コルトと西部の拳銃 その2 [ワイルドウエスト]
§コルトと西部の拳銃
(その2)金属カートリッジ・レボルバー
1850年代初期、コルト社の従業員であったローリン・ホワイト(Rollin White)は、金属カートリッジを使ったレボルバーを開発した。当時の金属カートリッジは、強度のあるものが作れず、ホワイトのレボルバーは .22インチ口径、リムファイアで火薬の量も少なく(4グレイン)非力であったので、コルトはこれを玩具として顧みなかった。ホワイトはコルト社を退社し、その後も開発を続けた。1855年特許を取り、1856年その独占使用権をスミス&ウェッソンに与えた。この特許の主要な点は、シリンダーの穴(薬室、chamber)が前後に貫通しているという、今では当たり前すぎるものであった。
1857年に出たスミス&ウェッソンによる金属カートリッジを用いた最初の「モデル1」はローリン・ホワイトのものとほとんど同じで、 .22インチ口径、5連発であったが、少しずつ大口径化がなされた。1861年の「モデル2」は .32口径6連発となった。このモデル1と2は、引金の周囲を囲うトリガー・ガードではなく引金の形をしたフレームに引金が収容され、ハンマーをコックすると引金が前方に出る形式をしていた。装填は、トップヒンジ方式で銃身を上に跳ねあげ、シリンダーを前方へ引き出して本体から外し、シリンダー単体でおこなう。モデル2は、火薬の量が9グレインで非力ではあっても、金属カートリッジの利便性から、南北戦争中に非常に人気があった。
1866年寺田屋で襲撃されたとき坂本竜馬が使用した拳銃は、このS&W モデル2であったとされている。また、1876年ワイルド・ビル・ヒコックがデッドウッドで暗殺されたき、モデル2を携帯していたという。
スミス&ウェッソンは更に強力な拳銃を開発していたが .44インチ口径の「モデル3」が市販されたのは1869年になってからであった。モデル3は、金属カートリッジによる装填の優位だけでなく、「中折れ式」であったので、空薬莢を一度に排出できた。
特許によって守られたスミス&ウェッソンの金属カートリッジ・レボルバーの出現は、パーカッション式レボルバーのメーカーを苦境に陥れた。レミントン社は、1868年スミス&ウェッソンに特許料を払い、リムファイア金属カートリッジを使えるように改造したコンバージョン・タイプを製造した後、1875年からセンターファイア金属カートリッジを使用したニューモデル・アーミーを製造した。
コルト社は、ローリン・ホワイトの特許を回避して金属カートリッジを使用する試みを幾つかしたがものにならなかった。さりとて、あと少しで期限切れとなる特許に高い特許料を払う気にならず、ホワイトの特許が切れる(1869年4月)のを待つことにした。
そして1873年から発売されたのが、センターファイア金属カートリッジを使用する「シングルアクション・アーミー」略してS.A.A.であった。.45インチ口径であったので、「コルト45」とも呼ばれ、“西部に平和をもたらした”とされることから、「ピースメーカー」とも呼ばれる。
S.A.A.は、カートリッジの装填および空薬莢を排出するのに、ハンマーをハーフコックにしておいて、シリンダーの右背面に設けられたローディング・ゲートから、シリンダーを手で回転させながら1発ずつ排出・装填しなければならない。カートリッジの再装填にかかる時間ではスミス&ウェッソンの中折れ式と比べて明らかに不利であったが、命中精度、打撃力、造りの単純さからくる過酷な環境・使用への耐久性、信頼性といった点で優り、「西部を代表する拳銃」となった。
合衆国陸軍は、1872年から1876年にコルトS.A.A.、スミス&ウェッソン・モデル3、レミントン1875ニューモデル・アーミーの比較テストを行い、コルトS.A.A.を採用した。
一般に、
銃身長7 1/2インチのモデルは、「キャバルリー・モデル」(Cavalry Model)、
銃身長5 1/2インチのモデルは「アーティラリー・モデル」(Artillery Model) 、
銃身長4 3/4インチのモデルは、「シビリアン・モデル」(Civilian Model)、
銃身長4インチでエジェクターロッドを省いたモデルは「シェリフズ・モデル」(Sheriff’s Model)
と呼ばれた。民間における拳銃の使用の大部分は、サルーンの中での撃ち合いなど、数メートル以下の近距離でなされた。そのような用途には、拳銃を取りだしやすく、取り回しの容易な短い銃身が選ばれるようになった。
コルトS.A.A.とともに西部を代表する小銃ウインチェスターM1873用のカートリッジ「.44-40」(.44インチ口径-40グレインの火薬、.45コルトのカートリッジも40グレインの火薬を使用)を使用するモデルが1878年から供給され、「フロンティア・モデル」と呼ばれた。
イギリスのメーカー、ウェブリー(Webley)社は、1867年ダブルアクション式レボルバーRIC (Royal Irish Constabulary)モデルを出した。1872年には「ブルドッグ」(”The British Bull Dog”)という同じくダブルアクションのポケット・ピストルを出した。
これらから米国内でもダブルアクションへの関心が高まり、コルト社は1877年にM1877ダブルアクション・レボルバーを出した。
.41口径は「サンダラー」 (”Thunderer”)、
.38口径は「ライトニング」 (”Lightning”)、
.32口径は「レインメーカー」 (”Rainmaker”)
と呼ばれた。ビリー・ザ・キッドは1881年に射殺されたときに、コルト・サンダラーを持っていたと言われている。
1878年のM1878は
.45口径で 「ダブルアクション・アーミー」あるいは「フロンティア」
と呼ばれた。
これらは、S.A.A.を基にダブルアクション化したもので、S.A.A.と同様にカートリッジはローディング・ゲートから1発ずつ装填・排出する。これらコルトのダブルアクション・レボルバーのグリップは、S.A.A.の優美な形状と異なり、その形状から「鳥の頭」(bird’s head)と呼ばれた。
コルトのダブルアクション・レボルバーはヨーロッパでも西部でも人気がなかった。西部のガンマン、あるいはガンマンを気取る若者は、ダブルアクション式の引金の重さを嫌い、軽蔑したという話が伝わっている。
十九世紀末から無煙火薬が使用されるまでは、これらの全ては黒色火薬を用いていた。
【参考文献】
Wikipedia
別冊Gun 「コルトのすべて」 1991.11.15 発行
Joseph Rose “The Gunfighter: Man or Myth?”, 1969
Joseph Rose “Age of the Gunfighter”, 1993
橋下毅彦著『「ものづくり」の科学史』
(その2)金属カートリッジ・レボルバー
1850年代初期、コルト社の従業員であったローリン・ホワイト(Rollin White)は、金属カートリッジを使ったレボルバーを開発した。当時の金属カートリッジは、強度のあるものが作れず、ホワイトのレボルバーは .22インチ口径、リムファイアで火薬の量も少なく(4グレイン)非力であったので、コルトはこれを玩具として顧みなかった。ホワイトはコルト社を退社し、その後も開発を続けた。1855年特許を取り、1856年その独占使用権をスミス&ウェッソンに与えた。この特許の主要な点は、シリンダーの穴(薬室、chamber)が前後に貫通しているという、今では当たり前すぎるものであった。
1857年に出たスミス&ウェッソンによる金属カートリッジを用いた最初の「モデル1」はローリン・ホワイトのものとほとんど同じで、 .22インチ口径、5連発であったが、少しずつ大口径化がなされた。1861年の「モデル2」は .32口径6連発となった。このモデル1と2は、引金の周囲を囲うトリガー・ガードではなく引金の形をしたフレームに引金が収容され、ハンマーをコックすると引金が前方に出る形式をしていた。装填は、トップヒンジ方式で銃身を上に跳ねあげ、シリンダーを前方へ引き出して本体から外し、シリンダー単体でおこなう。モデル2は、火薬の量が9グレインで非力ではあっても、金属カートリッジの利便性から、南北戦争中に非常に人気があった。
1866年寺田屋で襲撃されたとき坂本竜馬が使用した拳銃は、このS&W モデル2であったとされている。また、1876年ワイルド・ビル・ヒコックがデッドウッドで暗殺されたき、モデル2を携帯していたという。
スミス&ウェッソンは更に強力な拳銃を開発していたが .44インチ口径の「モデル3」が市販されたのは1869年になってからであった。モデル3は、金属カートリッジによる装填の優位だけでなく、「中折れ式」であったので、空薬莢を一度に排出できた。
特許によって守られたスミス&ウェッソンの金属カートリッジ・レボルバーの出現は、パーカッション式レボルバーのメーカーを苦境に陥れた。レミントン社は、1868年スミス&ウェッソンに特許料を払い、リムファイア金属カートリッジを使えるように改造したコンバージョン・タイプを製造した後、1875年からセンターファイア金属カートリッジを使用したニューモデル・アーミーを製造した。
コルト社は、ローリン・ホワイトの特許を回避して金属カートリッジを使用する試みを幾つかしたがものにならなかった。さりとて、あと少しで期限切れとなる特許に高い特許料を払う気にならず、ホワイトの特許が切れる(1869年4月)のを待つことにした。
そして1873年から発売されたのが、センターファイア金属カートリッジを使用する「シングルアクション・アーミー」略してS.A.A.であった。.45インチ口径であったので、「コルト45」とも呼ばれ、“西部に平和をもたらした”とされることから、「ピースメーカー」とも呼ばれる。
S.A.A.は、カートリッジの装填および空薬莢を排出するのに、ハンマーをハーフコックにしておいて、シリンダーの右背面に設けられたローディング・ゲートから、シリンダーを手で回転させながら1発ずつ排出・装填しなければならない。カートリッジの再装填にかかる時間ではスミス&ウェッソンの中折れ式と比べて明らかに不利であったが、命中精度、打撃力、造りの単純さからくる過酷な環境・使用への耐久性、信頼性といった点で優り、「西部を代表する拳銃」となった。
合衆国陸軍は、1872年から1876年にコルトS.A.A.、スミス&ウェッソン・モデル3、レミントン1875ニューモデル・アーミーの比較テストを行い、コルトS.A.A.を採用した。
一般に、
銃身長7 1/2インチのモデルは、「キャバルリー・モデル」(Cavalry Model)、
銃身長5 1/2インチのモデルは「アーティラリー・モデル」(Artillery Model) 、
銃身長4 3/4インチのモデルは、「シビリアン・モデル」(Civilian Model)、
銃身長4インチでエジェクターロッドを省いたモデルは「シェリフズ・モデル」(Sheriff’s Model)
と呼ばれた。民間における拳銃の使用の大部分は、サルーンの中での撃ち合いなど、数メートル以下の近距離でなされた。そのような用途には、拳銃を取りだしやすく、取り回しの容易な短い銃身が選ばれるようになった。
コルトS.A.A.とともに西部を代表する小銃ウインチェスターM1873用のカートリッジ「.44-40」(.44インチ口径-40グレインの火薬、.45コルトのカートリッジも40グレインの火薬を使用)を使用するモデルが1878年から供給され、「フロンティア・モデル」と呼ばれた。
イギリスのメーカー、ウェブリー(Webley)社は、1867年ダブルアクション式レボルバーRIC (Royal Irish Constabulary)モデルを出した。1872年には「ブルドッグ」(”The British Bull Dog”)という同じくダブルアクションのポケット・ピストルを出した。
これらから米国内でもダブルアクションへの関心が高まり、コルト社は1877年にM1877ダブルアクション・レボルバーを出した。
.41口径は「サンダラー」 (”Thunderer”)、
.38口径は「ライトニング」 (”Lightning”)、
.32口径は「レインメーカー」 (”Rainmaker”)
と呼ばれた。ビリー・ザ・キッドは1881年に射殺されたときに、コルト・サンダラーを持っていたと言われている。
1878年のM1878は
.45口径で 「ダブルアクション・アーミー」あるいは「フロンティア」
と呼ばれた。
これらは、S.A.A.を基にダブルアクション化したもので、S.A.A.と同様にカートリッジはローディング・ゲートから1発ずつ装填・排出する。これらコルトのダブルアクション・レボルバーのグリップは、S.A.A.の優美な形状と異なり、その形状から「鳥の頭」(bird’s head)と呼ばれた。
コルトのダブルアクション・レボルバーはヨーロッパでも西部でも人気がなかった。西部のガンマン、あるいはガンマンを気取る若者は、ダブルアクション式の引金の重さを嫌い、軽蔑したという話が伝わっている。
十九世紀末から無煙火薬が使用されるまでは、これらの全ては黒色火薬を用いていた。
【参考文献】
Wikipedia
別冊Gun 「コルトのすべて」 1991.11.15 発行
Joseph Rose “The Gunfighter: Man or Myth?”, 1969
Joseph Rose “Age of the Gunfighter”, 1993
橋下毅彦著『「ものづくり」の科学史』
2014-08-08 17:00
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