マクラウド流の経済学派の分類 [マクラウドの経済学]

マクラウドの経済学 -マクラウド流の経済学派の分類

H.D. Macleod "Economics for Biginners" より


 マクラウドによれば、古代ギリシャ・ローマの著者は一致して、交換可能性、あるいは売買可能性が富の唯一の本質であるとした。古代ローマでは、この売買可能なもの即ち富を3種類に分類した。それは、物質的なもの、労働、そして多種多様な抽象的権利(abstract right)であった。

 中世ヨーロッパでは、金銀だけが富であるとされていた。これが近世になると、「重商主義」に発展し、戦争と一般国民の窮乏化を招いた。

 その中から近代経済思想が生まれるが、(マクラウドによれば)試行錯誤の末に、再び古代の考えに戻るのである。

 H.D. マクラウドは、この近代以降から彼の時代(大体19世紀終わりまで)の経済学を、「富の定義」に従って三つの学派に分類した。


1.第一学派

 一般には「フィジオクラット」(日本では「重農主義」とも訳される)と呼ばれる学派で、近代経済学は彼らに始まる。

 マクラウドによれば、

 『最初の経済学者の第一学派は1750年頃フランスで生じた。当時この国は、ルイ14世の戦争、ロー(John Law)の紙幣計画の誤り、商業あるいは諸国間の生産物の自由貿易に対する禁制と妨害、そして法外に高い徴税システムの結果から、甚だしい悲惨さを蒙っていた。

 少数の高潔な哲学者たちは、彼らを取り巻く耐え難い悲惨さについて熟考し、人間の社会的関係について自然自体に基づく偉大な自然の科学、永遠の真実の幾つかの原理があるに違いなく、それに違反したことが、彼等の周囲に見る恐ろしい悲惨さの原因である、という思想を生み出した。彼らはこれを自然権(Natural Right)の科学と名付け、彼らの目的は、社会的関係におけるすべての人々の自然権についての理論的科学(abstract science)を発見し制定することであった。

 この科学は、人々と政府の関係、人々相互の関係、そして資産(property)との関係を包含した。彼らはこの偉大な科学を政治経済学(Political Economy)、あるいは国の調整の科学とも呼んだ。それゆえ彼らはエコノミスト、あるいは彼らの構成員の一人がその科学を "Physiocratie"という術語で呼んだことから、フィジオクラット(Physiocrates)と呼ばれた。』

 『フィジオクラットは、経済のシステムを「富の生産、分配、そして消費」と呼んだ。この語句は一体不可分のものであり、大地の産物の通商と交換を意味した。

 生産とは、大地からの原料生産物を入手して商業にもたらす。原料生産物は最終的に使用されるまでに加工され、別の場所に輸送され、一回以上転売されて、最終的な買手すなわち消費者の手に渡ることで完了する。これらすべての中間過程は取引あるいは分配と呼ばれた。最終的な買手である消費者は、彼自身の生産物を売ることでそれを手に入れる。すなわちこのシステムは、生産物と生産物の通商あるいは交換である。

 フィジオクラットは、富を大地の産物で通商にもたらされ交換されるものだけに限定し、生産者自身が消費する生産物を除外した。彼らは、労働と権利を富という術語から明確に除外した。なぜなら、労働と権利を富と認めることは、富が無から創造できることを認めることになると彼らは主張した。人間は何も創造できない、そして無からは何も現れないからである。

 彼らは、商業は国を富ますことだできないと主張した。なぜなら、それは等価なものと等価なものを交換するだけであり、その結果、販売による売り手の利得は国の富の増加ではないからである。

 彼らは、加工における職工の労働は不毛あるいは非生産的であると主張した。なぜなら、彼らの労働は生産物に価値を加えるが、それでも加工の過程の間に労働者は彼の生計を消費する。そして生産物の価値の上昇は、労働の間に消滅した生計の価値を表しているに過ぎない。それゆえ、価値の増加はあるが、富の増加物はない、と彼らは主張した。』


2.第二学派

 アダム・スミスに代表される、古典派経済学である。

 マクラウドによれば、

 『商業も加工業も国を富まさないというフィジオクラットの異常な学説は、(繁栄している国・地方は商工業の盛んな国・地方であるという)歴史の最も明白な事実と矛盾するので、ヨーロッパ中で彼らに対する反動が自然に生じた。』

 『スミスの著作は「生産と分配」から始まるが、彼はこの術語の創始者であるフィジオクラットにより使われた意味をよく知っていた。そして彼は、その目的は「交換可能な商品の価値を調整する原理を考察する」ことであると言った。かくして彼は「生産と分配」という術語の真の意味は価値の理論であると知る。』

 『フィジオクラットの学説を知ることなしに、スミスの著作の領域あるいは目的を理解することは不可能である。・・・スミスの著作の明白な目的と領域は、加工業と商業が不毛であり非生産的であるというフィジオクラットの学説への論駁、および、全ての労働は生産的であり国を豊かにすることの証明である。・・・そして、労働は全ての価値とすべての富の唯一の源泉であると考えられるようになった。・・・』

 『ここでは、スミスの一貫性のなさを示すことで十分であろう。富は「土地と労働の年々の産物」という考えから始めた後、人間の能力を、固定資本そして国の富の一部に含めた。かくして労働は富であると認め、経済学者の第二学派の全体は、労働を交換可能な商品と認めた。そして、労働の価値を物的商品の価値と同じように論じた。

 さて、人間の能力は確かに、「土地と労働の年々の産物」ではない。かくして、スミスはすでにフィジオクラットの学術用語から外れた。なぜなら、フィジオクラットは労働を富という術語から明白に除外したからである。科学の観点からは、経済学者の第二学派は正しい。・・・しかしそれは、科学の基本的な概念にとって非常に都合の悪い事柄である。というのは、我々は労働の「生産、分配、そして消費」をどのように語るのであろうか?』

 『それゆえ労働を富に生産、分配そして消費の科学に導入することは、非常に不都合なねじれをもたらした。しかし、それ以上に拙いことが残っている。というのは、スミスは流動資本という術語の下に、銀行券、為替手形その他の有価証券を明確に含めた。しかし、これらは単なる権利あるいは信用である。(※つまり、「土地と労働の年々の産物ではない。)・・・

 経済学の第二学派は、権利を富の種類の一つと認めたが、彼らはこれらの権利について、商業のメカニズムを少しも説明しようとしてこなかった。彼らは、信用と銀行の問題を科学の一般体系の中に導入することを全く試みなかった。

 このように、「富の生産、分配そして消費」という術語は、それが意味したように、交換可能な量がただ一種類であり、交換の種類が唯一の場合に適用されたときのみ理解できることがわかる。一方、第二学派は一致して、労働と権利を富と認めた。そして、それがどんなに真実を含んでいようと、それは第二学派のシステム全体にとって致命的であった。』


3.第三学派

 新古典派に至る学派である。

 マクラウドによれば、

 『1776年--スミスが彼の著作を出版したのと同じ年--に、フランスの哲学者コンディヤック(Étienne Bonnot de Condillac、1714.09.30-1780.08.03) は、彼の『商業と政府』("Le commerce et le gouvernement" )を出版した。これは全く同じ目的--即ち産業における商業と加工業がともに国を豊かにすることを示すことであった。彼は直ちに、経済の科学は商業の科学であるということから始めた。その結果として、フィジオクラットの富の生産、分配と消費としての考えを、一つには、ずっと単純でわかり易い形で、もう一つには、遥かに優れた一般的な形で表現した。・・・』

 『この科学において、富という術語は交換可能な商品に限定された。それが交換の対象である限り、あるいは交換の対象であるように目論まれている限り、そうである。この理由から、恐らく政治経済学は交換の科学と表現するほうが、国富の科学よりも便利である。・・・

 「富の生産、分配そして消費」という表現は、一種類の商品に適用されたときのみ理解可能であるが、他方、交換の科学という表現は全ての種類の交換に適用できることを示している。

 その上、この定義を適用することで、政治経済学あるいはエコノミクスがどのように自然科学であるのかが直ちにわかる。富の生産、分配そして消費という名前に、自然科学との類似を示唆するものがあるであろうか?しかし、交換の科学というもう一つの等価な定義を適用したとき、それが自然科学であると直ちにわかる。なぜなら、3の種類の交換可能な量があり、それゆえ6種類の交換が存在する。科学の目的は、これら交換についての現象の法則、すなわち、これら幾つかの量が交換する数的関係を定めることにある。天球の動作を支配する単一の一般法則があり、それが天体現象を全てを説明するように、交換可能な量の数的関係における全ての変化を支配する単一の一般法則があることを示すのは極めて容易である。かくして、我々は新たな自然科学を創造し、全て単一の一般概念に基づく現象の新たな体系を、一般法則の支配下にもたらした。』


〇マクラウドによる富の分類

マクラウドは、この「交換可能なもの」を次の3種類分類した。

1.Corporeal or Material Property (有形あるいは物的資産)

2.Immaterial Property (非物的資産) :労働あるいは人間の能力

3.Incorporeal Property (無形資産) : 通貨を含む権利(債権)

マクラウドは、この3種類の富の間で6種類の交換(1と1、1と2、1と3、2と2、2と3、3と3)があるとする。


【考察】

 現代の用語でいえば、マクラウドの富の分類のうち、1と2は実体経済に相当する「財・サービス」とまとめられ、3は金融資産に相当する。

 フィジオクラットが、富を「大地の生産物」に限定したこと、加工業(製造業)や商業が富を増さないとしたこと、自家生産自家消費を除外したことは、明らかに誤っている。しかし、彼らが(社会)経済システムを「富の生産、分配、消費」のシステムと定義したことは、(マクラウドの批判に反して)正しい。

 マクラウドの否定に反して、「労働」はサービスとして「生産、分配(取引)、そして消費」される。一方、第二学派(の一部)--それはマルクス主義に至るが--の主張である「労働が全ての価値の唯一の源泉である」という「労働価値説」をマクラウドは強く否定しているが、これはマクラウドが正しい。

 マクラウドの富の分類の3番目の「権利」は、「交換」あるいは「市場取引」(それも「二期間取引」とされるもの)のための手段あるいは媒体であって、生産・消費の対象ではない。確かに、スミスの『諸国民の富』は、体系立った内容ではないから、一貫性のなさもあるだろうが、「「富の生産、分配そして消費」という術語は、それが意味したように、交換可能な量がただ一種類であり、交換の種類が唯一の場合に適用されたときのみ理解できる」という批判は強引すぎる。生産・消費の対象である物的資産・労働と、流通媒体であり交換の場だけで使われるる金融資産(債権)は、同じように富として扱われるとしても、異なる性質を持っている。

 マクラウドや彼の言う第三学派--それは「新古典派」に至るのだが--経済学の対象を「交換」あるいは「市場取引」に限定し、生産と消費を対象から外したことには、19世紀当時の社会科学の状況がある。

 すなわち、前世紀における「ニュートン力学」の成功の余波である。僅かな定義と方程式で、天体の運行を説明し、予測できたことは、社会科学者にも「科学とはかくあるべし」という信念を抱かせた。マクラウドが経済を考察するとき、常に念頭に置いていたのは、ニュートン力学に倣い、経済を数学的に記述し、説明することであった。

 しかし、生産と消費を数学的に記述することは困難であり、最も容易なのが「市場取引」の場面であったのだ。ここでは取引対象のすべてが単一の指標である価値あるいは価格として表わされる。

 新古典派経済学は、難しい数学を駆使して「均衡理論」を完成させた。新古典派の均衡理論は、発展も衰退もなく、好況も不況もなく、100%の信用があるからマネーも金融も存在せず、時間の次元も存在しない。そして、それはほとんど役立たない。なぜなら、産業革命と資本主義以降の発展し変化する市場は均衡していないからである。

 にもかかわらず、市場の「均衡仮説」は信じられ、あるいは(誤って)市場経済検討の前提とされ続けている。

 新古典派以降の経済学では、生産は「供給」、消費は「需要」として、市場システムの外部から与えられる「与件」、その変動は「(外部)ショック」として扱われる。

 しかし、経済システムはフィジオクラットが説いたように「(富の)生産、分配、そして消費」のシステムであり、この「生産、分配、消費」は一体不可分である。分配(市場取引)の結果は、それが不均衡な場合、消費を変動させ、それは次の生産と分配に影響する。つまり、分配の結果は、市場変動の「内因」となる。

 さらに、社会全体でみれば、総産出を再投資と消費にどう分配するかが、社会的な利益率となる。消費の割合が大きいほど、つまり、生産性が高いほど利益率は大きくなる。その生産性の向上、イノベーションが生じるのは生産の場である。しかるに、市場取引だけを経済学の対象とすると、この利益率は根拠のない「与件」として与えられ、経済学の対象から除外されている。




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