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神功東征=カウンターアタック説 [日本古代史]

1つの問題について、10の異なる説があるとすれば、1つの説が正しく他の9つの説が誤りであるか、あるいは10の説全てが誤りかである。このようなことが言えるものに、『経済学』と『日本古代史』がある。それ故、素人でも好きなことが言える。そこで私も、『トンデモ説』を考えてみた。

一般に、
(A) 邪馬台国と大和朝廷の関係については、
1.邪馬台国大和説
2.邪馬台国東遷説
3.大和朝廷による邪馬台国征服説
4.大和朝廷、邪馬台国並立説(征服はなかった)
2~4は、邪馬台国非大和説である。

また、
(B) 倭の五王と大和朝廷の関係については、
1. 倭の五王=大和朝廷説
2. 倭の五王=九州王朝説
がある。

一方、『古事記』『日本書紀』では、
〇 大和朝廷は、神武東遷(東征)以来一貫して大和にあり、邪馬台国は現れない。(A1、A2を否定)
〇 大和朝廷は、少なくとも景行天皇の時代には(北)九州を支配下においていた。(A4を否定)
〇 記紀には倭の五王に相当する事績は書かれていない。(B1を否定)

すると、記紀は(A3)かつ(B2)説ということになる。
私は、『日本書紀の原理主義者』ではないが、記紀は、大筋としてはデタラメも架空の話のでっちあげもないと思っている。
では、(A3)と(B2)をどのようにして両立させることができるか?

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大和に邪馬台国はなかった [日本古代史]

古事記には邪馬台国は出てこない。
これは、単に邪馬台国という名前が出てこないだけではなく、邪馬台国に相当する事績が一切書かれていないという意味である。

もう一つの根拠として、古事記から得られる実年代がある。
古事記には「割注」という形で(一部の)歴代天皇の崩年干支が書かれている。崩年干支だけでは実年代を特定できないが、実年代を特定するもう一つの手がかりとして、応神天皇の時代に百済の照古王(新肖古王)が現れる。新肖古王は4世紀後半の人物である。歴代天皇の在位期間が60年を超えることはないと仮定すると、これから、応神天皇の崩年干支「甲午」は西暦394年となる。
ここから、同じく歴代天皇の在位期間が60年を超えることはないと仮定して、仲哀、成務天皇の崩年を、それぞれ「壬戌」=西暦362年、「乙卯」=西暦355年とすることができる。景行、垂仁天皇の崩年干支は書かれていないので、崇神天皇の崩年干支「戊寅」は西暦318年、あるいは西暦258年となる。
また、崇神天皇の時代、つまり早くても西暦258年までは、大和王権の勢力圏は九州には達していなかったと考えられる。

一方、どこにあったとしても邪馬台国は、卑弥呼が魏に朝貢した西暦239年までには北九州を支配していたはずである。

従って、「古事記によれば」、大和に邪馬台国はなかったことになる。
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