ニュートン -ハイドパークの銃撃戦- [ワイルドウエスト]

§ ニュートン -ハイドパークの銃撃戦-

 カンザス州ニュートンは、鉄道がニュートンに到来した1871年と、鉄道がウイチタに達した1872年の2シーズンだけ、主要な「牛の町」の1つであった。

 ニュートンは、二人の開拓者によって1871年3月に創設された。そこはウイチタの北約30マイル、アビリーンの南約60マイルにあった。サンタフェ鉄道がその地点を通るという噂を聞くと、入植者が集まった。7月17日、鉄道がその地点に達したときまでに、ホテル1軒、鍛冶屋1軒、そしてサルーン1軒が既に建てられていた。アビリーンの「牛の町」の創設者であり、当時アビリーンの市長であったジョセフ・マッコイ(Joseph McCoy)は、ニュートンに家畜置場を建設する監督をした。間もなく、27軒のサルーン、8軒の賭博ホール、10軒のダンスホールを持ち、「ハイドパーク」として知られる売春宿の地区が出来上がった。同様にホテル、レストラン、雑貨店などの基本的な施設が用意され、到来する牛の取引の関係者の需要を満たした。町は完全な無法状態であった。

 ニュートンの市民は、ウイチタ&サウスウエスタン鉄道の建設のための郡債券の発行に12,000ドルを援助する件の賛否について、1871年8月11日に投票することを計画した。このための臨時警官として、マイク・マクラスキー(Mike McCluskie)とビリー・ベイリー(Billy Bailey)が雇われた。

 マイク・マクラスキーはオハイオ州に生まれ、サンタフェ鉄道に夜警として雇われてカンザスに来ていた。彼はニュートンに来る少し前に、カンザスシティ鉄道のテキサス人A.R. フレンチによって強盗容疑で告発されたが、証拠不十分で無罪となっていた。
 ビリー・ベイリーはウィリアム・ウィルソン(William Wilson)としても知られるテキサス人で、これまでに3度の銃撃戦を経験し、少なくとも2人を殺したと言われていた。ニュートンには、テキサス人の友人が何人かいた。

 2人は、ほとんど何についても常に口論していた。8月11日の投票日にも、2人は日中から口論をしていた。2人は一旦別れたが、夜に入って共にレッドフロント・サルーンで酒を飲み、再び口論を始めた。マクラスキーは激昂して、力一杯ベイリーを殴ったので、ベイリーはドアの外まで跳ばされて地面に打ちつけた。マクラスキーはベイリーを追って外へ出た。ベイリーは拳銃を抜いて立ち上がったが、マクラスキーは拳銃を抜き先にベイリーを撃った。2発のうち1発がベイリーの胸に当たり、ベイリーは翌日に死亡した。

 翌日、マクラスキーは忠告されてニュートンを去った。しかし彼は、8月19日の夕方、ニュートンに戻ってきた。ベイリー殺害の件は、ベイリーが過去に2人を殺したことで知られているので、正当防衛認められると考えたためと言われている。彼は、夜の10時頃ハイドパークにあるペリー・タトルのダンスホールへ行き、テキサス人の友人ジム・マーチンとともに、ファロ・ゲームをして楽しんでいた。

 その間、マクラスキーが戻ったことを知ったビリー・ベイリーの友人のテキサス人たちは、ベイリーの復讐にマクラスキーを殺す計画を立てていた。それは、ヒュー・アンダーソン(Hugh Anderson)、ビリー・ガーレット(Billy Garrett)、ヘンリー・カーニス(Henry Kearnes)、ジム・ウィルカーソン(Jim Wilkerson)の4人であった。

 彼らの頭目ヒュー・アンダーソンは、テキサス州ベル郡の裕福な牧場主の息子であった。この年、アビリーンへ牛をドライブする途中で、ボスのビリー・コーロン(Billy Cohron)を殺したメキシコ人カウボーイ、ジュアン・ビデノ(Juan Bideno)を、ジョン・ウェズリー・ハーディンとともに追跡して殺害に協力していた。

 日が変わった20日の午前2時頃、ガーレット、カーニス、ウィルカーソンの3人がタトルのダンスホールに入ってきた。彼らは人混みを分け入り、マクラスキーがファロをしているテーブル近くに場所を占めた。やがてアンダーソンが入ってきた。彼は、拳銃を抜いて真直ぐマクラスキーに近づき、"You are a cowardly son-of-a-bitch! I will blow the top of your head off!"と叫んだ。マクラスキーの友人ジム・マーチンは椅子から跳びあがってアンダーソンを止めようとしたが、アンダーソンは彼を無視してマクラスキーを撃った。1発がマクラスキーの頚を貫通し、致命傷を負わせた。マクラスキーはよろめきながら立ち上がり拳銃を抜いて引金を引いたが、不発に終わり、床に俯せに倒れた。アンダーソンは倒れているマクラスキーの背中を更に撃った。マクラスキーは数時間後に死亡した。

 この後、ガーレット、カーニス、ウィルカーソンの3人は、周囲に向けて発砲し始めた。それは誰かを撃つためではなく、ホールの中の人々を退らせるためであった。元々灯りの乏しい部屋の中は硝煙で視野が遮られた。

 このとき、一人の者が二挺の拳銃を抜き、テキサス人たちに向けて撃ち始めた。最初に弾を受けたのは、マクラスキーの友人ジム・マーチンであった。彼は頸を撃ち抜かれ、ホールのドアから駆け出し、クルムのダンスホールの前の階段に倒れて死亡した。テキサス人たちは拳銃の弾をほとんど撃ち尽くしていたので、十分に反撃できなかった。彼らを銃撃した者は、二挺の拳銃を撃ち尽くすと、ホールのドアから出て行った。ホールには、彼に撃たれた6人の死傷者が残されていた。

   アンダーソンは太腿と脚を撃たれたが、後に回復した。
   ガーレットは肩と胸を撃たれ、後に死亡した。
   カーニスは胸を撃たれ、8月27日に死亡した。
   ウィルカーソンは鼻と脚を撃たれたが、後に回復した。
他の二人は、争いに無関係な、たまたまダンスホールにいたサンタフェ鉄道の関係者であった。
   ヒッキー(Hickey)は脹脛を撃たれたが、後に回復した。
   パトリック・リー(Patrick Lee)は胃を撃たれ、8月22日に死亡した

 この結果が正しいならば、この者が二挺の拳銃から撃った弾10発(各5発装填の場合)あるいは12発(各6発装填の場合)のうちの10発が誰かに当たったことになる。

 この銃撃戦は、ニュートンの「ハイドパークの銃撃戦」(Gunfight at Hide Park)あるいは、「ニュートンの大虐殺」(”Newton’s General Massacre”)と呼ばれ、マクラスキーを含めて5人が死亡し、3人が負傷した。

 この「大虐殺」を行った者は、ジム・ライリー(Jim Riley)であったと言われている。
ジム・ライリーは18歳の結核患者で、この夏にニュートンにやってきた。どういう理由かは不明だが、マクラスキーは彼を引き取って世話をするとともに、拳銃を与えて射撃を教えていた。ライリーは常に二挺のコルト拳銃を携帯し、影のようにマクラスキーに寄り添っていたと言われているが、この夜まで彼が揉め事に関わったことはなかった。

 ジム・ライリーがどこから来たのか誰も知らなかったように、この後彼がどこへ行ったのか誰も知らなかった。

 負傷したヒュー・アンダーソンには、合衆国保安官ハリー・ネヴィルによってマクラスキー殺害の逮捕状が出されたが、執行されることはなかった。友人のテキサス人たちは彼を匿い、事件を知ったテキサスの彼の父親が来て、アンダーソンをテキサスの故郷へ帰す手配をした。

 テキサスの故郷で傷を癒すと、1873年、ヒュー・アンダーソンは再びカンザスへ出発し、メディシンロッジの交易所でバーテンダーの仕事を得た。
 
 やがて、アンダーソンの居所は、マイク・マクラスキーの兄弟アーサー・マクラスキーの知るところとなった。兄弟の殺害者に対する復讐心に燃えていたアーサーは直ちにメディシンロッジに向かい、交易所にいたアンダーソンを呼び出した。1873年7月4日、二人は衆目の前で決闘をした。

 この決闘の状況を伝える資料は、その内容を「神話(myth)」、結果だけは真実と語っているが、それによると:

 アーサー・マクラスキーは、巨漢で全身鹿革の服を着て、拳銃とボウイーナイフを着用していた。彼はアンダーソンに「銃か、ナイフか?」と聞いた。彼よりずっと小柄なアンダーソンは前者を選んだ。

 二人は背中合わせに立ち、ニ十歩、歩み離れた。交易所の所有者ハーディングの合図で、二人は向き合い互いに撃ち合った。初弾は共に外し、マクラスキーが先に第二弾を放ち、アンダーソンの左腕に命中した。アンダーソンは体勢を崩しかけたが膝立ちの姿勢で撃った。弾はマクラスキーの口に当たり、マクラスキーは血だらけになった。激痛と流血で逆上したマクラスキーは、アンダーソンに向かって突進した。アンダーソンは撃ち続け、マクラスキーの胃、続いて肩に命中し、マクラスキーは地面に倒れた。

 見物人はこれで勝負がついたと思ったが、マクラスキーは、倒れたまま顔を起こし、銃をアンダーソンに向けて撃った。弾はアンダーソンの腹に命中した。見物人の何人かが流血の争いを終わらせようとしたが、ハーディングが制止した。

 両者とも弾を撃ち尽くすと、マクラスキーはボウイーナイフを抜き、路上に血の川を残しながらアンダーソンに向かって這って行った。アンダーソンは半ば坐った姿勢でナイフを抜き、マクラスキーの頚に切りつけた。体勢の崩れたアンダーソンの脇腹にマクラスキーのナイフが突き刺さった。こうして二人は共に息絶えた。

 マイク・マクラスキーとビリー・ベイリーの口論に始まったこの復讐劇は、関係者6人、無関係な被害者2人の死亡で幕を下ろした。


【参考文献】
Joseph Rosa “The Gunfighter; Man or Myth?”
WebSite “August, 1871 The Bloodbath: Newton's General Massacre”



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