トゥームストーンとOK牧場の決闘の年表 [ワイルドウエスト]

トゥームストーンとOK牧場の決闘の年表


1877年6月:ヴァージル・アープがアリゾナ準州プレスコットに移る。

1877年9月21日グース台地で銀が発見される。


【1879年】
1879年:トゥームストーンが設立される。

1879年11月:ヴァージル・アープは、合衆国保安官クローリー・デイク(Crawley Dake)によってピマ郡の東側の合衆国保安官代理に指名され、トゥームストーンに移ることを要請される。

1879年12月1日:ジェームズ、ヴァージル、ワイアットのアープ兄弟がトゥームストーンに来る。

1879年12月:アリゾナ準州グラハム郡サフォードで、酔ったジョニー・リンゴーが武器を持たないルイス・ハンコックを撃って負傷させる。

1879年暮:トゥームストーン・ナゲット紙が発行される。(親民主党、親カウボーイ)


【1880年】
1880年1月6日:フレッド・ホワイトがトゥームストーンの町保安官に選ばれる。

1880年5月1日:ジョン・クラムにより、トゥームストーン・エピタフ紙が発行される。(親共和党)

1880年6月22日:マイク・キリーン(Mike Killeen)がオリエンタル・サルーンのバーテンダー、フランク・レスリーを暗殺しようとして、反対にレスリーに撃たれ、数日後に死亡する。

1880年7月25日:キャンプ・ラッカー(Camp Rucker)から盗まれた軍の騾馬と馬がマクローリーの牧場にいるという通報を受けて、ハースト大尉の追跡団が牧場に来た。この中には、ヴァージル(合衆国保安官代理の資格)、ワイアット、モーガン・アープもいた。マクローリーの隣人の牧場主フランク・パターソンとハースト大尉との間で、騾馬と馬を軍に戻すという合意ができたが、戻されることはなかった。(『アープ裁判』でのワイアットの証言)

1880年7月29日:ワイアット・アープはピマ郡保安官チャールズ・シーベル(Charles Shibell)によってピマ郡東部の郡保安官代理に指名される。

1880年7月30日:ハースト大尉は、エピタフ紙に、ポニー・ディール(Pony Diehl)、A.T. ハンズブロウ、マクデマスターズ(Mac Demasters、マクマスターズのこと、McMastersとする資料とMcMasterとする資料がある)が馬泥棒であり、フランク・マクローリーとパターソンが盗まれた馬を隠したと名を挙げた。

1880年8月5日:フランク・マクローリーはナゲット紙にハースト大尉に対する反論を掲載。
フランク・マクローリーはヴァージル・アープに、彼らには関わららないようにと警告する。(『アープ裁判』でのワイアットの証言)

1880年9月:ドク・ホリディがトゥームストーンに来る。

1880年10月10日:オリエンタル・サルーンでドク・ホリディとジョン・タイラーが口論し、サルーンキーパーのミルトン・ジョイスが介入してホリディをサルーンから叩き出す。すぐ後に、ホリディが戻ってきてジョイスを拳銃で撃ち、手を負傷させる。ジョイスはホリディの頭を拳銃で殴り、裁判所へ連れていく。ホリディは罰金を払う。

1880年10月28日:カウボーイたちが街路で騒いで発砲し、制止に来た保安官フレッド・ホワイトがカーリー・ビル・ブロシウスの銃を取り上げようとしたとき、銃が発射されホワイトは撃たれる。ワイアット・アープがカーリー・ビルの頭を拳銃で殴り留置する。ホワイトは死亡する前に事故だったと語り、カーリー・ビルは翌年1月に釈放される。
この事件はカーリー・ビルが「カーリ-・ビル・スピン」のトリックを使ってホワイトを撃ったとして西部中に広まり、カーリー・ビルを「大物」に仕立て上げる話が作られることになる。

1880年10月30日:町保安官ホワイトの死亡を受けて、ヴァージル・アープが町保安官代行に指名される。
この二週間後の臨時選挙で、ベン・シッピィ(Ben Sippy)がヴァージルを破って町保安官に選ばれる。この選挙ではクラムはシッピィを支持した。

1880年11月2日:ピマ郡保安官の選挙で、チャールズ・シーベル(民主党)がボブ・ポール(Bob Paul)(共和党)を破って選ばれる。
後に投票の不正が指摘され、数え直しの結果、翌年4月にボブ・ポールがピマ郡保安官となる。

1880年11月9日:ワイアット・アープはピマ郡東部保安官代理を辞任する。後任にジョン・ビーハンが指名される。


【1881年】
1881年1月半ば:前年末に盗まれたワイアット・アープの馬が、チャールストン(当時ピマ郡)でビリー・クラントンが所有しているのが見つかり、ワイアットはホリディと共に取り返しに行く。

1881年1月14日:チャールストンで、賭博師 Johnny “Behind the Douce” O’Rourkeが鉱山技師W.P. シュナイダーを射殺する。地元警官は犯人を急いでトゥームストーンに連れていく。チャールストンとトゥームストーンの暴徒が集まったが、市保安官シッピイは、ビーハンとヴァージルらによって犯人をツーソンに馬車で急送させる一方、暴徒を鎮まらせる。

1881年1月遅く(あるいは2月):ワイアット・アープはジョン・タイラーをオリエンタル・サルーンから追い出し、ファロ・ディーラーの地位と利益の四分の一を得る。賭博場を任せるため、ルーク・ショートとバット・マスターソンを呼ぶ。

1881年2月1日:ピマ郡東部がコチーズ郡(Cochise County)として設立され、トゥームストーンが郡庁となる。トゥームストーンが自治体市として認可される。
トゥームストーンの市長選挙でジョン・クラムが選ばれる。

1881年2月10日: アリゾナ準州のフレーモント知事によってコチーズ郡保安官にジョン・ビーハンが指名される。

1881年2月21日(25日、28日などの説がある):ルーク・ショートは賭博師チャーリー・ストームス(Charlie Storms)と口論の末撃ち合いとなり、ストームスを射殺する。ショートは逮捕されたが正当防衛で無罪となる。

1881年3月15日:ベンソン駅馬車強盗事件
コチーズ郡ベンソン行きの駅馬車が強盗に襲われる。強盗団と護衛のボブ・ポール(4月に郡保安官になる)との銃撃戦となり、強盗は失敗したが、御者バド・フィルポットと乗客一人が殺害される。
追跡団により強盗団の馬係ルーサー・キングが逮捕され、犯人がビリー・レナード、ジム・クレイン、ハリー・ヘッドと知れる。(いずれもカウボーイとして知られていた。)
追跡団が三週間ほど追跡したが、犯人を捕えられずにあきらめる。
ルーサー・キングは何者かの手引きで留置所から逃亡。
犯人の一人、ビリー・レナードとドク・ホリディは友人であったので、ホリディが強盗に関与したと疑われる。ビッグ・ノーズ・ケイトは、ビーハンとジョイスによって酒に酔わされてドク・ホリディが強盗に関与したという宣誓書に署名したが、後に否定する。

1881年4月:バット・マスターソンはダッジシティから弟ジムの危機を知らせる差出人不明の電報を受け取り、ダッジシティに向かいトゥームストーンを去る。
ルーク・ショートもトゥームストーンを去る。

1881年4月:ピマ郡保安官選挙の投票数え直しの結果、ボブ・ポールが郡保安官となる。
不正は、アイク・クラントン、ジョニー・リンゴーによるものであった。

1881年4月19日:市域内での武器携帯禁止条例
トゥームストーンでの犯罪を減らすため、市評議会は#9市条例を通過させる。これは、武器(ボウイー・ナイフ、短剣(dirk)、拳銃、ライフル銃)を携帯する者は誰でも、市に入ったとき武器を貸馬車屋(livery)あるいはサルーンに置くことを要求する。

1881年春:ジョセフィン・マーカスがトゥームストーンに来て、ジョン・ビーハンと同棲するが、二三か月後に別れる。

1881年5月25日:カーリー・ビルはゲイリーヴィル(コチーズ郡)で十人ほどのカウボーイたちと酒を飲んでいたとき、リンカーン郡戦争の関与者の一人ジム・ウォレスがビリー・ブレッケンリッジ郡保安官代理を侮辱したのを怒り、ブレッケンリッジに謝罪しないならば殺すと脅し、逆にウォレスに撃たれて頬と首に負傷する。

1881年6月2日:ワイアットとアイクらの密約
ワイアット・アープはアイク・クラントン、フランク・マクローリーおよびジョー・ヒルと密談し、彼らがベンソン駅馬車強盗の犯人たちをおびき出し、ワイアットが犯人たちを逮捕する、その代わりにウェルズファーゴの懸賞金\1,200×3は全て彼らに渡すことで同意をとる。これは11月の郡保安官選挙でワイアットに有利なることが目的であった。(アープ&ホリディ裁判でのワイアットの証言、アイクはワイアットと密談したのはアイク一人であったと証言)
後にウェルズファーゴの代理人ウィリアムズからこの密約の内容が漏れて、アイクの名が出たため、アイクはカウボーイたちから仲間を売ったという疑惑を持たれる。その疑惑を否定するめアイクはアープとホリディに対して虚勢を張り「ガンファイト」の直接の原因をつくることになる。

1881年6月6日:市保安官ベン・シッピィは二週間の休暇を取り、その後戻らず。市財産の使い込みが発覚する。ヴァージル・アープが市保安官代行に任命される。後に正式に市保安官に任命される。

1881年6月10日:ベンソン駅馬車強盗の犯人たちは、ハスレット兄弟の牧場で牛泥棒を試み、ヘッドとレナードは銃撃戦で殺される。ハスレット兄弟も死亡する。
これでワイアットとアイクらの密約は役に立たなくなる。

1881年6月22日:トゥームストーンで最初の大火事
アーケード・サルーンでタバコの火がウイスキーの樽に引火し爆発したことに始まり、トゥームストーンの商業地区の東半分を焼く。

1881年7月遅く:スケルトン・キャニオンの虐殺
メキシコ人密輸業者がスケルトン・キャニオンを通過しているとき、盗賊団(カウボーイ)に待ち伏せされ、多数が殺され、一部がメキシコに逃げ延びた。
この事件の後、メキシコ政府は国境警備を強化する。

1881年8月13日: グアダデルーペ渓谷の虐殺
グアダルーペ渓谷でキャンプしていた牧場主・カウボーイが、早朝にスケルトン・キャニオンの復讐を企てたメキシコ兵によって奇襲され、アイクとビリーの父オールドマン・クラントン (Newman Haynes Clanton) を含む5人が殺害される。その中には、ベンソン駅馬車強盗犯人の最後の一人ジム・クレインも含まれていた。

1881年8月~9月頃:ジョセフィン・マーカスとワイアットとの関係が出来る。

1881年9月8日:ビスビー駅馬車強盗事件
トゥームストーンからビスビー(コチーズ郡)行きの駅馬車が二人組の盗賊に強盗された。
郡保安官代理ビリー・ブレッケンリッジの下に、デイブ・ニーグル、ワイアット、モーガン、ウェルズファーゴ駅馬車会社の代理人マーシャル・ウィリアムズ、フレッド・ドッジの追跡団がトゥームストーンから出て、容疑者としてフランク・スティルウェル、ピート・スペンスを逮捕連行する。
スパイサー判事は証拠不十分として却下し、二人は釈放される。

1881年9月末頃(9月24日、新聞に自警団の編成が告げられて約1週間後):フランク・マクローリーがヴァージル・アープに、ヴァージルが自警団を起こし、カウボーイを処刑しようとしていると言った。ヴァージルが否定したのに対して、フランクは、「私は君に銃を引き渡すことは決してしない。首を絞められるくらいなら、むしろ闘って死ぬことを選ぶ。」と言った。(アープ&ホリディ裁判におけるヴァージルの証言)

1881年10月初旬:保留地を出たアパッチの一団がトゥームストーンの近くを通る。

1881年10月13日:ヴァージル・アープはフランク・スティルウェルとピート・スペンスを再逮捕し、トゥーソンに連行する。

1881年10月中旬頃(11月16日の証言の5-6週間前):ワイアットはアイクから密約をドク・ホリディに喋ったと責められる。ワイアットは否定し、ホリディがツーソンから戻ったら証明できると言う。(アープ&ホリディ裁判でのワイアットの証言)
10月25日から26日の夜、ホリディがアイクに怒っていたのは、この件。

1881年10月22日: ドク・ホリディがモーガン・アープとともにトゥーソンからトゥームストーンに帰る。

1881年10月26日:OKコラールのガンファイト
市民からカウボーイたちが集まって武器を持っているから武装解除したほうがよいという通報を受けて、ヴァージル・アープはワイアット、モーガン、ドク・ホリディを代理に任命し、武装解除に向かう。フレーモント通りのフライの写真館横の空き地で、アイクおよびビリー・クラントン、フランクおよびトム・マクローリー、ビリー・クレイボーンと遭遇し、銃撃戦となる。ビリー・クラントン、フランクおよびトム・マクローリーが射殺され、アイクとビリー・クレイボーンは逃げる。ヴァージルは脹脛に弾を受け、モーガンは肩に弾を受けて重傷。ホリディは腰にかすり傷を負う。ワイアットは無傷。

1881年10月27日:ビリー・クラントンおよびフランクとトム・マクローリーの葬儀

1881年10月29日:ヴァージル・アープは市保安官職を停止される。

1881年10月30日:アイク・クラントンがアープ&ホリディを告発。ワイアット&ホリディは逮捕される。アープ側は保釈金各$10,000を支払う。

1881年10月31日:スパイサー判事による、アープ&ホリディのクラントン&マクローリー殺害告訴に対する予審が始まる。

1881年11月3日:フランクとトムの兄、ウィリアム・マクローリーがトゥームストーンに着き、告訴側に加わる。

1881年11月7日: ワイアットとホリディは裁判中留置所に拘置される。ヴァージルとモーガンは傷の療養中のため免除される。

1881年11月30日:スパイサー判事による無罪判決。

1881年12月:トゥームストーンに「(殺害予定者)リスト」の噂が広まる。

1881年12月14日:クラム市長はワシントン D.C. に向けて駅馬車で旅立ち、途中で銃撃を受けるが、駅馬車を降り無事帰還する。
スパイサー判事は、町を去るようにとの脅迫文を受け取るが、翌日のエピタフ紙で脅迫には屈しないと宣言。

1881年12月28日:午後11:30頃、ヴァージル・アープは、オリエンタル・サルーンを出て家に向けてアレン通りを歩いていたとき待伏せに遭い、散弾銃弾を受けて重傷を負う。
現場にアイク・クラントンの帽子が発見されたが、アイクはアリバイを示す。
この後、ワイアットは、合衆国保安官デイクに、ヴァージルの代わりに合衆国保安官代理に指名されることを要請し、指名を受ける。


【1882年】
1882年1月4日:市選挙でジョン・カー(John Carr)が市長に、デイブ・ニーグル(Dave Neagle)が市保安官に選ばれる。

1882年1月17日:通りでドク・ホリディとジョニー・リンゴーが決闘寸前で、フリン保安官(当時まだヴァージルの代行)およびワイアットによって止められる。

1882年2月:アイク・クラントンはアープ兄弟とホリディをコンテンション(Cochise郡)で再度裁判にかけようとしたが、アープ支持者の多数の市民が武装してアープたちをエスコートして行ったため、裁判は行われなかった。

1882年3月18日:モーガン・アープの暗殺
午後10:50頃、ハッチのビリヤード場で入り口に背を向けていたモーガン・アープは、背中に銃弾を受けて死亡する。続いて、壁際の椅子に坐っていたワイアットの頭上を銃弾がかすめる。
21日の検死審問で、夫に虐待されたピート・スペンスの妻マリエッタが、犯人としてピート・スペンス、フランク・スティルウェル、インディアン・チャーリー(フロレンティノ・クルス)の名を挙げた。

1882年3月20日:モーガンの死の知らせを受けて、ワイアットの末弟ウォーレンがトゥームストーンに来る。
モーガン・アープの遺体をカリフォルニアに送る途中、アープ一行はツーソンで、スティルウェル、スペンス、アイクの待伏せを受けたが、予め知らせを受けていたため、逆にフランク・スティルウェルを殺害したとされる。

1882年3月21日:スティルウェルの死体が発見され、アープ一行に逮捕状が出される。
アープ一行はトゥームストーンに来て、ビーハンと出会うが、アープ一行は妨げられることなくツゥームストーンを去る。

1882年3月22日:アープ一行(ワイアット、ウォーレン、ホリディ、シャーマン・マクマスターズ、クリーク・ジャック・ジョンソン、テキサス・ジャック・ヴァーミリオン)がピート・スペンスの材木切り出し場に行く。スペンスはトゥームストーンに行って不在。アープ一行はフロレンティノ・クルスを射殺したとされる。
1882年3月23日:フロレンティノ・クルツの死体が発見される。
ビーハンの追跡団がアープ一行を追跡するが、ビーハンは元々ワイアットと正面切って対決する気はなく、トゥームストーンに引き返す。

1882年3月24日:アイアンスプリングでの銃撃戦
アープ一行はアイアンスプリングでカウボーイと遭遇し、銃撃戦でワイアット・アープがカーリー・ビルを射殺したとされる。
この後アープ一行はアリゾナを去り、コロラドに向かう。

1882年5月15日: ドク・ホリディはアリゾナ準州が発行したフランク・スティルウェル殺害に対する逮捕状によりコロラド州デンバーで逮捕される。ワイアット・アープの依頼を受けたバット・マスターソンの働きかけで、コロラド州知事はホリディをアリゾナに引き渡すのを拒否する。

1882年7月14日:ウエストターキークリーク渓谷(コチーズ郡)で、木の幹にもたれたジョニー・リンゴーの死体が発見され、自殺と裁定される。


1887年6月1日:牛泥棒として追跡されていたアイク・クラントンが、アリゾナ準州アパッチ郡のジム・ウィルソンの牧場でジョナス・ブライトンに射殺される。

1887年11月8日:コロラド州グレンウッドスプリングでドク・ホリディ死去。

1905年10月19日:ネバダ州ゴールドフィールドでヴァージル・アープ死去。

1929年1月13日:カリフォルニア州ロサンゼルスでワイアアット・アープ死去。

1931年:スチュアート・レイクがワイアット・アープの伝記 “Wyatt Earp: Frontier Marshal” を出版。


【参考資料】
Web Site “McLaury Brothers in Tombstone”
Web Site “The O.K. Corral Trial”
『西部の町の物語』(ダグラス・D・マーティイン、高橋千尋訳、晶文社、1986.03.20発行)
Wikipeida


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