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経済の生物学的、物理的解釈 [自己流経済理論]

1.経済の生物学的解釈

〇経済活動は、生物の生命維持活動の延長である
経済活動は、生物学的人間の活動、即ち、生物身体の維持活動の延長である。全ての生物は、固有の経済活動をしている。
経済学では、自立して経済活動を営むもの(組織体)を経済主体と称する。

〇動的構造
生物は、身体を構成する組織の一部が損耗・消費により失われても、外部から別の代替物を取り込み置き換えることで、組織構造を維持している。このような構造を動的構造と称する。
経済学では、組織構造(の一部)が失われることを消費、新たな代替物を取り込み置き換えることを生産と称する。この意味から、生産は消費を補うためにある。

図1 動的構造.jpg

〇非平衡開放系の環境
このような生物の動的構造が維持されるのは、非平衡開放系の環境から、(その生物にとって)低エントロピーの資源(物質、エネルギー)を採集し、それを用いて生物内部において代謝機能が働くからである。
生態系を形成する生物群では、ある生物の廃棄物は、他の生物あるいは自然の作用により資源に還元される。このような物質循環が形成されることにより、生物は環境が変わらない限り、維持される。

図2 生物と環境.jpg

「環境経済学」を除き、経済学ではこのような物質循環は扱わず、専ら資源の獲得と生産を扱う。


〇テリトリーと生存競争
生物は、存続を維持するために、環境の一部を占有する。これを一般にテリトリーと称する。テリトリーが生み出す資源を独占使用することで、生物の存続に必要な資源を得ることができる。即ち、生物は、単独では存続し得ず、環境の中に自己が継続的に消費する資源を継続的に確保することによって存続し得る。
同じ資源を消費する生物同士は競合関係にあり、資源を巡る生存競争が生じる。
これを市場経済で見ると、同じ業種の商品を販売する販売者同士は、は、その商品市場を巡り競合関係にある。自己が存続可能なだけの顧客を確保することが、テリトリーの獲得になる。
サラリーマンにとっては、職を得ることがテリトリーの獲得になる。

2.生産の物理的解釈

〇広義の生産の定義
生産とは、広義に解釈すれば「所定の物を“いまある場所”から“使用・消費する場所”へ移動すること」である。言い換えれば、ニュートン力学のような物体の自由運動ではなく、「制御された物の移動」である。

図3 生産の定義.jpg

経済学では、原材料の採集から、加工・組立、輸送、など商品流通における販売者と購買者の取引における受け渡しまでが広義の生産に含まれる。これらはすべて、制御された物の移動である。

〇生産の要素
生産には3種類の物理的要素がかかわる。
① 所定の物
② 物質の空間的移動(仕事あるいは有効エネルギー)
③ “いまある場所”、“使用・消費する場所”という空間の位置情報
しかし、これらの要素がばらばらに存在しても生産はなされない。これらの要素を秩序立って組み合わせて働かせる機構(制御機構)が必要である。
④ 制御機構(生産設備)

生産のための制御機構(生産設備)として最も完全なものは、人間である。人間は、自らが必要とするものを環境から手に入れられるように進化してきたのだから、これは当然である。また、いかに自動化された設備であっても、上記の意味の生産を完了するためには人間の介在が不可欠である。

図4 物流の構成.jpg

物質とエネルギーは、生産のたびに必ず新たな物質、新たなエネルギーが使われる(消費される)。
情報は、“どこからどこへ”ということが変わらない限り、そして制御機構がその情報を記憶している(あるいは情報を組み込んでいる)限り、“あらたな情報”は必要ない。それらが変わると、新たな情報が必要となる。
伝統的な変化のない社会では、既に記憶(保持)されている情報だけが使われ、新たな情報に対する需要はない。それに対して、変化・発展する社会では、常に新たな情報が重要となる。

これらの要素の中でどれが重要かということは、製品単独では意味をなさない。どれも必要であり、どれが欠けても生産は完了しない。与えられた環境の中で、どれがどれだけ容易に手に入るか、あるいは手に入れるのにどれだけの労力が費やされるかということで相対価格が決まる。
重農主義者の「自然の生産物だけが価値を生み出す」という主張も、「労働だけが価値を生み出す」という主張も誤りである。

〇“物”とは、物質だけでなく、(有効)エネルギー、情報も生産の対象となる。

〇生産の単位は時間当たりの生産量
無限に近い時間をかけてある量の製品を生産するのと、ある時間内に生産するのとでは異なる。
消費が時間当たりの消費であるのに対応して、生産能力は時間当たりどれだけの製品を生産できるかで量られる。


市場経済におけるMoneyの理論 (1) [自己流経済理論]

1.市場経済におけるMoneyの働き

〇Moneyは物と物との交換取引の触媒である
Moneyには効用(使用価値)がなく、消費もされない。しかし、物と物との交換取引を促進する。すなわち、Moneyは物と物との直接取引(物々交換)における困難 -- 時間、取引量の不一致による取引の不成立 --を解決して、もしMoneyがなければ半永久的に成立しない交換取引を成立させる。

〇物とMoneyとの交換は「半取引」
市場経済は、分業にもとづく物と物との交換取引で成立する。分業された市場経済では、誰もが、自分の生産していない物を他業種の生産者から購買する必要があるとともに、自分の生産物を他業種の生産者が購買することを期待できる。すなわち、支出をしなければならない一方で、収入を期待できる。
物と物との交換取引により市場経済は均衡する。物とMoneyとの交換は、不均衡(取引の初めの状態と終わりの状態が異なる)であり、カウンター取引、すなわち売手と買手が入れ替わる物とMoneyの交換が生じることにより均衡する。セイ(J.B.Say)は、物とMoneyとの交換を「半取引」と呼んだ。

〇均衡した市場経済では、Moneyは市場を流通する
例えば、企業と家計の関係で見ると、企業が家計から労働を購買する取引に対して、家計が企業から商品を購買するカウンター取引により、企業と家計の間でMoneyが流通(行き来)する。(逆から見ても同じ。)
実際の市場経済は2者間の取引ではなく、流通の経路は複雑に絡み合っているが、結果として、どの経済主体も収入と支出が一致してるとき、市場経済は均衡する。このとき、Moneyはどこかの経済主体に滞留し続けることがなく、経済主体間を流通し続ける。
売る一方の経済主体と買う一方の経済主体では、市場経済は成り立たない。貿易で一方が黒字を出し続け、他方が赤字を出し続けていれば、その貿易はいずれ終焉する。

〇人がMoneyと認めるものがMoney
物は、人がそれを何であると認識し、どのように使用するかで役割が決まる。
取引の買手側から見て、売手が商品の対価として受け取ると期待でき、売手側から見て、後にそれを対価として(別の)商品を購買することが期待できると認識されるものがMoneyである。これはMoneyに対する信用であり、Moneyは「任意の商品の引渡を請求する債券」ともいえる。そして、このような信用は、実は分業とそれに基づく交換が根拠となっている。
Moneyに要求される性質としては、①購買の最小単位から最大単位まで任意の単位で使えること、②次の使用まで価値を失わずに保管できること、③輸送、取扱に費用がかからないこと、などがある。
一部の経済学者(あるいはエコノミスト)が提案するような、時間とともに減価するMoneyを、商品の対価として誰が受け取るであろうか?

2.Moneyは市場経済の構造を形成する

〇物価と市場構造の形成
市場取引が経済合理性に従っていると仮定すると、購買者は、同じ商品であれば最も安い商品を購買する。一方、最も生産性に優れた(最も生産費用の小さい)生産者が、最も安い値段で商品を売ることができる。教科書風に言えば、「価格をシグナルとして」経済合理性に従い取引がなされれば、最も効率的(生産費用が小さい)市場経済が形成されることになる。
そして、市場経済が均衡しており、かつ、商品価格に影響を与えるような外部条件の変化がなければ、全く同じ取引が繰り返されることになる。すなわち、全ての経済主体について、誰から何をどれだけ購買し、誰に何をどれだけ販売するかが完全に確定している。また、物価(物と物との相対価格=単位量あたり取引量の相対比)が確定する。すなわち市場構造=経済主体間の定常的な関係が形成される。

〇市場構造が形成されると、物理的なMoneyの移動は不要になる
均衡した市場経済では、常に取引相手が決まっており、誰について未、将来何がどれだけ買われるか、どれだけ収入があるかが確定している(取引の信用が100%である)ので、物理的なMoneyの受け渡しがなくても、物の価格と取引相手と取引量という数字情報だけで事足りてしまう。
つまり、実際にMoneyを受け渡しするのは、取引の信用度が100%でないときのみ必要である。外部条件が変化し、取引が変動する場合には、Moneyの受け渡しがなされる(Moneyが取引の信用を支える)。

〇Moneyで何でも幾らでも自由に買えるわけではない
Moneyは「任意の商品の引渡を請求する債券」であり、「何でも購買できる」と考えられているが、均衡した市場経済という仮定では、Moneyで誰が何をどれだけ購買するかは確定している。
もし、気紛れにこれを破れば、例えば、全ての人が手持ちのMoneyをすべて使って同じ物を買おうとすれば、その物は極端な「売手市場」となり、価格は跳ね上がる。そもそも、それだけの量の物は生産されていないので存在しない。

3.均衡市場経済におけるMoneyの総量

〇Moneyの総量
均衡した市場経済では、全ての経済主体の総資産額の1/2の額に相当するMoneyが市場を流通する。これは、平均すれば市場取り引きされ経済主体が所有する資産は使用・損耗・消費により1/2に減価しており、その減価償却用としてMoneyが引き当てられていると考えられるからである。

〇ある期間に流通するMoneyの量
ある期間、例えば1年間に流通するMoneyの量は、1年間のどれだけの資産が取り引きされるかによる。資産i(資産価格qi)の更新周期がni 年であるとすると、1年間には平均して 1/n が更新されると考えられる。(n<1であれば、1年に 1/n 回更新される。)これを総計すると、

* Moneyの総額 = 1/2 × Σi (qi )
* 年間取引額 = Σi (qi × 1/ni )

となる。これは「交換方程式」と同等なものである。
これから言えることとして、長期固定資産の比率が大きいほど、Moneyの総量に対する1年間に流通するMoneyの量、あるいは年間総取引額は小さくなる。

【現実の経済】
現実の経済は、均衡していないし、外部条件も人の好み・行動も変化するから、このような均衡理論で得られる関係は成り立たない。しかし、ある程度「均衡に近い状態」でなければ市場経済は成り立たないし、実際現実は、「均衡時近い状態」にはある。それゆえ、均衡理論は現実を見る場合の「一つの基準(あるいは参考)」とすることができる。

Moneyの大きな問題は、それをどのようにして市場に供給するかということにある。それはまた別途。

古典派経済学の市場経済 [自己流経済理論]

1.古典派経済学による市場経済の概要

〇自由意思にもとづく分業と交換取引による経済
分業と交換による市場経済は、自給自足経済と比べて効率的(労働生産性が高い)であり、それだけ豊かである。

〇産業革命以前の市場経済
アダム・スミスは、産業革命が進行し始めた頃(18世紀後半)に生きたが、彼が想定したのは産業革命以前の市場経済である。それは、比較的小規模な多数の事業者(経済主体)から構成され、寡占や独占が生じるほど一事業者の規模が大きくなることはない。例えば、アダム・スミスは、経営者を評価せず、そのような仕事は事業主が自らすれば足りるとしている。これは一事業者の資本として高々一つの小規模な工場を想定したものといえる。
産業革命以前には、少数の事業者が市場を独占するほど規模を拡大することは、技術的に不可能であった。その結果として、事業自体がそれほど大きな資本を必要とせず、新たな事業者の参入、あるいは業種転換が比較的容易であった。

〇業種規模の調整による均衡化
需要と比べて供給能力あるいは事業者が過少な業種は「売手市場」となり、事業者は大きな利益を上げる。一方、需要と比べて供給能力あるいは事業者が過大な業種は「買手市場」となり、利益は相対的に小さくなる。これが業種による格差を生じさせる。もし、過剰業種で事業者すべての支出に見合う収入が得られなければ、不均衡が生じ、やがて失業が生じる。
このような格差、失業は、過剰産業から過少産業へ事業者(経済主体)が移転することで調整される。これを制限するような公定価格、あるいは参入制限を撤廃し、純粋に経済合理性にもとづく産業構造を実現させることで、均衡(自然状態)が成立する。

〇均衡(自然状態)の成立が最も豊かな状態
均衡状態では、全ての業種で「買手市場」(売手間の競争状態)となり、価格は下がり、その結果として商品の購買・消費は最大となる。均衡状態の成立が、社会全体として最も豊かな状態である。古典派経済学では、均衡(自然状態)が成立すれば、それが継続するだけで、それ以上の経済発展を想定していない。
このような均衡への移行は、アダム・スミスの言葉を使えば、「長い時間をかけて」達成される。例えば、親の仕事(業種)の収入が低ければ、子は、より収入の良い仕事(業種)を選ぶ、といった過程である。

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