
「4月18日の交渉についてワシントンから回答を得た。私は、私の作戦対象を貴殿の直接司令する軍に限り、政治的交渉を試みてはならないと指示された。私は、それゆえ、貴殿の軍に4月9日アポマトックスでリー将軍に与えられたものと全く同じ条件での降伏を要求する。」

グラントは、スタントン国防長官に報告した。

「私は今朝ここに到着し、ジョンストンとの交渉に対する返事をシャーマン将軍に伝達した。彼は、驚いているというよりむしろ予期していた。停戦破棄の言葉が直ちにジョンストンに送られ、司令官の間では政治に関する事柄についてどんな協定も成し得ないことが伝えられた。シャーマン将軍は、ジョンストンとの交渉で、彼が大統領から権限を与えられたと彼が考えていたことに完全に従ってきた。彼は、リーの軍が私から与えられた条件と、ウェイツェル将軍 (Weizel) が反逆者たちのヴァージニア州議会の召集を許可したことが大統領と私により処罰されたことを示された。合意のときシャーマン将軍は、州議会の会合の許可が取り消されたことを知らなかった。書面により州議会の会合が取り消されたことを知ったとき、彼はジョンストンにその事実とそれによる交渉の行方を連絡した。」

シャーマンは、グラントの電報をしらずに、スタントンに報告した。

「...私は、軍事協定に政治的事柄を含めたことが愚かであったことを認める。しかし、残念ながら、それが不可避なのが我々の状況の性質であり、サヴァナでの貴殿の話から、我が国の財政状態が軍事的成功を要求していると理解し、それが方針を少々曲げた理由であった。
それでも私は、合衆国政府が誤りを犯してきたと信じているが、それは私には関係がない--私の任務は別のものであり、私は、4年に亘る忍耐強い、弛まぬ、そして成功した働きにより、得意になっていた。...私が大統領の助言を必要とすることを彼に伝えていただきたい。...」

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ジョンストンの降伏とシャーマン将軍の怒り (前編) [アメリカ南北戦争]

1865年4月9日アポマトックスにおけるリー将軍のグラント将軍への降伏は、4年に亘る凄惨な戦争の結末として叙事詩的に語られている。
それに対して、4月26日ダーハムステーションにおけるジョンストン将軍のシャーマン将軍への降伏は、語られたとしても付け足しの1行であり、詳細は余り語られていない。
大分長くなるが、この経過を追ってみる。

この経緯には、当時のシャーマン将軍の心理状態を理解する必要がある。
シャーマンは、1864年11月15日ジョージア州アトランタを発して始まる『海への進軍』、12月21日サヴァナ占領、年明けから開始されたサウスカロライナ州侵攻で大成功を収めた。しかし、その成功と裏腹にシャーマンは、南部住民の苦難を目にして破壊作戦に嫌気がさし、ノースカロライナ州に入った頃には、戦争そのものを早く終わらせたいと思うようになっていた。
シャーマンは3月27日および28日、ヴァージニア州シティポイントのグラント将軍の司令部へ行き、 "River Queen" の船上でリンカーン大統領と会見した。シャーマン(の擁護者)によれば、リンカーン大統領は非常に機嫌が良く、”どんな条件でも”早期の戦争終結を期待し、デーヴィスの扱いについて、彼が海外に逃亡することを期待していると語ったとされる。
3月末、スコフィールド将軍 (John M. Schofield)の増援部隊を加えて約9万となったシャーマンの西部方面軍は、ノースカロライナ州都ローリー (Raleigh)を占領し、約3万のジョンストン軍と対峙していた。

事は、4月1日に始まるヴァージニア州における北軍の総攻撃でリッチモンドを退去したデーヴィス大統領とその閣僚たちが、4月12日にノースカロライナ州グリーンズボロー (Greensboro) のボオリガード将軍 (P.G.T. Beauregard) の司令部に至り、ジョンストン将軍を召集したことから始まる。
デーヴィス大統領が最後に召集した将軍がジョンストンとボオリガードであったことは、彼にとって皮肉な巡り合わせであったといえる。この3人は、4年前の1861年7月21日の夕刻、ブルランの戦い(南部ではマナサスの戦い)の勝利を祝福しあった間柄であった。その後の歳月の間に、デーヴィス大統領と二人の将軍の間は、すっかり冷え切っていた。
ジョンストンが到着すると、デーヴィス大統領は戦況を聞くでもなく、戦争の継続を表明した。間もなく、リー将軍降伏の噂が流れてきた。それは、遅れて到着したブレッキンリッジ国防長官 (John C. Breckinridge) によって確認された。ジョンストンとボオリガードは情勢を検討したが、その結論は "War is over" であった。居合わせた閣僚たちは、戦争を終結させるようにデーヴィス大統領を説得することをジョンストンに頼んだ。ジョンストンは、「それは閣僚の仕事だ」と言ったが、結局引き受けた。
翌13日、デーヴィス大統領とジョンストンとの話し合いの場が設けられた。ジョンストンは、今となっては政府に残された仕事は和平の実現だけだと話した。それに対してデーヴィス大統領は、「意味がない。何故なら、すでに一度和平交渉を試みたが、ワシントンに拒絶されている」と否定的見解を示したが、交渉を試みることは許可した。

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南北戦争における軍規の話 [アメリカ南北戦争]

これは、Philip Katcher 著 "The American Civil War Source Book" (1992) に載っていた、いかにもありそうな話。

長い行軍中に食料配給が少なくなったとき、徴発を禁止する一般命令があるにもかかわらず、A中隊のある兵隊は鶏を盗んだ。そしてそれを料理する機会がなかったので生きたまま背嚢に入れて運んだ。鶏は鳴き続け、そして彼は行軍で連隊の先頭にいたので、 [Hiram] Berdan 大佐はそれを聞かないわけにはいかなかった。鶏は夜になっても威勢良く鳴いていた。それで大佐はその兵隊を逮捕させた。翌日、他の者たちと一緒に彼が大佐の戦時軍事法廷の前に来ると、大佐は、何故逮捕されたのかと彼に聞いた。兵隊は、「鶏を盗んだためです」と答えた。「確かにそうか?」「はい」と兵隊はしおらしく言った。「彼を連隊の後方で監視下に置け」と大佐は命令した。翌日にも翌々日にも彼は同じ尋問を受けた。三回目に何故逮捕されたのかと聞かれたとき、長い屈辱にうんざりしていたので、彼はぞんざいに答えた。「鶏の頭をちょん切らなかったからだ。」「中隊に戻れ!」直ぐに大佐は言った。その後、生きたまま背嚢で運ばれる鶏はいなくなった。

シャーマン将軍と「戦争は地獄」 [アメリカ南北戦争]

Kenneth C. Davis 著 "Don't Know much about the Civil War" (1996) という本の序文冒頭で著者は、

「『風と共に去りぬ』を読んで以来、南北戦争に非常に興味をもった」という人々に数え切れないほど会ったが、その連中の南北戦争に関する知識たるや、スカーレット・オハラの召使プリシーのお産に関する知識と同程度であった。」

と書いている。
かく言う私も、そういう連中の一人である。

「戦争は地獄」は、シャーマンの言葉とされているが、この著者によれば、シャーマンがそう言ったのは戦後のことであり、シャーマンはこの他にも色々と「戦争とは」を言っているという。

シャーマンはアトランタを占領したとき、北軍兵と市民とがトラブルを起こさないように、アトランタ市民に市街地からの退去を命じた。(この話は『風と共に去りぬ』に出てくる。)
抗議したアトランタ市長に対して、シャーマンは次のように書き送った。

「...戦争を私以上に非情な言葉で言い表すことはできない。戦争は残酷であり、それを洗練させることはできない。(War is cruelty, and you cannot refine it.) そして、この国に戦争をもたらした者は、人が思い及ぶ限りの災いと呪いを受けなければならない。私はこの戦争を起こしたことには何のかかわりもないが、私は今や、平和をもたらすために、誰よりも一層生贄を捧げるつもりだ。 ...
こういった戦争の恐ろしい苛酷さに異議を唱えるのは、雷嵐に異議を唱えるのと同様に無意味なことだ。それは不可避であり、アトランタの人々がもう一度平和に家庭で静かに暮らすことを望むことのできる唯一の道は、戦争を止めることだ。...」

シャーマンは、南部市民の戦意を挫くために、意図的に居丈高に書いたのだ。

大戦争を戦った多くの将軍たちと同様に、シャーマンは戦争に辟易し、軽々しく戦争を口にする連中を憎んだ。1879年、ミシガン州軍事学校での演説:

「...戦争は、よく言って蛮行である。 (War is at best barbarism.) ...戦争の栄光とは戯言に過ぎない。更なる血を、更なる復讐を、更なる廃虚をと声高に叫ぶのは、戦場で一発の銃弾も撃ったことがなく、傷ついた者たちの苦痛の叫びや苦悶の呻きを聞いたことのない連中だ。戦争は地獄だ。(War is Hell.)

シャーマン将軍の士官学校時代 [アメリカ南北戦争]

シャーマンは『回顧録』の中で士官学校時代を次のように総括している。

「軍事教練と教育の日課は当時すっかり確立していた。そしてそれ以来全く同じままであった。ほんの概要だけを示してもこの著書をどうしようない分量に膨らませてしまう。それゆえ、私は四年間の規定の課程を過ごし、1840年6月に、43名のクラス中6番の席次で卒業したとだけ述べておく。この43名は、当初このクラスを構成していた百名以上から残った全てであった。士官学校で私は良い軍人とは見られていなかった。というのは、将校に選ばれたことは一度もなく、四年間を通して平兵士のままであった。当時は、今と同じように、服装と行儀が宜しく、規則に厳格に従うことが将校に要求される資質であった。想像するに私はそれらのいずれにも卓越していなかったのであろう。学業では、私はいつも教授たちから大いに称賛されていた。そして大概最上級に評価された。特に製図、化学、数学、物理学で。私のデメリット(罰点)の学年あたりの平均は、だいたい百五十点で、それが私の席次を4番から6番に下げた。」

シャーマンに、どうだ、デメリット年間150点とはすごいだろうと自慢されても、それがどの程度の水準なのかわからなかった。

後に見つけた John C. Oeffinger 編 "A Soldier's General" という本は、南軍の将軍 Lafayette McLaws に関するものであるが、この中に、士官学校における McLaws のデメリットが書かれていた。McLaws はシャーマンより2学年下、1842年卒業で、席次は56名中48番であった。

この本によれば、McLaws のデメリットは学年が上がるに連れて増えた。

初学年:38点、91番/231名
二学年:70点、166番/233名
三学年:98点、176番/219名
最終学年:147点、178番/207名

McLaws と比べると、なるほどシャーマンはすごかったのだと納得する。

因みに、ロバート・リーは、4年間の在学中におけるデメリットの合計が0という”救い難いような”良い子であった。

シャーマン将軍の名前の話 [アメリカ南北戦争]

南部人にとって悪魔と同義であるシャーマン将軍はどのようにして生まれたか...

シャーマンの父親 Charles Sherman 氏は、オハイオ州ランカスター在住の判事であった。
彼はある時悪魔の啓示を受けて、将来男の子ができたらテカムセという名前をつけようという思いに取り憑かれた。

Sherman 氏は、先ずは Mary さんという女性と結婚した。そして、男の子が産まれた。
Sherman 氏さっそく、
「この子はテカムセという名前にしたいのですが、いかがでしょうか。」
と Mary さんにお伺いを立てた。それに対する Mary さんの返事は、
「男の子の名前はもう決めてあります。」
というもので、その子は Charles と名づけられた。Sherman 氏としては、次に期待することにした。

そしてまた男の子が産まれた。Sherman 氏はまた、
「この子はテカムセという名前にしたいのですが、いかがでしょうか。」
と Mary さんにお伺いを立てた。それに対する Mary さんの返事は、
「男の子の名前はもう決めてあります。」
というもので、その子は James と名づけられた。Sherman 氏としては、次に期待するしかなかった。

その後女の子が3人続き、6番目に男の子が産まれた。Sherman 氏はまたまた、
「この子はテカムセという名前にしたいのですが、いかがでしょうか。」
と Mary さんにお伺いを立てた。幸い、Mary さんの名前は品切れになっていたので、Sherman 氏は望み叶ってその男の子にテカムセという名前をつけることができた。これは1820年2月のことであった。

かくして、南部人にとっての悪魔は誕生した...

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