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カリフォルニアン号の謎の船 その3 [タイタニック&カリフォルニアン]

§一つの解釈

 カリフォルニアン号の船長・航海士たちの証言には、多くの矛盾と混乱がある。
 彼らの話が偽りではないとしても、何かは誤っていなければならない。彼らは“見たと思った”ことを証言しているとして、それをどのように解釈すれば、筋を通すことができるか。

① ロード船長とグローヴスの謎の船
 もし、ロード船長の見た謎の船とグローヴスの見た謎の船について、そこだけを見れば、ほとんど誰もが彼らはそれぞれ別の方角に別の船を見ていたと考えるのではなかろうか。カリフォルニアン号の近くには2隻の謎の船がいたという説はこれまでにもあった。
 それでは、何故彼ら自身が1隻の船を見ていたと思ったのか。それは、午後11時45分に、ロード船長とグローヴスが共に、「灯りがフリッカーしている船」1隻の船を見ていたためである。(図1)もし、実際に2隻の船がいたとしたら、「灯りがフリッカーしている船」は、ロード船長の見た船か、あるいはグローヴスのみていた船か?それはロード船長の船と考えられる。「灯りがフリッカーしている船」はグローヴスからストーンに引き継がれたが、ストーンとギブソンはその船を「檣灯が1つある小型ないし中型の貨物船」と考えた。これはロード船長が見た船に近いからである。

C&T 14日11時45分.jpg

 もしそうだとすれば、グローヴスの「明らかに客船」はどうなったのか?彼の証言は初めから偽証だったのか?それは考えられない。11時30分に、彼がロード船長に報告に行ったのは事実だからである。この疑問を解く鍵は、“グローヴスはなぜ、船長が来てフリッカーしている船の灯りを指すまでモールス灯で交信していなかったのか?”という疑問である。グローヴスは報告のためにブリッジを降りてから11時45分にロード船長がブリッジに来るまでのどこかで、彼の船の灯りを見失ったのではないか?それは、ブリッジに戻ったときかもしれないし、モールス信号灯を用意していたときかもしれない。(図2)

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② 15日午前1時における謎の船
 2発目のロケットを見た後、ストーンは船の方角を測り、船は南西に移動を始め、移動している(動いている)と船長に報告した。これはその船が南南東よりも南に近い方角に見えたことになる。しかし一方で、ロケットは見ている船より遠くから打ち上げられているように思われるのに、船が移動すると(それとともに)ロケットも方角を変えることが理解できなかった、と証言した。もしそうならば、その船は動いてはいなかったことになる。また、ブリッジに戻ったギブソンは、その船の左舷灯(赤)を見た。つまりその船の船首は西向きよりもむしろ東向きであった。もしその船が動いていたとしたら、その船はバックしていたのか?

 彼らが見ていたことは正しいとして、これらを合理的に説明できる唯一の解は、“彼らがロケットの下に見ていた船は、以前に見ていた船とは別の船だった”ということになる。その船は、南に近い方角に、船首を東の方に向けて停船していた。
とすれば、この船はグローヴスの「見失われた客船」ということになる。このような見間違いが生じ得るためには、
1) 角度にして僅か約2ポイント離れている一方の船が見えないということがあり得るか?
2)  ロード船長の見た船は檣灯が1つあり、グローヴスの船は檣灯が2つある。檣灯の数が違うことを見誤り得るか?

 1)については、この夜の特殊な事情が考えられる。空気が澄んで月がなく星が水平線までくっきりと見え、星と船の灯りとが見分け難かったのではないか。

 2)については、1)と同じ理由、および、ストーンとギブソンの関心が専らロケットと船の動きにあり、「檣灯1つの船」と思い込んでいたためと説明するしかない。

 ストーンは、「実際のところ、私はブリッジを行き来していた、そして空に白い閃光を見た、丁度向こうの船の上だった。」と証言しているが、実際には、監視していた船から目を離してブリッジを行き来していたとき、「大体同じ方角の空に白い閃光を見た、その下に船の灯りがあった。当然それは以前に見ていた船だと思った」のだ。

 もう1つ船が変わったことを裏付けるものは、ギブソンが「前に見ていたときと違って見えた。」「左舷灯(とデッキライト)の水面からの高さが前よりも高く見えた」と証言したことである。檣灯が1つの船は2本マストの相対的に小型の船であり従って水面からデッキまでの高さも相対的に低く、檣灯が2つの船は4本マストの相対的に大型の船であり従って水面からデッキまでの高さも相対的に高かったと仮定する。すると、ギブソンの「左舷灯(とデッキライト)の水面からの高さが前よりも高く見えた」という証言を説明することができる。

 もし、そうであれば、この船は傾いているわけではなく、何か異常があったという根拠はなくなる。

③ 謎の船は旋回して南西に向かった。
 船に異常がなかったとすれば、ストーンとギブソンの証言を見る限り、この船は6発目のロケットと7発目のロケットの間に動き始め、東向きから右旋回して南西向きに移動を始めたと考えられる。証言の中で、時間、距離、方角の多くは曖昧で不確かなものであるが、唯一、ストーンがコンパスで測った方角は(偽証でない限り)確実なものである。コンパスで測ったその船の方角が変わったということは、確かにその間にその船は動いて移動したと言うことができる。
 この船は最後には、カリフォルニアン号から見て南東(真南南東)の方角にあったが、そこは厚い氷原の中になる。ギブソンは午前2時に見失ったが、2時45分にロード船長を呼びだしたところからすると、ストーンはその後も双眼鏡で微かに見える灯りを見ていたように思われる。これは、その船は、氷原に入った後は非常に低速で移動していたことによると考えられる。

④ 謎の船もロケットを打ち上げた
 ストーンとギブソンの証言からすると、ストーンがコンパスで方角を測り、前と変わったことを確認した後に8発目のロケットが打ち上げられた。それがやはり船の上であったとすれば、このロケットはその船が打ち上げたことになる。
 また、6発目についてギブソンは「丁度船に焦点が合ったとき、明らかにその船のデッキに白い閃光が立ち、かすかな筋が上空に昇り、次いで破裂して星が散るのを見た」と書いている。とすれば、この6発目もこの船が打ち上げたことになる。ギブソンの証言による限り、7発目も同じである。つまり、1~5発目は、タイタニック号の遭難信号を遠方から見たものであり、6~8発目は、近くにいた船が打ち上げたものということになる。

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 恐らくこの船は、カリフォルニアン号と同様にタイタニック号が打ち上げたロケットを見て、それに対する反応として移動を開始し、ロケットを3発打ち上げたのではなかろうか。そのロケットは、打ち上げ式の遭難信号(socket distress signal)ではなく、大きな音を出さない自推式のいわゆるロケットだったのではないか。
 彼らは何故、タイタニック号のロケットの方角に向かわずに南西へ氷原の中に入っていったのか?それは分からないが、一つ考えられるのは、タイタニック号の無線を聞いて、CQD位置へ向かったのではないか。それまで停船していた船が、急に危険な氷原に入っていた理由としては、それしか考えられない。

⑤ 謎の船は氷原を越えられずに舞い戻った
 15日午前4時にスチュアートが南(真南南東)に見つけた檣灯が2つの4本マスト、黄色い煙突の蒸気船は、スチュアートが考えたように、ストーンとギブソンが(午前1時以降に)見ていた船であり、それはまた、グローヴスが「明らかに客船」と言った檣灯が2つの船であり、氷原に入っていったが越えられないと諦めて、戻ってきたと考えられる。

 このスチュアートの見た船は、カルパチア号(4本マスト、赤地に頂部が黒い煙突)、あるいはマウント・テンプル号(4本マスト、黄色い煙突)だとする説がある。しかし、カルパチア号はタイタニック号の救命ボートを救助するために4時~6時の間に何回か動いては止まっていたはずだ。マウント・テンプル号は4時30分(カリフォルニアン号の時間で4時34分)にCQD位置に到着し、その後も南へ動いていた。


⑥ 15日午前5時にロストロン船長が見た謎の船
 15日夜が明けてから、カリフォルニアン号の証言には、檣灯が2つの4本マストの蒸気船1隻しか出てこない。彼らは1隻しか見なかったのか?それは分からない。もし2隻の船がいたとしたら、もう1隻、檣灯が1つの船はどうなったのか?

 カルパチア号のロストロン船長は、次のような供述書を書いている。

 『5時に水平線まで見渡せるほど明るくなった。我々は北方に2隻の蒸気船を見た。距離は恐らく7~8海里であった。そのどちらもカリフォルニアン号ではなかった。1隻は4本マストに煙突が1本の蒸気船、そしてもう一隻は2本マストに煙突が1本の蒸気船であった。』

 また、ロード船長宛ての手紙の中では、

 『申し訳ないが、私が見た2隻の蒸気船について詳しいことは話せない。分かっていることは、4本マストに煙突1本の船は、恐らく北方の氷の中で(氷を)避けており、もう1隻は西から東に真っ直ぐ航行していた、ということだけである。煙突の色は見なかったし、それらの船を識別できる何にも気づかなかった。ご理解いただけるであろうが、私は非常に忙しかった。』

 手紙の内容で見る限り、相対的に見て、4本マストの船は西側、2本マストの船は東側に見えたととれる。この2隻がカリフォルニアン号の近くにいた船であったのではないか。

 ロストロン船長の見た2隻の船はマウント・テンプル号とアルメリアン号(2本マスト)だったという説があるが、この2隻は氷原の西側にあり、「北方」ではなく「西方」である。また、手紙の内容からして、ロストロン船長の見た船は明らかに氷原の東側である。

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***
 結論として、「カリフォルニアン号の航海士たちは、実際には2隻の船を見ていた。しかし彼らは1隻の船を見ていると思い込んでいた。それが彼らを混乱させた」。


カリフォルニアン号の謎の船 その2 [タイタニック&カリフォルニアン]

§カリフォルニアン号の謎の船

 カリフォルニアン号の船長、航海士たちの証言をつなぎ合わせ、最も確からしいものを選ぶと、次のようになる。

***

 14日午後11時頃、右舷側のデッキで機関士長と停船後の処置について話していたロード船長は、東の方に、西に向かっている船の灯りを見た。やがてそれは檣灯が1つあり幾つかのデッキライトが見え、中型の船のようであった。ロード船長は無線室に向かい、途中でエヴァンス無線通信士と出会った。ロード船長はエヴァンスに「どんな船と交信できているか?」と聞き、エヴァンスは「タイタニックが近いです」と返事した。ロード船長は「タイタニックに、我々は氷のために停船し、氷に囲まれたことを知らせるように」と言い、カリフォルニアン号の停船位置(DR)を伝えた。その後、ロード船長は、西に向かっている船の右舷灯(緑)を見た。その頃距離は5海里ほどであった。その船は午後11時30分頃停船した。

 エヴァンスは、タイタニック号を無線で呼び出し、「我々は氷のために停船し、氷に囲まれた」とメッセージを送ったが、そこでタイタニック号側から「黙れ、我々はケープ岬と交信中だ」という返事を受けた。そのため、カリフォルニアン号の停船位置は伝えられなかった。エヴァンスは、午後11時30分頃までタイタニック号がケープ岬に送るメッセージを聞いていたが、そこで無線機を切り、寝床に入った。

 一方、当直のグローヴス三等航海士は、午後11時10分頃、右舷側の3~3.5ポイント後方に船の灯りを見た。距離は10~12海里ほどであった。やがてその船は檣灯が2つあり、デッキの灯りが輝いていて明らかに客船と思われた。その船は、カリフォルニアン号に斜めに近づいてきて、見える方角をより船首側に移していた。
午後11時30分、グローヴスはブリッジを降り、その時海図室にいたロード船長に、船が接近してくることを知らせた。ロード船長は「どんな船か?」と聞き、グローヴスは「客船です」と答えた。ロード船長はグローヴスに「その船と交信してどんな船か調べるように」と指示した。

 ブリッジに戻ったグローヴスは、午後11時40分にその船が停船するのを見た。その船は停船と同時に照明が消え、それとともに左舷灯(赤)が見えた。距離は5~7海里ほどであった。
午後11時45分頃、グローヴスがその船にモールス灯で信号を送ろうとしていたとき、ロード船長がブリッジに上がってきた。ロード船長は船の灯りを指し、「あの船が応答を返している」と言った。グローヴスは「WHAT?」という信号を送り、双眼鏡でその船の灯りを見ると、灯りがフリッカーしているだけでそこから意味のある信号は読み取れなかった。
ロード船長は「あの船は客船に見えない」と言った。グローヴスは「でも、そうなのです。停船したとき照明を消したのです」と言った。ロード船長は「近くにいる唯一の客船はタイタニックだ」と言った。その後、ロード船長はブリッジを降りた。

 15日午前12時前、ストーン二等航海士は当直交代に行くときに、操舵室の前でロード船長に呼び止められ、カリフォルニアン号が氷のために停船してそこで夜明けを待つこと、船は氷に囲まれていることを告げられた。また、ロード船長は、右舷側の少し後方に見える船の灯りを指し、「あの船を監視し、もし接近してきたら知らせるように」と指示した。
 12時8分頃、ストーンはブリッジに上がった。グローヴスもまた、カリフォルニアン号が氷に囲まれていること、カリフォルニアン号は東北東(コンパス)を向き、ゆっくりと回転(swing)していること、また右舷側方向に船がいること、その船と交信を試みたが応答がなかったことを話した。間もなくグローヴスはブリッジを降りた。

 ストーンは、コンパスを見てグローヴスの言ったことを確認した。その船は南南東(コンパス)の方角にあり、丁度カリフォルニアン号の右舷側の方角であった。ストーンはモールス信号灯でその船を呼び出したが、応答はなかった。その船には檣灯が1つあり、距離は5海里ほどであった。ストーンはその船を貨物船と判断した。
12時15分頃、ギブソン見習い航海士がコーヒーを持ってブリッジに上がってきた。ギブソンは「近くに船はいますか?」と聞き、ストーンは「1隻いる」と言って、右舷側の船の灯りを示した。
ギブソンは、その船の灯りが点滅しているのを見て、カリフォルニアン号に信号を送っていると思い、モールス信号灯で信号を送ったが、双眼鏡で見ると、檣灯がフリッカーしているだけであった。ギブソンはストーンに「あの船は貨物船のようです」と言った。ストーンは彼もそう考えており、檣灯にオイルランプを使っているのだと言った。

 12時25分頃、ギブソンは新しい曳航測程儀を用意するためにブリッジを降りた。
 12時35分頃、ロード船長は、伝声管(ロード船長の寝室にある)でストーンを呼び出し、監視している船について聞いた。ストーンが、変化がないことを知らせると、ロード船長は「海図室で仮眠をとるので、何かあったら知らせるように」と言った。

 12時45分頃、ブリッジを行き来していたストーンは、空に白い閃光を見た。それは丁度船の灯りの上だった。流れ星かと見ていると、少し後に再び白い閃光が見えた。彼は、それは白色のロケットと確信した。コンパスで方角を測ると、南南東よりも少し南西方向であった。
ストーンは伝声管で船長を呼び出し、監視している船が南西方向に少し移動したこと、その船が白いロケットを打ち上げたことを報告した。ロード船長は「それはcompany signalか?」と聞いた。ストーンは、「わかりませんが、白いロケットのようでした」と言った。ロード船長は「モールス信号灯でその船を呼び出して情報を得ること、何か分かったらギブソンを寄越して知らせるように」と指示した。
 ストーンはモールス信号灯でその船を呼び出したが、応答はなかった。更にロケットの閃光が見えた。それらの閃光は、監視している船の檣灯ほどの高さで、その船が打ち上げたにしては低かった。ストーンは、ロケットはその船の先にいる遠くの船が打ち上げているのではないかと思い始めた。

 1時55分あるいは1時15分過ぎ頃、ギブソンが戻ってくるまでに、ストーンは合計5発のロケットを見ていた。ストーンはギブソンに、彼がロケットを見たこと、ロード船長の指示を話し、その船をモールス信号灯で呼び出すように指示した。
 その船はカリフォルニアン号の船首方向の右舷側約3 1/2ポイントのところに見えていた。ギブソンはモールス信号灯で3分間連続して呼び出し信号を送り、双眼鏡を使ってその船を見た。双眼鏡の焦点が合ったとき、ギブソンは、明らかにその船のデッキに閃光が光り、かすかな筋が上空に昇り、破裂して白い星が散るのを見た。ストーンは、この閃光は以前のものよりずっと明るいと感じた。

 ギブソンは、その船の灯りが前に見た時から変わっているように思えた。以前と同じように左舷灯(赤)が見え、檣灯の右側にデッキライトのぼやけた灯りが見えることは変わりなかったが、左舷灯とデッキライトの海面からの高さが前よりも高くなっているように思えた。

 ストーンは「ギブソン、見ろよ。あの船の灯りは奇妙に見える」と言った。ギブソンは、「あの船は右舷に大きく傾いているように見える」と言った。
その船の灯りがカリフォルニアン号の船首右舷約2ポイントに移ったとき、7発目のロケットが見えた。やがて、その船の左舷灯(赤)が見えなくなった。ストーンはコンパスでその船の方角を測り、「あの船はゆっくり南西方向に向かって去っていると」と言った。

 (この間、ストーンは左舷灯が見えなくなり、檣灯は見え隠れしていたがやがて見えなくなり、船尾灯が見えたと言っている。一方、ギブソンは、左舷灯は見えなくなったが、檣灯はずっと見えていた、(従って)船尾灯は見なかったと言っている。)

 ギブソンは、その船が船首右舷側約1ポイントから船首左舷側約1ポイントに移動している間にモールス信号灯で呼び出し続けたが応答はなかった。その船が船首左舷約2ポイントに見えた時、8発目のロケットが見えた。(ストーンによれば1時40分頃)
ギブソンは「海上で船が意味もなくロケットを打ち上げはしない」と言った。

 2時頃、ギブソンには船の灯りが見えなくなった。

 ストーンは、ギブソンに「船長を起こして、我々は合計8発の白いロケットを見たこと、船は南西に視野外に去ったこと、我々は西南西を向いていることを報告するように」と指示した。
ギブソンは、ロード船長に「その船は合計8発のロケットを打ち上げ、南西に消え、我々は西南西を向いている」ことと、その船に呼びかけたが応答は得られなかったことを話した。ロード船長は、「よろしい、ロケットは全て白で、確かに色はなかったのだな」と言った。ギブソンは、「全て白でした」と返事した。船長は「今何時かと聞いた」。ギブソンが操舵室の時計を見ると、2時5分であった。ギブソンが海図室のドアを閉めた時、船長が何か言ったのを聞いたが、ギブソンはそのままブリッジに戻り、ストーンに報告した。
 (ロード船長によれば、彼は1時30分から4時30分までのことは記憶にない。ただ、一度、ドアが開いて閉じる音を聞き「何か」と言ったが返事がなかった、そのまま眠ってしまった、という。)
 2時45分頃、ストーンは伝声管を通して再度船長に報告した。(伝声管はロード船長の寝室にあるので、返事をするためには、ロード船長は海図室の長椅子から寝室まで行かなければならない。)

 午前3時20分頃、ギブソンは船首左舷側2ポイント前方に閃光を見て、ストーンに報告した。ストーンが方角を測ると、それは南南西であった。少し後に今度は船首左舷側に1発、次いで少し後に船首左舷側2ポイント前方に、彼らは合計3発の閃光を見た。

 午前3時40分、ストーンは新しい曳航測程儀を用意するため、ギブソンを下へやった。

 午前4時、スチュアート航海士長が当直交代のためにブリッジに上がってきた。ストーンは、彼の当直の間に起きたことをスチュアートに話した。ストーンからロケットの話を聞いたとき、スチュアートは「それは遭難信号ではないのか?」と聞いた。(これはStuartが査問会に提出した供述書による。)ストーンは、「そうは思わない」と返事した。スチュアートは、閃光が見えたという方角を暫くみていると、船の灯りを見つけた。双眼鏡で観察すると、それは檣灯が2つあり、デッキの明かりが見え、明らかに4本マストの蒸気船であった。スチュアートは「その船ならあそこにいる。あの船は大丈夫だ。あれは4本マストの蒸気船だ」と言った。ストーンは、「それならば、前に見ていた船とは違うと思う」と言って、双眼鏡でその船を確かめた。その船は左舷側より少し後方、凡そ南の方角にあり、カリフォルニアン号とほぼ同じ方向を向いていた。この時、カリフォルニアン号は西北西(真西)を向いていた。ストーンは、スチュアートに当直を引き継ぎ、ブリッジを降りた。

 (査問会の証言によれば)スチュアートは、ストーンが「あの船は前に見ていた船とは違うと思う」と言ったにもかかわらず、夜中にロケットを打ち上げ、南西に走り去ったとストーンが言った船が、氷原を抜けられずに舞い戻ったのではないかと思った。
 (査問会でスチュアートは、「私は南方に1隻の船を見たが、その船は応答しようとしなかった。」と証言していることから、スチュアートは、ストーンが去った後に彼自身でその船に信号を送ってみたのではないか、とSenan Molony氏は推測している。)

 午前4時30分、空が白み始めた頃、スチュアートはロード船長を起こし、ストーンから聞いた夜に見えたロケットの話をした。ロード船長は、「その件なら彼から聞いた」と返事した。
間もなく、ロード船長、はブリッジに上がってきた。

 5時頃、ロード船長はスチュアートと、氷原を通って進むべきか、一旦東に戻るべきか相談したが、氷原の先に開けた水域が見えたので、氷原を通ることに決めた。機関室に準備の指示が出された。
5時15分、カリフォルニアン号は微速で前進を始めた。スチュアートは船長に、「南へ行って、あの船がどんな船か確認してはどうですか」と聞いた。既に明るくなり、南方約8海里先に見える船は、4本マストに黄色い煙突が1本の姿を現していた。ロード船長は「それは何故か?」と聞き返した。「あの船は舵を失ったのかもしれません。」「どうして?あの船は何の信号も出していないではないか。」「そうですが、二等航海士が彼の当直時に、あの船がロケットを何発か打ち上げたと言っていました。」そこでロード船長は、「無線室に行って、無線通信士を起こしなさい」と指示した。

 スチュアートは無線室に行き、眠っているエヴァンスの体に手をかけて起こし、「夜中にロケットを打ち上げた船がある。何かあったのか聞いてほしい」と言った。エヴァンスはベッドから跳び下りて無線機を立ち上げ、”CQ”を送った。
 やがて、フランクフルト号から「タイタニック号が沈んだのを知っているか?」というメッセージが送られてきた。

 この後、南方に見えていた船は、彼らの念頭から消え去った。


カリフォルニアン号の謎の船 [タイタニック&カリフォルニアン]

§ストーンとギブソンの供述書(Affidavit)

〇ストーン二等航海士の供述書

『カリフォルニアン号、航海中 (1912年4月18日) ロード船長宛

 ブリッジの上がろうとしていたとき私は、操舵室のドアのところで貴方自身に呼び止められ、貴殿は当直について口頭で私に指示を与えられた。貴殿は、舷側方向(真横)より少々後方にいる船を指し示し、その船は止まっていると私に知らせた。貴殿はまた、船を取り巻く緩い氷原と南方の厚い氷原を私に示した。貴殿は私に、向こうの船を監視し、その船が接近してきたならば報告すること、そして貴殿は海図室の長椅子で寝ようとしていることを話された。私は12時8分頃ブリッジに行き、当直を三等航海士グローヴス氏から引き継いだ。彼もまた、氷と船を示し、我々は東北東を向いており、我々は回転(swing)していると言った。私はコンパスを見て、これが正しいことを確認し、向こうの船は南南東、丁度舷側の方角にあり、檣灯が1つ、赤い舷側灯と、デッキ周辺にポートホールあるいは開いた扉と思われる小さなかすかな明かりが1個ないし2個見えた。私はそれを小さな貨物船で、約5海里離れていると判断した。

 次いで三等航海士はブリッジを去り、私は直ちにその船を呼び出したが、応答は得られなかった。次いで、見習いのギブソンが12時15分頃コーヒーを持って来た。私は、その船を呼び出したこととその結果を彼に話した。ギブソンは初め、その船が応答していると考えたが、それは檣灯が少しフリッカーしているだけであった。次に私は、貴殿の指示で、再び航行を始めるときのために、新しい測程儀の綱(log line)を用意させるため、ギブソンを下にやった。12時35分に貴殿は、伝声管で呼び上げ、向こうの船が動いたかどうかを聞かれた。私は、「いいえ」と返事し、それは同じ方向にあると言い、また、私がそれを呼び出したこととその結果を報告した。

 12時45分頃、私は、丁度その船の上空に閃光(a flash light)を見た。私はそれを何とも思わなかった。というのは、流れ星が幾つもあり、その夜は空気が乾いて澄み、晴れ渡っていた。少し後に私はもう1発、明らかにその船の上に見た。私はそれを白色のロケットと判断したが、デッキに閃光を見ず、それがその船から上がったことを示すものはなかった。実際、それはその船の先の非常に遠くから来たように見えた。その時と1時15分の間に、私は前と同じものを更に3発見た。そして全て白色であった。私は直ちに[注1]伝声管で呼び下し、貴殿は海図室から貴殿の部屋に来て、返事をされた。私は、その船の方向の空にこれらの光を見て、それらが私には白いロケットと思えたことを報告した。[注2]次いで貴殿は、モールス灯でそれを呼び出し、それから何か情報を得ることを試みるように私に指示された。貴殿はまた、それらがprivate signalsかどうかを私に聞き、私は、「分からないが、それらはすべて白でした」と言った。貴殿は、「もし返事を得たならばギブソンを寄越して知らせるように」と言われた。ギブソンと私は、更に3発を周期的に見た。そしてモールス灯で彼らを呼び出し続けたが、何の応答も得られなかった。その間に、向こうの船は赤い舷側灯が見えなくなり、船尾灯を見せ、檣灯の輝きが見え隠れした。私はその船が南西に向けて走り続けるのを見た。そして急速に方角を変えた。我々もまた緩やかに回転し、南を通り、1時50分には西南西を向き、向こうの船は南西微西(SW×W)の方角にあった。2時には、その船は急速に走り去り、その船の船尾灯だけが見え、南西1/2西であった。私はギブソンを下に行かせ、彼に、貴殿を起こし、我々が全部で8発の白いロケットを見たこと、そして、その船が南西へ視野外に去ったこと、また、我々は西南西を向いていることを貴殿に話すように言った。彼が戻ってきたとき、我々が繰り返しその船を呼び出し、何の応答も得られなかったことを貴殿に告げ、貴殿は、「よろしい、その中に色のついたものがなかったのは確かだな」と返事され、ギブソンは、「はい、それらは全て白でした」と答えた、と報告した。2時45分に私は、再び呼び下し、我々はもはや何の灯りも見ず、その船は南西に走り去り、視野外にあること、また、ロケットは全て白で色は全くなかったと、貴殿に告げた。

 我々は3時20分頃まで何も見なかった。しかし、その時、我々は凡そ南南西の空に2つの微かな光を見た。そして少し離れたところに。[注3]3時40分に私は、8 bell に新しい曳航測程儀を準備できるようにするため、ギブソンを下へやった。航海士長スチュアート氏は、午前4時にブリッジに来て、私は、私が見たことと、私の報告と貴殿の返事を全て彼に報告した。そして、3時20分にこれら3つの微かな光を見たと考えるところを彼に指し示した。彼は、双眼鏡を取り、数秒後に、「その船ならあそこにいる。あの船は異常ない。あれは4本マストの船だ」と言った。私は「それではあれは私が前に見た船ではない」と言い、双眼鏡を取り、檣灯が2つの4本マストの船を、我々の左舷側より少し後方、そして凡そ南の方角に発見した。我々は、凡そ西北西を向いていた。次いで、スチュアート氏は当直を引き継ぎ、私はブリッジを離れた。』

***

[注1] この書き方によると、ストーンは5発目のロケットを見た後に船長に報告したように見える。しかし、
① ギブソンははっきりと、「2発目を見て彼が見誤っていなかったことを確認した後に、彼は、伝声管を通して船長に話した」と書いている。
② 査問会では、ストーンは船長から指示を受けた後、ギブソンが来る前に、彼自身がモールス灯でその船を呼び出したが応答がなく、その代りに更にロケット(複数)を見たと証言している。
ことから、2発目を見た後に船長に報告したと考えられる。

[注2] ロード船長は、この時ストーンは「その船は南西の方向に少し方角を変えた」と言ったと証言した。ストーンもまた査問会で次のように証言した。

7937. その間、君はそのことをギブソンに話したか?
- いいえ。私はコンパスと双眼鏡でその船を監視していた。
7938. その間、その船は君の船から見た方角を変えたか?
― はい、私が最初のロケットを見た時から。
7939. 君が言ったのは8発中の最初のことか?
- 2発目。最初の閃光は別、それについては不確かであった。
7940. 君から見てその船はその方角を変えたということか?
- その船は初め南南東の方角にあった。そしてその船は南の方へ西の方へ方角を変えた。
7941. 明らかに航行していたか?
- はい。

 すなわち、ロケットが最初に見えたとき、その船の方角は、12時15頃に見ていた船の方角である南南東(コンパス)よりも少し南西方向にあったことになる。もしそのロケットがタイタニック号の遭難信号であれば、それがタイタニック号とカリフォルニアン号の相対的な方角となる。残念ながら、この方角は数値として明確にされていない。

 また、ギブソンは次のように証言している。これとギブソンの供述書を合わせると、ストーンは7発目と8発目との間に再度コンパスでその船の方角を測り、そこでは2発目の後に測った方角より更に南西方向に変わったことになる。

[注3] ストーンとギブソンの証言を合わせると、この3時20分頃の3発のロケットは、①南南西(地理上は真南)、②南(地理上は南南東)、③南南西(地理上は真南)となり、明らかに異なる2つの方角(船)によるものである。しかし一般にそれは無視され、カルパチア号打ち上げたロケット
とされている。方角からすると、2発目がカルパチア号のロケットに相当する。

 また、この供述書には書かれていないが査問会の証言で語られたこととして、

7832. さて、君が何を見たのか話してくれ。
- 実際のところ、私はブリッジを行き来していた、そして空に白い閃光を見た、丁度向こうの船の上だった。私はそれが何か分からなかった;私は流れ星かもしれないと考えた。

7842. それらは短時間に続いていたか?
- 3分から4分周期。

7921. 航海士長に何を言ったのか?
- 私は、これらのロケットがあまり高く上がらないように見えた;それらは非常に低くかった;それらはその船の檣灯の高さのほんの半分ほどだった、そして私は、ロケットはそれよりすっと高いのではないかと考えた。
7922. 他に何かないか?
- しかし私は、もしロケットがこの船より先の船から来ているならば、この船が方角を変えたとき何故ロケットもまた方角を変えなければならないのか、理解できなかった。
7923. それは、ロケットがこの船から来たことを指しているのか?
-そうなる、しかし、私は1度だけを除いて、それらがその船のデッキから打ち上げられた形跡を見ていない。
7924.どの一つの場合か?
- 1つのロケットは、他よりもずっと明るく見えた。
7925. 5つのうちの1つか、あるいは3つのうちの1つか?
- 3つのうちの1つ。

7935. これらのロケットを見てからどの位経ってからか?
― 私は最後のロケットを、最も確からしいところで1時40分頃に見た。

7943. 何に気付いたのか?
- 1度、灯りがむしろ不自然に見え、あるものは閉じ、別のものは開いたかのようであった;灯りがそれらの位置を変えたように見えた ―― デッキの灯りが。

7944. その船のデッキの灯りか?
- そうです、そして私はその船の舷側灯を見失った。
7944a. それが、その船が向きを変えていることと符合するということか?
- そうです。
7945. それでは、おかしかった(funny)とはどういうことか?
- 単にある灯りが閉じ別のものが見えるようになったのであり、私はギブソンに灯りが奇妙に見えると言ったが、双眼鏡を取り詳しく観察したとき、それはその船が近くの氷山のために左に曲がり、そして元の航路に戻り、別の灯り、元の灯りを見せているためらしいと考えた。


〇ギブソン見習い航海士の供述書

『1912年4月18日 ロード船長宛

 私のデッキにおける当直は12時からで、私は、12時15分にブリッジに行き、船が停まっていること、そして船は薄い氷原に囲まれており、そして南方に厚い氷原があることを見た。数分後、二等航海士と私がコーヒーを飲んでいたとき、私は彼に、周囲にほかの船がいるかどうか聞いた。彼は右舷側の方角(starboard beam)に1隻いると言った。私は、防水壁(weather cloth)の向こうを見渡し、白い光が点滅しているのを見た。私はそれを、モールス灯が私たちを呼び出しているものと思った。それで私はキーボードのところへ行き、応答として長い光(long flash)を送り、それでも光が点滅しているのを見た。私はその船に、呼び出し信号(call up sign)を送った。しかし、その船の光はそれでも同じだったので、私は双眼鏡を使って観察し、その船の檣灯がフリッカーしていることがわかった。その船の左舷灯と後部デッキの微かな輝き(faint glare)が見えた。次いで私は二等航海士のところへ行き、その船は貨物船のように見えるという意見を述べた。彼は、恐らくそうであり、オイルランプが燃えているのだと言った。この時この船は、丁度舷側の方角にあった。

 12時25分頃に、私は、新たな曳航測程儀(new log)を取り出すためにブリッジから降りたが、見つからなかった。私は、二等航海士がそれについて知っているか確認するため、再びブリッジに上がった。その時私は、向こうの船が舷側方向の約1 1/2ポイント前方にあることに気付いた。次いで私は再び降り、1時5分前まで下にいた。その時刻に再度ブリッジに着いたとき、向こうの船は約3 1/2ポイント船首右舷方向にあったが、二等航海士は、その船が5発のロケットを打ち上げたこと、また、2発目を見て彼が見誤っていなかったことを確認した後に、彼は、伝声管を通して船長に話し、船長は、彼にその船を監視し、モールス灯で呼び出し続けるように言った、と私に話した。次いで私は、暫くその船を観察してからキーボードのところへ行き、約3分間連続して呼び出した。次いで私は双眼鏡を取り、丁度船に焦点が合ったとき、明らかにその船のデッキに白い閃光が立ち、かすかな筋が上空に昇り、次いで破裂して星が散るのを見た。[注4]その船が船首右舷側約2ポイントに来るまで何も起きなかったが、その時、もう1発のロケットが発射された。

 その少し後、その船の舷側灯が見えなくなったことを観察したが、檣灯は見えていた。そして、二等航海士は、もう一度その船の方角を測った[注2]後、その船はゆっくり南西方向に向かって去っていると指摘した。私は、船首右舷側約1ポイントと船首左舷側1ポイントの間で、モールス灯で呼び出したが、応答はなかった。船首左舷側約1ポイントのとき、その船はもう1発のロケットを打ち上げ、それは他と同じように破裂して星が散った。丁度2時過ぎ、その船は、船首左舷側約2ポイントにあったが、視野から消え(disappeared)、その船を再び見ることはなかった。その時、二等航海士は、「船長を起こして、船が南西に消えたこと、我々は西南西を向いていること、そしてその船が全部で8発のロケットを打ち上げたことを彼に話すように」と言った。次いで私は下に降り、海図室に行き、船長を起こし、彼に話した。そして彼は、ロケットには何か色があったかと私に聞いた。私は彼に、全て白でしたと話した。次いで彼は私に、何時かと聞き、私はブリッジに行き、二等航海士に彼が言ったことを話した。2時45分頃、彼は再び船長を伝声管で呼んだが、何を言ったのか、私は聞かなかった。

 3時20分頃、私は、防水壁越しに、(左)舷側の約2ポイント前方にロケットを見て、それを二等航海士に報告した。約3分後に、私はもう1発のロケットを、丁度舷側方向に見た。それに続いて、もう1発を舷側の約2ポイント前方に見た。私は、それ以外には何も見ず、one bellが鳴り、eight bellsに二等航海士のために曳航測程儀の用具(log gear)を準備するため、下に降りた。』

***

[注4] ギブソンはこの時の船の状態について、査問会で次のように証言している。

7522. 君は何を見たか?
- その船は、あたかも右舷に大きく傾いているかのように見えた。

7524. 双眼鏡を通して見て、何が君にそう思わせたのか?檣灯が他の灯りの直上になかったということか?
- いいえ。

7525. 君はそこに何を見たのか?
- その船の灯りは、私が最初に見た前の時と同じには見えなかった。

7636. さて、後で君が双眼鏡を通した見たことについて、もう少し我々に話してほしい。君はその船が傾いていると考えた、あるいはその船の灯りが奇妙に見えた;その灯りの何が君にそう考えさせたのか?
― その船の舷側灯が水面から高くなっていた。

7662. 左舷灯について何を見たのか?
- それは、前より水面から高くなっているように見えた。

7667.君が気付いたこと、赤い左舷灯について、君は彼に何か言ったか?
- 私は、その船が大きく傾いているように見えると言った。( I said she seemed to have a big side out of the water.)

7780. その船の後部に君が見た、ぼやけた灯り(the glare of light)はその船の檣灯の前と後ろのどちらの側にあったか?
- 檣灯の後ろ側。
7781. それで君はその船の右舷側を見ていたことになるのか?
- いいえ、左舷側。
7783. それは、その船に向かって君の左側か右側か?
- 右側。
7784. 檣灯が右側という意味か?
- いいえ、檣灯が左側。

*****
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タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について その6 [タイタニック&カリフォルニアン]

§海底のタイタニック発見


〇ロバート・バラッドらによる海底のタイタニック号発見

 この論争に大きな影響を与えた出来事は、1985年、ロバート・バラッドらの海洋調査により海底にタイタニック号の残骸が発見されたことであった。多くの人々を驚かせたことは、海底のタイタニック号が予想されていたような完全な姿ではなく、無惨に千切れた姿をしていたことであった。
 一方、この論争に大きな影響を与えたのは、発見された位置が、タイタニック号の遭難信号で送られたCQD位置(41.46N、50.14W)よりも13海里余りやや南寄りの東(41.43N、49.56W)にずれていたことであった。これにより、タイタニック号の正しい遭難位置は大凡特定された。それはタイタニック号の予定航路のやや南側にあった。

 バラッドは、当初、海底のタイタニック号を秘密にするため、その位置を隠していた。それは1987年10月になって知られるところとなった。

 カリフォルニアン号の予定航路はタイタニック号の予定航路から北に約17海里離れているから、カリフォルニアン号が航路から大きく南にずれない限り、二隻の船が10海里以内に近づくことはありえない。
 ハリソンらは、この発見を「新たな重要証拠」として、再度当局に再調査を要請した。


〇MAIB( Marine Accident Investigation Branch)による再調査と見直し見解の公表

 BOTから管轄を引き継ぐ運輸省(Department of Transport)は当初見直しを拒否したが、1990年運輸大臣(Secretary of Transport) The Right Honourable Cecil Parkinson MPは、海難調査局(the Marine Accident Investigation Branch)が、重大な証拠についての再評価をすべきと決定した。

 1992年、この再評価による新たな見解が公表された。この内容はMAIBのホームページで見ることができる。


MAIBの主任調査官により運輸省に提出された付言

 『明らか、この件は通常のMAIB調査とは幾らか異なるものであり、我々の主要な仕事との衝突を避けるため、証拠を収集し結論を私に助言する調査官(inspector)が局外から任命され、その後報告書が準備されることになった。この任務に任命された者は、運輸省海洋調査(Department of Transport Marine Survey)における航海測量技師長(Principal Nautical Surveyor) としての地位から最近引退しており、経験豊富な船長である。私は彼の見解(findings)に全面的には同意しないが、それは、私が彼の調査の完全さと公正さ自体に疑問を持ったことを意味しない。それはむしろ、彼に与えられた任務と絶対的な結論に到達することの困難さを強調するものである。
しかしながら、私は、更なる考察が必要であると考え、海難調査局の主任調査官補(Deputy Chief Inspector)にこの仕事を手掛け私に報告するように指示した。彼の報告は、次のものであるが、彼の結論と指名された調査官の結論を統合したものである。
私は主任調査官補の報告と結論を全面的に支持する。
海難調査局 主任調査官 Captain P.B. Marriott 』

 ここに出てくる外部の調査官は、Thomas Barnett、主任調査官補は、Captain James De Coverlyとされている。

見直しの概要

見直しの項目:
(a) 1912年4月12日に氷山に衝突したとき、および最終的に沈没したときのタイタニック号の位置を現在可能な限り確立すること、同時刻におけるカリフォルニアン号の位置を推定すること、これらの時間の間における二隻の船の距離を推定すること。
(b) その期間にタイタニック号がカリフォルニアン号から見られたか、そして、もしそうであれば、何時、誰によってかを考察すること。
(c) タイタニック号からの遭難信号はカリフォルニアン号から見られたか、もしそうであれば、適切な行動がとられたかを考察すること。
(d) 4月12日船の時間で午後10.00時頃から4月15日に航行が再開されるまでの間、カリフォルニアン号の船長、スタンリー・ロード船長によりとられた行動について検証すること。

到達した結論:
(a) タイタニック号は、4月14日2345において氷山に衝突したとき概略41°47’N、49°55Wの位置、そして沈没したとき41°43‘6N、49°56’9Wにあった。カリフォルニアン号の位置はそれ程正確に推測できない。調査官(Barnett)は、タイタニック号が氷山に衝突したときおよそ41°50N、50°07Wにいたかもしれないが、それは恐らくずっと東でありわずか5から7海里しか離れていなかった、と考えている。私(De Coverly)の見解では、カリフォルニアン号はおよそ42°00’N、50°09’Wあるいはその少し北、タイタニック号から17海里と20海里の間にあり、約18海里が最も可能性がある。海流は南向きに流れていたが、タイタニック号が沈むまで両船に同様に影響したと考えられる。それゆえ、問題の期間それらの距離が著しく変化することはなかったであろう。これらの結論は、第3節で論じられる

(b) 調査官は、タイタニック号はカリフォルニアン号から、船長と他の者たちによって見られたと考えている。私は、タイタニック号は、異常屈折のために通常の可視水平線を超えて見られたことはあり得るが、見られなかったのが最もありそうであると考える。第4節参照のこと。

 第4節では、結論として次のように書かれている。

 要するに、「タイタニック号は(カリフォルニアン号から)見られたか」という問いに決定的な答えが与えられることは出来ないと考える。しかし、もしそうであったならば、それは唯一、異常反射現象によるものであった。というのは、タイタニック号は通常の可視水平線を大きく超えていたからである。より可能性が高いのは、私の観点では、カリフォルニアン号から見られていた船は、特定されていない別の船であった。悲劇の後の段階でタイタニック号から見られていた船、それは(カリフォルニアン号の)可視野に来て次いで氷原に割り入るのが見られながら消え去ったこの第三の船であったのか、あるいは第四の船かということは、この再評価の範囲の外にある推測事項である。

(c) 調査官は、タイタニック号の遭難信号はカリフォルニアン号から見られた、そして適切な行動がとられなかった、と考えている。私は、この両方に同意する。第5および6節参照のこと。

 第5節では、結論に加えて、次のように書かれている。

・・・しかしそれは、海上で無線が一般的であった以前の当時には、遭難を示す以外の理由でロケットが使われることが今よりもずっと多かったことを想起させる役割は果たしている。カリフォルニアン号がロケットに応答しなかったことへの、よりあり得る説明は、この報告書の後の部分で展開される。そして、それを見た他の船も、恐らく同様な理由を適用できるであろう。この海域を航行する船の総数を考えると、カリフォルニアン号とタイタニック号の間に存在した「第三の船」と関わりなく、カリフォルニアン号が信号を見た唯一の船であったのではない可能性が高い

(d)第6節参照のこと。

 第6節では、取られるべきであった行動として、次のように書かれている。

 この再評価の委託の範囲は特にロード船長と関連するが、調査官は、法廷が彼を直接非難しているのではなく、単に「カリフォルニアン号」に言及していることを、正当に指摘している。ロード船長は、船長として、当然彼の船の行動(および無作為)に対して責任を負っている一方で、乗船している他の者たちの幾人かについても考慮せざるを得ない。少なくとも、middle watchの航海士でありそれゆえ夜の12時から0400時の間の船を直接任されていたストーン氏についてはそうである。
・・・
 80年前には今日より以上に、ロケットの使用が一般的であったと指摘されてきたが、確かに、それらが見られるのはそれ程通常な出来事ではなく、特に氷が存在するところではそうであり、それらが発射された理由を確認するのに利用可能な全ての手段が要求される。単にモールス灯で呼び出そうとするだけでは、必要とされるものからかけ離れていた。

 ストーン氏が、彼が確かにロケットを見たと確信した後、速やかに取るべきであった行動は:
・船長が起こされるべきであった。そしてもし彼が直ちに対応しなかったならば、ストーン氏は彼に直接報告すべきであった。
・機関室が、「機関準備 (‘Stand By Engine’)」を鳴らすことで、直ちに準備されるべきであった。
・無線通信士が起こされるべきであった。そして
・ロード船長は、起こされたならば、直ちにブリッジに行き、機関室の準備が完了し無線通信士が配置についたのを確認し、そして次いで、ロケットが発射されたところへ向けて航行を開始すべきであった。

 第7節に、結論としての所見として、カリフォルニアン号がとるべきであった行動が失われた人命を救うことになったかどうか、が検討されている。

 最初のロケットは(タイタニック号の時間で)およそ0045時に打ち上げられたと思われる。船はおよそ0220時に沈没した。もし、カリフォルニアン号が最初のロケットを見て、真っ直ぐそこへ向かう行動をとり、直ちに全速に達した(それには数分かかったであろう)ならば、この船は恐らく、私が与えた最小の距離17海里として、およそ丁度沈没の時間に現場に到達したであろう。しかしながら、これは非現実的である。流れ星あるいは視覚的な錯覚かもしれない遠く離れた1個の閃光を見て、そのような行動を取る航海士はいないであろう。そのような目撃は非常に一般的なのである。より明確には、もし、上記のように設定された状況で適切な行動がとられたとして、ロード船長は、恐らく0055時にブリッジおり、そしてロケットの方向に向かい始めたであろうが、しかし、その段階では状況の緊急性は知られておらず、また、彼自身の船の安全を考慮するのが彼にとって適切であるから、最初は用心深く行動したであろう。その間、無線通信士が起こされ、間もなくタイタニック号のSOSと間違った位置を受信したであろう。これはロード船長を幾らか当惑させたであろう。恐らく彼は、無線でタイタニック号を呼び出し、カリフォルニアン号の位置を知らせ、何が見えたかを告げ、タイタニック号の位置を確認するように依頼するであろう。これは推測計算(dead reckoning)によって導出された誤りらしいと分かっている。その後、正しい位置に向けて全速にされるであろう。しかし、そのために失われた時間により、カリフォルニアン号は沈没後に到着した可能性が高い。それゆえ、両船の間の距離について私が正しいとすれば、適切な行動がとられたことによるカリフォルニアン号の効果は、カルパチア号によって実際に遂行されたもの、すなわち、脱出した人々の救助以上ではあり得なかったことは明らかであると思われる。私は、ロード船長の行動によって、この悲劇から異なる結果が得られた可能性を考えることが、理に適っているとは考えない。これは勿論、試みがなされるべきであったという事実を変えるものではない。

 この報告書は、最後に次のように述べている。

 最後に、Lord船長に関連して公式査問会(FI)の影響とその調査結果に対して言及すべきであろう。彼はLeyland Lineでの彼の地位を失ったが、まもなくもう一つの英国の会社、Lawther Lattaに雇用され、速やかに指揮権を回復した。彼は大戦を通じて、また1920年代にその会社で海に留まった。彼は1962年に死去した。彼の船の振る舞いは、法廷の根拠によれば、明らかに、彼が免状の適格性を持ち続けるのに適しているかに対する取り調べが彼に対してなされるように見えるが、公式の行動は全くとられなかった。当時の記録のを見ると、処分(proceeding)は検討されたが、何故彼らが続行しなかったのかは完全には明らかにされていない。理由の一部は恐らく、非常に年長で著名な判事(Mersey卿のこと)により首席が占められた当の公式査問会の重みも加わり、完全に偏見をもたない査問会とするのは困難と見られたと考えられる。それはそうとして、少なくとも商務省で責任を負う人々の一部が、調査結果の正当性に相当程度の疑問を感じていたと信じるのは困難ではない。もしそうであるならば、この事件の見解が今日まで分かれ続け、Lord船長の支持者と彼の批判者の両陣営で精力的に論ぜられてきたのは、驚くべきことではない。議論のあるものは十分道理に適っていたが、両陣営のあるものは、不条理で下品であった。

 どちらの陣営も、この報告書に完全には満足しないであろうが、提起されてきた全ての問題に答えてはいない一方で、基本的な状況を識別し、理に適い現実的な解釈をしようと試みている。もし、更なる推論に進もうとするならば、理性的になし、この出来事の中には悪者(villains)はおらず、人間の特性をもった人間以上でも以下でもなかったという単純な事実に配慮を向けることを希望する。

 これが、現在のイギリス政府の公式見解である。

 “見解”の予想通り、ローダイトもアンチ・ローダイトもこの新たな見解に満足せず、論争は続いている。


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*****


〇タイタニック号がカリフォルニアン号の謎の船であったか、あるいはカリフォルニアン号がタイタニック号の謎の船であったかどうかについては、断定する決定的な証拠がない。決定的証拠とは、

① 4月14日夜におけるカリフォルニアン号の停船位置を特定できる証拠。これはまず不可能である。
② (もし存在したとすれば)カリフォルニアン号以外の謎の船を見つけ出す。遭難から100年近く経た今日まで見つかっていないということは、今後も見つからない可能性が高い。

・証言の真偽は別として、目撃証言について言えば、カリフォルニアン号がタイタニック号の謎の船であったことを裏付ける証言は事実上皆無といえる。すなわち、「船の灯りを見た」あるいは「檣灯が二つある船」という以上にその船を特定できる目撃証言はない。また、タイタニック号がどこを向いていたのかも特定できないので、謎の船が西方にいたのか北方にいたのかも特定できない。

・一方、カリフォルニアン号がタイタニック号の謎の船ではあり得ないことを裏付ける証言は少なからずある。(動いていた、他。)

・アンチ・ローダイトが、カリフォルニアン号がタイタニック号の謎の船であったと主張し続けることができる唯一の根拠は「謎の船に該当する他の船が見つかっていない」という事実だけである。

〇カリフォルニアン号の乗組員がタイタニック号の遭難信号ロケットを見た、あるいは、彼らの見たロケットの少なくとも一部がタイタニック号の遭難信号であったことは、まず間違いない。

・ストーン二等航海士の弁解には混乱がある。彼は一方で「ロケットはその船より遠くにいる船が打ち上げているように見えた」としながら、「その船が走り去ったので、その船に異常はないと考えた」としている。もし、ロケットが遠くの船から打ち上げられたものであったのであれば、走り去った近くにいた船に異常がなくても、遠くの船が打ち上げたロケットの意味するものが遭難信号ではないことにはならない。ストーンは、その船が走り去った後には、やはりその船がロケットを打ち上げたと考えるようになったのか?



タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について その5 [タイタニック&カリフォルニアン]

§A Night to Remember

〇ウォルター・ロードの “A Night to Remember”

 1955年、ウォルター・ロード(Walter Lord)の “A Night to Remember” (日本では『タイタニック号の最期』)が刊行された。本書は、タイタニック号が氷山に衝突してから遭難者がカルパチア号に救助され、ニューヨークに到着するまでをドキュメンタリー風に描いたものであった。本書は好評を博し、広く読まれて、タイタニック号遭難の定説となった。
 1958年には本書をもとにした同名の映画(日本では『SOSタイタニック』)が上映され、これも好評であった。その中でカリフォルニアン号は、タイタニック号から10海里離れたところにいて、当直の航海士たちはタイタニック号からロケットが上がるのを不思議そうに眺め、ベッドの中で報告を受けた船長は、寝ぼけながら信号灯で交信するように言って、灯りを消し又寝込んでしまう姿が描かれていた。

 当時78歳のロードは、視力の弱っていたため余り本を読まなかった。雑誌に載っていた“A Night to Remember”の抜粋は読んだが、抜粋にはカリフォルニアン号の部分は載っていなかった。映画も彼自身は見なかったらしいが、その中でのカリフォルニアン号の扱いを知って、ロードは悪夢がよみがえった。

 ロードはMMSA(Mercantile Marine Service Association)に行き、「私はカリフォルニアン号のロード、汚名を晴らしたい」と名乗り、名誉回復の助力を要請した。これを引き受けたのがMMSAのGeneral Secretaryであったレスリー・ハリソン(Leslie Harrison)であった。それはハリソンのライフワークとなった。

 ハリソンは先ず、映画“A Night to Remember”の制作者、本の出版社、著者らに書簡を送り、ロードの見解を伝え、ロードに対する配慮を要請した。しかし、それに対する返事は、「イギリス査問会の評決は信ずべきものであり、公刊中のカリフォルニアン号に関する扱いを十分に正当化する」というものであった。

 ロードは、彼がそれまでに集めた資料をすべてハリソンに引き渡し、1959年6月25日付の宣誓供述書(Affidavit)を書き、1961年にはハリソンとのインタビューが録音された。

 このインタビューの中で、ロードは、もし他の船が遭難していると知ったら、救助に行かないはずがない理由として、つぎのように話している。

『・・・遭難した船を救助するのは、当時船長たち皆の、そして航海士や船員も、最も望むところであった。即ち、プロペラを失ったり、舵を失ったりした船を曳航する・・・。その頃、給料は非常に低かったので、数百ポンドの救助金を得ることは天の賜物であった。そして、もしそのような兆候を知ったなら、弾丸のようにそれを追いかけた。船乗りの誰もがそうであった。』

 1962年1月24日、ロードは84歳で死去した。名誉回復に対する彼の思いは、彼の一人息子Stanley Tutton Lord(1908-1994)が引き継ぐことになった。


〇MMSAによるBOTへの再調査の要請

 ハリソンは、1965年と1968年に、BOT(イギリス商務省)に再調査の要請をしたが、BOTは再調査が必要と認めるような「新たな重要証拠(new and important evidence)」がないことを理由に却下した。


〇論争の始まり

 これと並行してハリソンは、「真実はこうであった」という文書を公刊してロードを擁護する一大キャンペーンを実施した。このようなロード擁護派は「ローダイト(Lordite)」と呼ばれるようになった。
これに対して、査問会の見解を支持する人々が反論する著作物を刊行した。彼らは「アンチ・ローダイト(Anti-Lordite)」と呼ばれるようになった。

 こうして、ローダイトとアンチ・ローダイトとの間で、「遠くにいた。」-「近くにいた。」、「見えなかった。」-「見えた。」、「謎の船がいた。」-「謎の船などいなかった。」ということで、決着のつかない論争が繰り広げられ、それは今でも続いている。


タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について その4 [タイタニック&カリフォルニアン]

§その後のロード船長

 スタンリー・ロード(Stanley Lord)は、1887年9月13日、ランカスター・シャーのボルトン(Bolton)に生まれ、13歳でバーグ帆船 “Naiad” に見習いとして乗船し、はじめて海に出た。1901年に船長資格を得て、1906年、29歳ではじめて船長となった。1912年4月当時は34歳であった。

***

〇レイランド・ラインを解雇される

 1912年7月30日にイギリス査問会の結果が公表された。
 回想(1961年のインタビュー)によれば、ロードは当初楽観的であったという。ロードにとって査問会の見解の誤りは明らかであり、間もなく正されると考えていた。所属するレイランド・ラインからも引き続きカリフォルニアン号の船長に予定されていると聞いていた。

 ロードにしてみると、カリフォルニアン号がタイタニック号の謎の船でないことは明らかであった。それは、
(a) カリフォルニアン号はタイタニック号が氷山に衝突する以前の14日午後10時30分から15日午前5時まで、エンジンを止めて停船していた。つまり動いてはいなかった。
(b) タイタニック号が氷山に衝突する前、および氷山に衝突してから暫くの間、2人の見張りも当直航海士も船の灯を見てはいなかった。それは後になって近づいて来るのが見え、そして最終的に走り去った。つまり謎の船はその間に動いていた。
止まっていた船が動いていた船ではあり得ない。

 しかし、8月13日、ロードはレイランド・ラインから彼に船を預けることはできないと通告され、辞任を余儀なくされた。
 8月14日、ロードはMMSA(Mercantile Marine Service Association;航海士(Officers)の組合とされる)に手紙を出し、再調査が行われるように助力を依頼した。MMSAはBOT(Board of Trade;イギリス商務省)にMersey卿の評決の誤りを指摘して、更なる調査を要請した。BOTのMMSAに対する返事は、「ロード船長は告発されたのではないのだから、上告の必要性は存在しない」というものであった。
 それ以前の8月10日、ロードは自らBOTに、査問会の誤りとそれによる彼の窮状を訴え、さらなる調査を要請していた。また、同郷のAlfred Henry Gill議員に会って助力を依頼した。しかし、BOTを動かすことはできなかった。


〇ロード自身による調査

(1) 遭難翌日の聞き取り
 4月15日、恐らく生存者の探索をあきらめボストンに向かってから、ロードはストーン二等航海士から詳しく話を聞いた。ロードはストーンから「ロケットは見ていた船より遠くの船が打ち上げているように思えた」と聞いた。恐らくそれによって、そのロケットがタイタニック号の打ち上げた遭難信号であり、それを見逃したのではないかと考えるようになった。また、MMSAに出した手紙等によれば、ロードは「複数のロケットが打ち上げられているのを見たのに、何故私を起こしてブリッジに連れてこようとしなかったのか」と聞き、ストーンは「もしそれが遭難信号であればそうしたが、その船は走り去ったので、その船に異常はないと判断した」と答えた。

(2) ストーンとギブソンの供述書
 ボストンに着く前日の4月18日、ロードはストーン二等航海士とギブソン見習い航海士に、4月15日12時から4時の当直の間に起きたことを、それぞれが書面で提出するように指示した。二人がそれぞれ提出した内容は、微妙に異なっている。また、査問会の証言に無い内容もあり、査問会の証言にはこの書面に無い内容がある。この書面は、“ストーンとギブソンの供述書(Affidavit)”と呼ばれ、査問会の証言と併せて、その夜に彼らが何を見たのかを知るための重要な手掛かりとなる。

(3) ロードの作成した海図
 ロードは恐らく、タイタニック号の遭難に関しカリフォルニアン号が拙い立場に立たされる可能性を予想し、状況を整理するため、彼が見た氷原の図を描いた。その図では、氷原は西経50.00度の西側で大凡南北に続いているほか、タイタニック号が氷山に衝突した緯度のやや北側で少し東に張り出している。

(4) アルメリアン号船長の話
 アメリカ査問会の後ロンドンに戻ってから、ロードは同じレイランド・ラインに属するアルメリアン号(Almerian)のRichard Thomas船長に会い、4月14日から15日にかけてのアルメリアン号の航海の話を聞き、それをメモ書きした。アルメリアン号は大西洋を西から東に航行していた4月14日の夜、流氷原に遭遇した。そこでマウント・テンプル号、翌朝カルパチア号とカリフォルニアン号を見たが、アルメリアン号は無線を装備していなかったので、ロンドンに着くまでタイタニック号の遭難を全く知らなかった。Thomas船長の話は、4月15日朝におけるカリフォルニアン号の動きをある程度傍証するものであるが、それ以上のものではなかった。それはむしろ、マウント・テンプル号がタイタニック号の謎の船ではないかという疑惑を否定するものであった。
このメモ書きは、ロードの死後彼の遺品の中から発見された。

『3時(大凡)、私は氷に遭遇したことを知らされた。私は直ちに船を止めた。左舷方向に蒸気船がいた。私は二等航海士Haverd氏に、彼がその船と交信したかどうか聞いた。彼は、そうしようと尽くしたが、その船の信号は "OUNT" 以外読み取れなかった、と言った。
夜明け(4時頃)に、我々は氷が北東から南方に見える限り伸びているのを見た。氷原と氷山だった。
私は速度を変えながら、氷原の西端を北方に進み、東に開けた水路を探した。3時に左舷方向に停船していた船もまた北の方向に航行していた-我々が考えたように東に氷原を抜けようとしていた。
後に我々は氷原の東端約6から6 1/2海里先に、大型の4本マストの蒸気船(カルパチア号)を見た。双眼鏡を使って見ると、その船は№1起重機を上げていた。
我々はその船の煙突を見分けることはできなかった。少し後に、我々は前方に煙を見た、それは近づいてきてレイランド・ラインの船(カリフォルニアン号)とわかった。この時までに、3時に停船して左舷方向にいて、我々の前方を北方に航行していた船は、突然北西を向いた。我々はその時までその船が東行きと思っていたので驚いた。
近づいてきてレイランド・ラインと分かった船は、氷原の東に見えた4本マストの蒸気船の方向へ、氷を通り抜け始めた。
私は北方へ向かい続け、どの船とも交信しなかた。驚いたことに、ずっと視野にあった船は東を向き接近してきた。そのため双眼鏡を使ってその名前を知ることができた(Mount Temple)。
名前を読んだ後、その船は再び北西に航行した。
私は午前9時50分まで北に行き続け、そこで氷原をゆっくり通り、10時30分に通過した。言及した船をそれ以後見なかった。』

(5) マウント・テンプル号航海士の話
 カナダ在住の医師F. C. Quitzrauは、マウント・テンプル号に乗船していた4月14日の夜について、

「タイタニック号からの遭難無線を聞いたマウント・テンプル号は、直ちにそこへ向かった。船の時間で午前2時頃、タイタニック号の灯りが見えると、船は全ての灯りを消し、エンジンを止め、2時間ほどの間停船していた。日が昇るとエンジンを始動し、タイタニック号の位置を周回した。船長は元の航路に戻る指示を出したが、航海士たちがそうすべきだと言ったためであった。・・・」

という内容の4月29日日付の宣誓供述書を、アメリカ査問会の開催中に公表していた。

 8月6日、ケベックからイギリスに戻るときにマウント・テンプル号に航海士として乗務したベーカー(William Henry Baker)から手紙を受け取った。この船が、タイタニック号に接近し遠ざかったようにタイタニック号から見えた船と思われるというものであった。ロードはベーカーおよび彼にその話をした、問題の航海時にマウント・テンプルの航海士であったArthur Howard Notleyに会った。ベーカーは、もし召喚されたら証言するが、自発的に公表することは失職する恐れがあるのでできないと言った。


(6) ロストロン船長の返事
 ロードはまた、カルパチア号のロストロン船長、タイタニック号のライトラー航海士、ホワイトスター社のBartlett船長に助力を依頼した。
 特にロストロン船長は6月4日、ニューヨークに次のような供述書を提出しており、ロード船長は期待を持った。(この内容は、イギリス査問会で、アメリカで次のような供述書を提出しているとして、ロストロン船長に確認を求めたものである。)

『・・・
5時に水平線まで見渡せるほど明るくなった。我々は北方に2隻の蒸気船を見た。距離は恐らく7~8海里であった。そのどちらもカリフォルニアン号ではなかった。1隻は4本マストに煙突が1本の蒸気船、そしてもう一隻は2本マストに煙突が1本の蒸気船であった。
・・・』

 ロストロン船長は、その他にタイタニック号に向けて航行している途中でもう一隻の蒸気船の灯りを見たとも証言していた。しかし、ロードの依頼に対する9月5日付のロストロン船長からの返事は、次のようなものであった。

『・・・
申し訳ないが、私が見た2隻の蒸気船について詳しいことは話せない。分かっていることは、4本マストに煙突1本の船は、恐らく北方の氷の中で(氷を)避けており、もう1隻は西から東に真っ直ぐ航行していた、ということだけである。煙突の色は見なかったし、それらの船を識別できる何にも気づかなかった。ご理解いただけるであろうが、私は非常に忙しかった。
・・・』


〇Lawther Latta & Co. に採用され船長として復帰する

 1912年の暮れ頃、ロードは、合衆国サウスカロライナ州在住のFrank Strachanから手紙を受け取った。彼はレイランド・ラインを含む船会社の代理店を営んでおり、ロードの知人であった。彼はロードに同情し、手紙の中でLawther, Latta & Co.の所有者Sir John Lattaと会うことを勧めていた。間もなく、Sir John Latta自身から会いたいという手紙をうけた。彼もまたロードに同情し、ロードを破格の待遇でLawther, Latta & Co.の船長として採用した。ロードは、1913年2月から船長として業務に就いた。

 その後、第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパは激動の時代を迎え、世の中はタイタニック号の遭難どころではなくなった。そうした中、彼を信頼する人々の間で働き世評に煩わされることのなくなったロードは、もはやタイタニック号遭難のことは考えないことにした。

 ロードは、1917年に一度、1912年当時のカリフォルニアン号の航海士長スチュアートに会った。話は必然的にタイタニック号遭難の夜の出来事になった。ロードは「この船(謎の船)をどう思うか?」と聞いた。スチュアートは、「分からない。それが我々でないことは言うまでもないが、しかし、ストーンは一体何を見たのか?未だに彼が見たことの辻褄を合わせることができない」と言った。

 1925年には、オーストラリアのシドニーで、思いもかけず1912年当時のカリフォルニアン号の三等航海士グローヴスと遭った。その当時グローヴスはSS Mount Sheafの船長をしていた。二人の出会いは大変気まずいものであった。

 1927年、ロードは視力が低下したため、50歳で引退した。Sir John Lattaからそれまでに得た厚遇により、ロードは何不自由なく引退生活を送ることができた。


【参考文献】
“Titanic and the Mystery Ship ” by Senan Molony
"Titanic; Victims and Villains" by Senan Molony
WEB-site “ The Titanic and the Mystery Ship” by David Billinizer
WEB-site “Captain Lord 1961 Interviews Transcript” by Leslie Harrison - Senan Molony


タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について その3 [タイタニック&カリフォルニアン]

§イギリスの査問会


 1912年5月2日(木)に第一回査問会が召集された。
 イギリスの査問会には、カリフォルニアン号から、アーネスト・ギルの他、ロード船長、スチュアート航海士長、ストーン二等航海士、グローヴス三等航海士、ギブソン見習い航海士、エヴァンス無線通信士が召喚された。

第7日目(5月14日):ロード船長、ギブソン見習い航海士、ストーン二等航海士
第8日目:スチュアート航海士長、グローヴス三等航海士、エヴァンス無線通信士
第16日目:アーネスト・ギル

 カリフォルニアン号における当夜の当直は、
14日8~12pm:グローヴス三等航海士、10.30pmまでロード船長が加わる
15日12~4am:ストーン二等航海士、ギブソン見習い航海士が加わる(但し、出入りした)
15日4~8am :スチュアート航海士長、4.30am過ぎにロード船長が起きた

〇ロード船長の主張
 ロード船長に対する尋問は明らかに、彼らが見た船がタイタニック号であり、彼らがタイタニック号の遭難信号弾(ロケット)を見たのに救助をしようとしなかったことを認めさせようとするものであった。

 これに対してロード船長は、つぎのように主張した。

・我々が見ていた船はタイタニック号ではなかった。5海里の距離でタイタニック号を見間違えることはあり得ない。
・我々が見ていたロケットは遭難信号ではなかった。ロケットはその船が打ち上げたと聞いたが、遭難信号であれば、5海里の距離なら音が聞こえるはずであるが、音はきこえなかった。翌日タイタニック号の遭難を聞いて初めて、19海里先からタイタニック号が打ち上げたロケットである可能性を考えた。
・モールス信号灯で交信しようとしたのは、「その船はタイタニック号ではなかった。無線通信士は交信できているのはタイタニック号だけだと言った。従って、その船は無線を装備していないと考えた」からである。
・もしその船がタイタニック号でモールス信号灯を使っていたのならば、5海里の距離で双方がモールス信号灯の信号を見落とすはずがない。
・我々が見ていた船は南西方向に走り去った。

〇矛盾する証言
 一方で、カリフォルニアン号の船長と航海士たちの証言は、相互に矛盾しているものが少なくなかった。

・見えた船
 ロード船長: 午後11頃南東方角を西に向かって航行していた。檣灯が1つの中型の船で、午後11時30分に停船した。距離は約5海里。
 グローヴス三等航海士: 午後11時10分~15分に右舷後方3ポイントの方向から斜めに接近してきていた。檣灯が2つありデッキの灯りが輝いていて、明らかに客船であった。午後11時40分に停船するとともに灯りを消した。距離か5~7海里。また、午後11時30分に船長に報告に行ったとき、船長は海図室にいた。
グローヴスは、彼の見た船がタイタニック号であったと確信していると証言した。
 ストーン二等航海士とギブソン見習い航海士: 南東の方角に左舷を向けて停船しており、檣灯が1つある中型の貨物船。距離は4~7海里。

・ロケット(単数)かロケット(複数)か
 午前1時10分(あるいは1時15分)頃、ロケットを見た後ストーンは伝声管を通じて船長に「ロケット(複数)が見えた」と報告したと証言した、一方船長は「ロケット(単数)を見たと聞いた」と証言した。

・ロケットを打ち上げたのは見ていた船か
 ストーン二等航海士:「ロケットは高さが檣灯の半分ほどしか上がらず、その船より遠くの船が打ち上げているように見えた。」しかし一方で、「ロケットはその船より遠くの船が打ち上げているように思えたのに、その船が動くとなぜロケットも位置を変えなければならないのか理解できなかった。」
ギブソン見習い航海士:「その船がロケットを打ち上げ上空で破裂して星が散るのが見えた。」

・見ていた船は走り去ったのか消えたのか
 ストーン二等航海士: 「その船は旋回して左舷灯(赤)が見えなくなり、次いで檣灯が見えなくなり、船尾灯が見え、南西方向に走り去った。」
 ギブソン見習い航海士: 「左舷灯が消えた(disappeared)が、船が旋回したのは見なかった。檣灯は消える(disappeared)まで、すっと見えていた。船尾灯は見なかった。」(左舷灯が見えなくなったのは7発目のロケットと8発目のロケットの間。)
 ストーンは「その船は最初のロケットを見た時から(南西方向=カリフォルニアン号から見て右方向に)動き始めていた」と証言したが、その頃には左舷灯(赤)が見えていた、つまりその船の船首はカリフォルニアン号から見て左方向を向いていたことになる。

・ロード船長に報告した内容
 最後のロケットを見てから20分ほど経った2時頃、ストーン二等航海士は、ギブソンを船長に報告に送った。報告の内容についてストーンは「我々は合計8発の白色のロケットのような白い閃光を見た。その船は南西に視野外に去った。我々は西南西を向いている」、ギブソンは「その船は合計8発のロケットを打ち上げた。その船は南西に消えた。我々は西南西を向いている」であったと証言した。(これらの方角はコンパス上の方角で、地理上は南西→南南西、西南西→南西となる。)

・ロード船長はギブソンの報告を聞いたのか
 ギブソン見習い航海士: 報告に対して船長は『ロケットは全て白だったか、何か色があったか』と聞き、『全て白です』と答えた。次いで船長は『何時か』と聞いた。操舵室の時計を見ると、2時5分であった。船長は確かに目覚めていた(awakened)。
 ロード船長: 午前1時30分から4時30分の間の記憶はない。その間一度、ドアが開いて閉じる音を聞いた。『何か』と言ったが返事がなく、そのまま眠ってしまった。
 これに関連してストーン二等航海士:「ギブソンが、『ドアを閉めた時、船長が何か言ったのを聞いたが、何かわからなかった』と言った。」

・見ていた船は正常ではなかったのか
 ストーンもギブソンもその船が遭難状態にあるとは考えなかったと証言した。その一方で、
 ストーンはギブソンに「あの船の灯りは奇妙に見える」と言った。
 ギブソンはストーンに「あの船は大きく傾いているようだ」と言ったが、これは「その船の左舷灯(赤)とデッキライトは、前に見た時より水面から高くなっていた。それはあたかもその船が右舷に大きく傾いているかのようであった」と証言した。
 二人のどちらかが「船が、海上で意味もなくロケットを打ち上げたりはしない」と言った。

・翌朝見えた船
 4時に当直交代でスチュアート航海士長がブリッジに来て、ストーンから彼の当直時の話を聞いた後、南南東の方角に檣灯が2つある船の灯りを見た。「その船ならあそこにいる。あの船は大丈夫だ」と言った。(ストーンもギブソンもその船の存在に気付かなかった。)ストーンは、「あの船は、前に見ていた船とは違う。」と言った。夜が明けると、その船は、4本マスト、黄色い煙突が1本の蒸気船であった。

・scrap logは何故廃棄されたか
 当時のscrap log(当直がその時点で書き込んだ航海日誌の原稿)は廃棄され、スチュアート航海士長が作成した公式の航海日誌だけが保存されていたが、それにはロケットを見たことは書かれていなかった。スチュアートは、scrap logを廃棄するのは日常的なことだと証言した。


〇Final Report
 1912年7月30日にイギリス査問会の報告書が公表された。カリフォルニアン号に関係する部分には、次のように書かれていた。

評決(Finding)
・・・
24.
(a) タイタニック号の喪失、およびそれに続いて起きた人命喪失の原因は何か。
(b) タイタニック号を救助する機会があった船はどの船か、そしてもしあったならば、どのようにしてそれはカルパチア号が到着する以前に、タイタニック号に到達しなかったのか。
(c) 船の構造とその配置は、ある等級の乗客あるいは乗員の一部が救命用具を完全には利用することを困難にしたか?

回答
(a) 氷山との衝突およびそれに続く船の沈没。
(b) カリフォルニアン号。もしその船が最初にロケットを見た時に救助を試みたならば、その船はタイタニック号に到達することができたであろう。その船は救助を試みなかった。
(c) 否

蒸気船カリフォルニアン号との関連の状況
『・・・
 異なる証人により語られた話には矛盾があり一貫性がない。しかし事実は明瞭である。タイタニック号は11.40に氷山に衝突した。カリフォルニアン号が見ていた船はこの時刻に停船した。タイタニック号は遭難信号を打ち上げた。カリフォルニアン号は遭難信号を見た。タイタニック号により打ち上げられた数は約8個である。カリフォルニアン号は8個を見た。タイタニック号からのロケットの時間はおよそ12.45時から1.45時である。カリフォルニアン号がロケットを見たのは概略同じ時間である。約2.40にストーン氏は、彼がロケットを見ていた船は消えたと船長に話した
 午前2時20分にタイタニック号は沈んだ。カリフォルニアン号が見たロケットは他の船からのものであったということが示唆された。しかしこの理論に適合する他の船について未だ聞いたことがない
 これらの状況から、カリフォルニアン号から見えた船はタイタニック号であり、そして、もしそうであれば、ロード船長によれば、二隻の船は遭難の時点で約5海里離れていた、と私は確信した。タイタニック号側の証言は、この見積を裏付ける。しかし私は、その距離は8ないし10海里を超えることはないが、恐らく(5海里)より大きかったと助言された。カリフォルニアン号が囲まれていた氷は、タイタニック号側の方向には2ないし3海里を超えることのない緩い氷であった。夜は澄んで海は静かであった。最初のロケットを見たとき、カリフォルニアン号は何ら深刻な危険なしに開けた水域に出ることができ、そしてタイタニック号の救助に来ることができたであろう。もしこの船がそうしていたならば、全員とはいわずとも、多くの人命が救われたであろう。

 後の回想でロード船長は「彼らは査問会の前に(カリフォルニアン号をスケープゴートにすると)“腹を決めていた”ように思えた」と言った。


タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について その2 [タイタニック&カリフォルニアン]

§アメリカの査問会

 タイタニック号の遭難事故を調査するアメリカの上院査問会(US Inquiry)と、それに続いてイギリスの査問会(British Inquiry)が開かれた。
 これらの議事録は、WEB-site “Titanic Inquiry Project” で見ることができる。

 アメリカ上院査問会は、カルパチア号がニューヨークに到着する前日の4月17日から開かれた。
 カリフォルニアン号からアーネスト・ギルの他に、ロード船長とエヴァンス (Cyril F. Evans)無線通信士が召喚された。

〇タイタニック号の謎の船

 アメリカ査問会で初めて、タイタニック号の“謎の船 (Mystery Shhip)”の存在が知られるようになった。
 この謎の船について最も詳しく証言したのは、査問会の4日目(4月23日)に証言したタイタニック号の四等航海士ボクスホール(Joseph G. Boxhall )であった。ボクスホールによれば、

 救命ボートを準備している頃、「灯りが見える」という声がした。ボクスホールは先に海図室に行き遭難位置を計算し無線室に届けた。その後、その船の灯りを観察した。その船は、タイタニック号の船首左舷側1~2ポイント(11.25度~22.5度)の方向にあり、初め檣灯が見え、次いで舷側灯が双眼鏡を使って見え、後には裸眼でも見えた。タイタニック号に正面を向けてゆっくり近づいてきているように見えた。檣灯が2つあり、4本マストの蒸気船のようであった。5~6海里ほど離れているように見えた。やがて氷にぶつかったかのように止まり、ゆっくりと右旋回した。当初は右舷灯(緑)、左舷灯(赤)が見えたが、大部分の時間は左舷灯(赤)が見えた。その間、遭難信号弾(socket distress signal)を打ち上げ、モールス信号灯で救助を要請する信号を送ったが応答は見えなかった。ボクスホールが2号ボートに乗る頃には船尾灯が見えた。ボートが海面に降り、タイタニック号の船尾に向けて漕いで行ったところで見失い、その後その船の灯りを見ることはなかった。

 謎の船についての多くの証言は、船首左舷側1~2ポイントの方向に見えたことで一致している。
8号救命ボートはスミス船長から「あの船に漕いで行き、乗客を降ろして漕ぎ戻ってくるように」と指示された。彼らはいくら漕いでもその船に近づくことはできず、やがて見失った。
夜の間中船の灯りを見ていたという証言もあった。しかしそれらは夜明けとともに消え去り、カルパチア号が救助に来たとき、救命ボートからカルパチア号以外の船を見た者はなかった。

〇ロード船長によるカリフォルニアン号の動き

 カリフォルニアン号の乗組員3人は査問会の8日目(4月26日)に証言した。ロード船長が語った4月14日夜から15日にかけてのカリフォルニアン号の動きは、要約すると次の通りであった。

 ロンドンからボストンに向けて航行していたカリフォルニアン号は、14日午後8時21分、前方に南北に連なる氷原を発見し、停船してそこで夜明けを待つことにした。停船した位置は厚い氷原から1/4~1/2海里のところであった。船は間もなく緩い氷(loose ice)に囲まれた。その夜は澄み渡って月がなく、星が水平線まで輝いていて、どこまでが空でどこからが海か見分け難かった。停船したときカリフォルニアン号は右旋回して北東を向いた。(恐らく南下しているラブラドル海流の影響で、カリフォルニアン号は夜の間中ゆっくりと右回りに旋回(swing)し、夜明けにはほぼ真西を向いていた。)午後7.30の観測位置からの計算による停船位置は[42.05N、50.07W]であった。これは、タイタニック号が無線で送った遭難位置(CQD位置と呼ばれる)[41.46N、50.14W]の北北東19~20海里にあたる。(CQD位置はカリフォルニアン号の南南西になる。)午後11時頃、南東から西に向かっている船の灯りを見た。その船は檣灯が1つあり、右舷灯(緑)が見え、中型の船のようであった。その船は午後11時30分頃カリフォルニアン号の南東約5海里に停船した。その船とモールス灯で交信を試みたが応答はなかった。
 午後11時頃、エヴァンス無線通信士に「タイタニック号に、我々は氷のために停船し、氷に囲まれたことを知らせるように」指示した。エヴァンスは、「我々は氷のために停船し、氷に囲まれた」と送ったが、位置を送る前にタイタニック号から「黙れ、我々はケープ岬と交信中だ」と拒絶された。エヴァンスは午後11.30頃までタイタニック号の無線を傍受していた後、無線を切り就寝した。
 15日午前1時15分頃、ロード船長は、当直のストーン航海士から伝声管を通して、その船が南西に向けて動き出し、ロケットを打ち上げたと聞いた。「モールス灯で交信し、情報を得たら見習い航海士を寄越すように」と指示した。その後眠りについた。ドアを開閉する音を聞いて「何か」と言ったが返事かなく、再び眠りについた。後にその船は南西に走り去ったと聞いた。
 15日午前5時30分頃無線機を立ち上げたとき、タイタニック号が氷山に衝突して沈み、乗員は救命ボートに乗っていることを知った。午前6時、低速で氷原を西に渡り、6時30分に厚い氷原を越え、全速(13kt)で南下した。7時30分頃CQD位置[41.46N、50.14W]に達したが、そこにはマウント・テンプル号が停船していただけであった。更に少し南下すると後、南南東に船が見え、カルパチア号がタイタニック号の救命ボートを救助していることを知った。氷原に沿って南下し、午前8時頃、氷原を西から東に全速で横断し、8時30分頃カルパチア号に達した。(カルパチア号のロストロン船長は「カリフォルニアン号は西南西から来た」と証言した。)それはカルパチア号が最後の救命ボートの救助をし終えたところであった。カルパチア号と手旗信号で交信し、カルパチア号は港に向かい、カリフォルニアン号は他に生存者がいないか探索を引き継ぐことになった。周回して探索したが生存者は発見できなかった。ある程度まとまった流漂物を発見したが、それは大型船の遭難にしてはごくわずかであった。午前11時20分に探索を打ち切り、真西に再度氷原を横断してボストンに向かった。正午の位置観測[41. 33N, 50. 09W]からの計算で、漂流物の位置は[41 33N, 50. 01W]であった。これは14日午後8時21分の停船位置[42.05N、50.07W]の南南東約33海里にあたる。

〇Final Report

 ロード船長は「アメリカ上院ヒアリングにおけるスミス議員は丁重で、敵対的なところはなかった」と後に回想している。しかし、彼らが帰国した後、5月28日に出された報告書には、カリフォルニアン号に関して次のように書かれていた。

蒸気船「カリフォルニアン号」の責任
  委員会は、同じ会社の統制下にあるカリフォルニアン号が、その船長により報告された19海里よりタイタニック号の近くにいたこと、その航海士たちと船員たちがタイタニック号の遭難信号を見たこと、そして良心の命ずるところ、国際的慣習、および法の要求に従った対応をしなかったと必然的に結論せざるを得ない。遭難信号に対する唯一の応答は、カリフォルニアン号のマストからの二時間近くに亘る大型白灯による応答信号であった。そのような行為は、それが無関心によるにしろあるいは不注意によるにしろ、我々の見解では最も非難すべきことであり、カリフォルニアン号の船長に重大な責任を課するものである。カリフォルニアン号の無線通信士は15日の朝ニューヨーク時間3.30 amまで起こされなかった。そしてそれはこの船の航海士たちと乗組員たちとの間で遭難信号あるいはロケットについて相当な会話をした後であり、船が夜の間にロケットを打ち上げたことについて何があったのか知るために航海士長により指示されたものであった。問い合わせは直ちにタイタニック号が沈没した事実を明らかにした。もし援助が直ちに提供されたならば、あるいはカリフォルニアン号の無線通信士が日曜日の夜あと数分長く任務に留まっていたならば、この船はタイタニック号の乗客と乗組員の生命を救助するという栄誉を誇ることになっていたであろう。

〇Knappの地図

 何故このような結論となったかについて、Senan Molony氏(”Titanic and The Mystery Ship”)によれば、上院査問会は海軍水路局(Hydrographic Office)のJohn J. Knappにタイタニック号事故当時の航海上の危険情報を収集し海図作成を依頼した。Knappは、その海域を航行した船が報告した氷山、氷原をプロットした海図を作成し、そこにタイタニック号のQCD位置、ロード船長によるカリフォルニアン号の停船位置を書き入れたが、それだけでなく、「もしカリフォルニアン号がタイタニック号の謎の船であったあとすればどこにいたか」という仮説上(hypothetical)の位置を書き加えた。
 Knappは査問会で、「船上から舷側灯が見える限界は16海里、海上のボートから舷側灯見える限界は7海里」という根拠から、カリフォルニアン号がタイタニック号からこの7~16海里の間(図ではQCD位置の北東に描かれている)に位置していたとすると、証言と矛盾がない。また、タイタニック号とカリフォルニアン号の間に第三の船がいたという証言はなく、水路局に報告もない。カリフォルニアン号がこの仮説上の位置にいたとすれば、1時間余りでタイタニック号まで到達することができた、と説明した。これが、上院査問会がカリフォルニアン号をタイタニック号の謎の船にした根拠となった。


タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について [タイタニック&カリフォルニアン]

タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について

 タイタニック号が氷山に衝突して浸水し、救命ボートを準備している頃、船首左舷方向数海里の先に、船の灯りが見えた。その船は、タイタニック号に近づいて来る様に見えた。しかし、タイタニック号からモールス信号灯で呼びかけても応答せず、遭難信号弾を打ち上げても反応せず、やがて去っていった。

 タイタニック号の遭難に関して開かれたアメリカとイギリスの査問会において、このタイタニック号の「謎の船」は、カリフォルニアン号であるとされた。そして、カリフォルニアン号のスタンリー・ロード船長は、タイタニック号の遭難信号を無視して救助を怠り、救えたはずの人命を失わせたとして非難された。

 しかし、これには当時から反論があった。特にイギリスの査問会については、古い規則の見直しを怠ってきた商務省、および安全に対する配慮に欠けたホワイトスター社の責任から世間の目をそらすために、ロード船長は「スケープゴート」にされた、と一部の人々は見ていた。

 日本ではほとんど関心を持たれていないが、米英では、事故から1世紀近く経た今日でも、「カリフォルニアン号がタイタニック号の謎の船であったかどうか」という論争が続いている。

この経過を追ってみると...


§ タイタニック号の事故当時のカリフォルニアン号
 タイタニック号は1912年4月12日11.40pm(船の時間)氷山に衝突し、15日2.20am(船の時間)沈没した。

 15日5.30am頃、カリフォルニアン号は無線で「CQ」(受信した全ての船に情報提供を求める)を発信した。この後、(マウント・テンプル号)、フランクフルト号、ヴァージニアン号、バーマ号と無線通信を行った。
 15日7.00~7.30am頃、タイタニック号が無線で送った遭難位置=CQD地点の近くで停船していたマウント・テンプル号の近くを、カリフォルニアン号が北から南に通過した。
 15日8.00am頃、タイタニック号の救命ボートを救助しているカルパチア号の西南西5~6海里の先からカリフォルニアン号が氷原を越えて来るのが目撃された。カリフォルニアン号は8.30am頃カルパチア号と合流した。交信により、カルパチア号は港へ向かい、カリフォルニアン号は他に生存者がいないか探索を引き継ぐことになった。
 16日、カリフォルニアン号からカルパチア号に、捜索の結果何も発見されなかったという無線連絡が入った。

 4月19日、すなわちカルパチア号がニューヨーク港に到着した(18日の)翌日、カリフォルニアン号がボストン港に到着した。


§ アーネスト・ギルの宣誓供述書
 カリフォルニアン号がボストンに到着した数日後の4月25日、『ボストン・アメリカン』紙に、カリフォルニアン号の乗組員の一人、アーネスト・ギル(Earnest Gill)なる人物の宣誓供述書が掲載された。その内容は、次のようなものであった。

『4月14日の夜、私は午後8時から12時まで機関室で仕事をしていた。11:56に私はデッキに出た。非常に澄んでいて、遙か遠くまで見ることが出来た。船の機関は10:30から停止し、船は流氷の中で漂っていた。私は右舷側の手すりから見渡し、10海里ほど離れたところに非常に大きな蒸気船の灯りを見た。その船の側面の灯りを見ることができた。その船を1分間ずっと見ていた。ブリッジ(船橋)と見張りがその船を見落とすことはあり得なかった。
 12時になり、私は船室に行った。私は同僚のWilliam Thomasを起こした。彼は船に沿って氷が立てる音を聞き、「我々は氷の中にいるのか?」と私に聞いた。「そうだ、しかし右舷側は開けているに違いない。というのは大きな船が全速で行くのを見た。その船は大きなドイツ船のように見えた」と私は返事した。
 私は寝床に入ったが、眠ることが出来なかった。半時間ほどで私は起きて、煙草を喫おうと考えた。積み荷のために私は船室で喫煙することはできなかった。それで再度デッキへ行った。
 デッキに10分ほどいた時、私は右舷側の約10海里先に白いロケットを見た。私は、流れ星であろうと考えた。7ないし8分後に私は明らかに第2のロケットを同じ場所に見た。そして「あれは遭難状態にある船に違いない」と考えた。
 ブリッジの見張りに知らせるのは私の仕事ではなかったが、彼らがそれを見落とすことはあり得なかった。 私はその後すぐに寝床に入ったが、船がそのロケットに注意を払うであろうと想像していた。
 6:40に機関長に起こされるまで、それ以上のことは何も知らなかった。彼は「起きて手を貸せ。タイタニック号が沈んだ」と言った。
 私は叫んで寝床から跳びだした。私はデッキへ行き、船が全速で航行していることを知った。船は氷原から抜け出たが、近くには氷山が沢山あった。
 私は当直(on watch)に行き、二等機関士と四等機関士が話をしているのを聞いた。J.C. Evans氏が二等機関士、Wooten氏が四等機関士であった。二等機関士は四等機関士に、三等航海士は彼の当直中にロケットが打ち上げられたと報告していた、と話した。それで、私が見たのはタイタニック号であったに違いないと知った。 二等機関士は、船長が、確かGibsonという名前の見習航海士からロケットについて知らされた、と付け加えた。船長は彼に、遭難した船にモールス灯で交信するように話した。その時の当直航海士はStone氏であった、とEvans氏は言った。
 更なる灯りが見え、更なるロケットが打ち上げられたとEvans氏が言ったのを立ち聞きした。次いで、Evans氏によれば、Gibson氏は再度船長のところへ行き、更なるロケットを報告した。船長は彼に、応答が得られるまでモールス灯を続けるように言った。応答はなかった。
 私が二等機関士から聞いた次の所見は、「一体どうして彼らは無線士を起こさなかったのだ?」というものであった。船の全乗組員は、ロケットを無視したことについて彼らの間で話をしていた。私は幾人かに私と一緒に船長の振る舞いに抗議するように自ら勧めたが、彼らは拒否した、というのは、彼らは仕事を失うのを恐れたからである。
 船が港へ着く1日か2日前、船長はロケットが打ち上げられていた時間に任務中であった操舵手を彼の船室に呼んだ。彼らは四分の三時間話をしていた。操舵手はロケットを見なかったと言明した。
 私は、カリフォルニアン号がタイタニック号から20海里以内にいたことを確信している。もしその船が10海里より遠ければ、私は見ることができなかったであろう。そして私はその船を非常にはっきりと見た。
 私は、この船の船長にも航海士の誰にも悪意を持ってはいない。そして、私はこの言明をすることにより利益の源泉を失うことになる。私は、遭難状態にある船の救助を拒否あるいは無視した船長が、船員の話をもみ消すことが出来てはならないことを示すために、この行動に駆り立てられた。』

 ギルのこの「密告」により、カリフォルニアン号は目をつけられることになった。

(続く)

タイタニック号の遭難と無線の話 (続き) [タイタニック&カリフォルニアン]

タイタニック号の遭難と無線の話 (続き)

(3) バルチック号

 タイタニック号遭難の夜、ホワイトスター・ラインの客船バルチック号(23,986総トン、Ranson船長)にはマルコーニ社の査察官(Inspector)バルフォア(Gilbert William Balfour)が乗船していた。タイタニック号の遭難時、バルチック号はCQD地点の南東243海里にあった。バルチック号もまた、タイタニック号の遭難を知ると救援に向かった。
 翌朝カルパチア号と通信可能距離に来ると、カリフォルニアン号とバーマ(Birma)号がひっきりなしに無線を占有していて、カルパチア号との通信を妨げていた。バルフォアはカリフォルニアン号の通信士エヴァンスに何度か待機しろと命じ、怒りの通信を送った。

【15日朝、バルチック号のPV】
5.05 (6.55): Signal Carpathia, Unable to work out owing to persistent jamming by Californian, who is talking all the time.
5.30 (7.20): Californian persists in talking to steamship Birma such remarks as “Do you see four-master salmon pink smoke-stack, steamer around,” etc. Impossible for us to work.
※ 4本マスト、サーモンピンクの煙突の蒸気船とはカリフォルニアン号自身のこと。
6:30 (8:20): (カルパチア号からバルチック号への非公式メッセージ) “The Titanic has gone down with all hands, as far as we know, with the exception of 20 boatloads, which we have picked up. Number not accurately fixed yet. We can not see any more boats about at all.”
※ この時、バルチック号はカルパチア号から約124海里の距離。
6.55 (8.45): Signal Carpathia but can do nothing for jamming by Californian and Birma, who are carrying on long, irrelevant conversations.
7.10 (9.00): In communication with Carpathia exchange traffic re passengers and get instructions to proceed Liverpool. We turned round at 7.15 am. We have come west 134 miles.

【15日朝、マウント・テンプル号のPV】
7.30(9.20): MBC(バルチック号) sends SG to MWL(カリフォルニアン号). “Sand by immediately. You have been instructed to do so frequently. Balfour. inspector.”
7.40 (9.30): MPA(カルパチア号) calls CQ and says: “No need to stand by him; nothing more can be done.”



(4) バーマ号(Birma)

  ロシア船籍の客船バーマ号(4,859総トン、Ludwig Stulping船長)は、4月11日にニューヨークを出航し、大西洋を西から東に航行してロッテルダムに向かっていた。4月14日の夜11.45 pm(これは船の時間で、NYTとの相違は不明)識別コードMGYの船が遭難信号を送っているのを受信した。バーマ号は、マルコーニ社ではなく同じアメリカのUnited Wireless Company所属のDe Forest無線システムを使用していた。彼らは新しいコードMGYが何という船が知らず、後にフランクフルト号からそれがタイタニック号であることを教えられた。
 遭難信号を受信したとき、バーマ号はCQD地点から南南東約100海里のところにいた。バーマ号は、タイタニック号の乗客を迎える準備を整えて、夜を徹して遭難現場に向かい、15日7.30 am(船の時間)頃CQD地点付近に達した。
 マウント・テンプル号、カリフォルニアン号と同じように、バーマ号もまた彼らがCQD地点と考えたところには何も発見できず、その北東から南に見渡す限りの氷原があった。CQD地点が誤りであることは明らかであった。
カルパチア号が全く情報を提供しないので、バーマ号は、状況が分からなかった。(それでカリフォルニアン号と盛んに交信していた。)やがてバーマ号は、氷原の東側でカルパチア号が救助をしていることを知った。バーマ号は実際の救助地点へ向かうため氷原を南に迂回し、12.15 pm頃、全速で東に向かうカルパチア号と遭遇した。
 バーマ号はカルパチア号に無線で、「全員が救助されたか、我々に何か助力出来ることはないか」と問い合わせたが、それに対する返事は「(無線使用を)控えよ(Stand by)。」であった。
 バーマ号は更に、「更なる探索のために我々が留まる必要があるか?」と問い合わせたが、返事は「黙れ(Shut up)」であった。

 バーマ号はロッテルダムへ直行する予定を変えてイギリスのドーバーに立ち寄り、新聞に抗議文を掲載した。

「・・・
 マルコーニ社が、マルコーニを採用していない船に情報を提供せず、また遭難した船でない限り呼び出しに応答しないことは、知られた事実である。これは商業的には正当なやり方かもしれないが、しかしながら、我々の船は遭難状態にはなかったが、我々は救助をしようとしていたのだ。
 我々の援助が不要とわかったとき、何の感謝の言葉もなく、救命ボートが更に漂流している可能性があるかという問いに答えず、カルパチア号が西への航路を航行しているときに船尾の旗で敬礼(salute)しただけであった。
 その日中と続く日々、われ我はどんな情報も拒絶された。我々が話した全ての船は「貴殿はマルコーニの船か?もしそうでなければ、我々は情報を与えないように命じられている。」と返答した。これが、救助のための我々の航海士と乗組員の30時間にわたる昼夜をわかたない熱意に対する報いであった!
・・・」


【参考文献】
WEB site:Titanic Inquiry Project
Encyclopedia Titanica, ET Research: “Birma’s wireless bears witness!” by Senan Molony.


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