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竹中正治著『なぜ人は市場に踊らされるのか?』 [経済学批判]

『なぜ人は市場に踊らされるのか?』:竹中正治著、日本経済新聞出版社刊、2010.02.25発行

【内容】
序 章 地下鉄の通路のバイオリン弾き
第1章 マネー資本主義批判という誤解、金融投資立国論という幻想
第2章 なぜ人は市場に踊らされるのか?
第3章 アリの集合的知性と人間の集合的愚性?
第4章 ベビーシッター組合と景気対策
第5章 日本人はなぜアメリカ経済の本質を見誤るのか?
第6章 バランスシートがわかれば世界がわかる
終 章 「みなさん、そうされていますよ」という呪縛から目を覚まそう

【考察】
 この本の内容は、総じて言えば、読者に対する「リスク・テイク」の勧めである。しかし、それに乗るべきかといえば、大いに疑問がある。

〇第1章と第6章に関して
 著者は第1章で、「”付加価値”を生むのは実体経済だけで、金融あるいは資産取引は”ゼロサム”である」、と言っている。即ち、「金融あるいは資産取引では、誰かが利益を上げれば、その分誰かが損をしている」ことになる。そうであれば、金融・資産取引は「ギャンブル」の世界であり、ギャンブルの勧めということになる。

 実際には、金融・資産市場はゼロサムとは限らない。プラスサムの場合もマイナスサムの場合もある。それは、金融・資産市場に資金が流入している状態にあるか、流出している状態にある場合である。通常は、わずかながら資金が流入している状態にある。

 それは別として、ギャンブルは非常に目先の利く者、幸運な者だけが利益を上げ、他の大多数は「鴨」になるだけであることを知った上ですべきである。更に、常に豊富な資金を持った者が有利である。
 例えば、著者は「レバレッジ」の利点を書いているが、眉に唾して読まなければならない。何しろ、金融・資産取引は「ゼロサム」のはずなのだから。
 レバレッジで利益が出る条件は
   ”投資先の利益率が、借入金の利子率より高いこと”
である。それは確かだが、もしその投資先から”確実に”高い利益率が得られるとしたら、借入金の貸手はなぜ直接その投資を行わず、借手に低い利子で貸すのであろうか?貸手に”慈善家”を期待するのは市場経済の法則に反している。貸手はその投資の(成功した場合と失敗した場合を含めた)期待値が低い利子率より低いことを知っているに違いない。貸手が狙っているのは、借手が現有している資産なのだ。
 それ故、”貸手が知らない利益の源泉”を知っている場合でない限り、こんなことをしてはならない。

〇第2章に関して
 著者は金融・資産市場が投機的になりやすいこと、投機熱を抑制する仕組みの必要性を述べている。それは間違いない。
 投機(ギャンブル)をしたがるのは人の性で完全に抑止はできない。もし、失っても支障の無い金を使って投機をするならば、大した問題は起きない。生活資金や用途のある金を投機に用いることから、問題が生じる。
 また、ギャンブルの「道徳」として、掛金は必ず支払わなければならない。口約束で掛けをして、負けたときに支払う掛金が無いというのは最も許されざることである。
 それ故、
 ・金融取引に信用供与をしてはならない。金融取引は必ず「現有資金」でしなければならない。
 ・「空売り」は禁止すべきだ。
 ・年金、保険金などの「基金」を使って株式や資産購買をしてはならない。(残念ながら実際には盛んに行われているが。)


その他
・政府発行紙幣
・乗数効果
について、大いに異論があるが、それは別の機会にする。

三橋貴明著 『ドル凋落 -- アメリカは破産するのか』 [経済学批判]

『ドル凋落 ―― アメリカは破産するか』 三橋貴明 著、宝島社新書、2010.03.24 発行

【この本の内容】

はじめに
_「国家の破産」の定義:「政府の負債のデフォルト(利払い不能あるいは返済不可能になること)」

第1章 2つのアメリカ
〇経済の見方
1-1. 支出側からみたGDP=個人消費+民間投資+政府支出+純輸出(海外の超過支出)
1-2. 「誰かの負債は、誰かの金融資産」
_⇒誰かが負債を増やさない限り、誰かが資産を増やすことは絶対にできない。
1-3. 資本主義経済の基本モデルは「民間企業が融資を受け、設備投資などを重ねて収益を上げ、個人消費などに波及することで成長していく。
1-4. 「民間の負債」が拡大しないと不景気になる
_⇒民間が負債を負わない場合、政府が負債を負うことでGDP(景気)を維持する
1-5. 市場利子率>投資効率である限り、民間投資が拡大しないとともに、インフレにはならない。
_⇒政府の負債が増加してもインフレにはならない。
1-6. 「恐慌経済」とは、民間が負債を増やさず、フロー上で個人消費や民間投資が拡大しない経済のこと。

〇リーマンショック後のアメリカ経済
A. アメリカは「恐慌経済」にある。
B. 民間投資の縮小を政府支出拡大とFRBによる資金供給で補い、GDP(景気)を維持している。
C. 金融政策のみでは恐慌経済から抜け出せない
D. 政府・FRBがいくらドルを供給しても、資金は国内投資には向かわずに海外に向かう。
E. 現在のアメリカ経済は、ウォール街と国民経済との間で、完全に二分化された状態にある。

第2章 マネーストックの謎
2-1. マネタリーベースとは、中央銀行により供給されたお金の残高
2-2. マネタリーベースを増やしてもマネーストックは増えない(海外に流出している)

第3章 ドル凋落後の世界
A. アメリカの代わりをしようとする国はない
B. 09年3月以降にアメリカ政府が実施した財政出動の拡大や、FRBによるマネタリーベースの増大は、少なくとも政策の方向性としては、間違っていない。
C. オバマ政権の政策は基本的に間違っていない
_1) 最優先課題は雇用創出。雇用創出の主役は中小企業
_2) 今後5年間で輸出を3倍増
_3) 11年度から3年間、政策支出の伸びを凍結
_4) 金融規制改革の実施
D. ドルが例えば1ドル=70円台になることはあっても、崩壊することはない。

おわりに
A. ユーロ問題
ユーロとは財政政策については各国任せで、金融政策のみをECB(欧州中央銀行)に移譲するという、歪んだ形の「共通通貨」だった。
B. 2つのアメリカ問題
中国こそが、人民元の対ドルレートを不当に安く維持し、アメリカへの輸出攻勢をかけ、アメリカ国民の雇用や受容を奪ってきた張本人だ。
アメリカ国民は、ウォール街と中国の「タッグ」により、搾取されていたことになる。


【考察】

1.この本に書かれている「アメリカの問題」の多くは、ECおよび日本にも共通する問題だ。それは、実体経済における「不均衡」である。しかしこの本は、(他の多くの経済書と同様に)この実体経済における問題点に言及していない。
_1. 先進国は、国内経済が飽和状態にあり、拡大の余地が少なかった。
_2. 特に中国その他アジアを中心とする発展途上諸国の労働部門レベルの向上と、経済のグローバル化(特に資本自由化)により、日本を含む先進諸国の労働部門は、低賃金の発展途上国との競争にさらされ、賃金低下を受け入れるか失業するかという選択を迫られ、それが不均衡とデフレを解消できない大きな要因となっている。これは、究極的には発展途上国の賃金が上がり、先進国の賃金が下がり、同一レベルに近づくまで避けられない。従ってデフレを抑えようとなどせずに先進国の物価も下がってもらわないと先進国の国民は困ってしまう。
元々先進諸国の国民は、その他の諸国の経済が弱かったことで「いい目」を見てきたのだ。それらの諸国に追いつかれれば、従来のような「いい目」が見られなくなり、対等な競争にさらされるのは当然と言えば当然の成り行きなのだ。
_3. 「アメリカの2極化」は経済のグローバル化の結果であり、アメリカに限ったことではない。グローバル企業が資本主義の法則に従い、企業の利益に従って行動するとすれば、企業の国籍に関係なく世界の中から最も利益に適った場所に投資するのは当然である。一方で、そのような国益と対応しないグローバル企業を、税金・国費で支援しても、国(特に国民)の利益にならない。

2.自由経済(資本主義経済)は、政府の財政政策や中央銀行の金融政策で完全にコントロールできるものではない。特にグローバル化経済では、従来以上に出来ることは限られる。
_1. コントロール出来ない手段でコントロールしようとすれば、操作量が極限に張り付くことになる。デフレの原因を除去しないまま、金利を下げることでデフレを止めようとすれば、金利が0に張り付くのは当然の結果だ。
_2. 第3章のB.で著者は「アメリカ政府が実施した財政出動の拡大や、FRBによるマネタリーベースの増大は、少なくとも政策の方向性としては、間違っていない。」と言っているが、第1章のC「金融政策のみでは恐慌経済から抜け出せない」と矛盾する。(アメリカ政府とFRBを日本政府と日銀に置き換えても同じだ。)これは、「患者が出血しているのだから、輸血するのは間違っていない」と言っているようなものだ。出血の原因を除去しなければ、いつまでも輸血し続けることになる。
_3. 1国のレベルで何かをしようとするならば、その政策が国内だけで完結するように対外的「障壁」を設ける(つまりグローバル化を止める)しかない。そうでなければ、1国ではなく世界レベルで調整するように提唱するしかない。

3.金融危機以前の世界経済は、アメリカの犠牲(アメリカ国民の愚かな浪費)に支えられて拡大してきた。(特に日本は1970年代以来一貫してそうであった。”おわりに”のBに相当する中国については、最近のことである。)アメリカ経済の立ち直りにとって最大の難点は、アメリカに代わって愚かな浪費をしてくれる国が他にないことである。
アメリカ国民にとって最善の道は、アメリカが最早経済的には最強国ではなく、アメリカ国民は貧乏になったことを自覚し、「世界帝国」を返上し、身の丈相応の国になることである。アメリカが世界から撤退すれば、アメリカ自身多くの権益を失うであろうが、広げすぎた戦線から撤退して余力を生み出す戦略的後退が必要なのだ。そうなれば世界の勢力均衡が崩れ世界は政治的に不安定になるであろうが、それはアメリカの責任ではない。それぞれの国の責任なのだ。まあ、オバマ大統領でさえしないのだから、このようなことは起きないであろうが。

「ドル凋落」 資金の流れ.JPG



奥村宏著 『経済学は死んだのか』 [経済学批判]

奥村宏著 『経済学は死んだのか』、平凡社新書 521、2010.04.15 初版発行

【内容】
・金融工学をはじめ現代の経済学は現実から遊離している。
・金融危機とそれに続く不況以来、「マルクスに帰れ」、「ケインズに帰れ」と言われるが、マルクスやケインズが直面していた問題と現代の経済問題とは隔たっている。ただ戻っただけでは役に立たないことは明らかだ。
・日本の経済学は、外国の経済学を訳して解説するだけの輸入経済学。
・アメリカの真似をして政治に参加する経済学者が出てきたが、実際には官僚に都合良く利用された「お飾り」にすぎない。
・経済の現状を経済学者に伝えるべきジャーナリズムが「政府-官僚-財界」の宣伝機関に成り下がっている。取材源が「記者クラブ」と「企業の宣伝部」に限られ、記者自らの目で現場を取材できなくなったし、しなくなった。
・新しい経済学が必要。

〇著者は、会社、企業を研究し、日本的株式会社の特徴を「法人資本主義」と名付けて、その問題点を指摘している。

この著書で最も参考になったのは、著者の研究の仕方が書かれている点にある。
経済の現実に立った研究をするためにはどうしたらよいか?著者によれば、それには、複数の新聞を読み、問題別に切り抜きをして、スクラップブックを作ることが必要である。どの新聞の記事が正確であり、どの記事が切り抜く必要があるかを、自分で判断することが不可欠である。この方法は、日本では「満鉄調査部」によって始められた。
しかし、最近の経済記事は企業の宣伝部の受け売りばかりで、役に立たなくなった。
という。

【参考】
現代アメリカ経済学批判については、『ノーベル賞経済学者の大罪』(Deirdre N. McCloskey 著、ちくま学芸文庫、2009.10.10発行)の中で著者McCloskeyが、
1.「統計的有意性」という言葉を技術的な意味で使いながら、「科学的重要性」と同一視した、ローレンス・クラインの確信。
2.黒板上で「存在証明」がなされれば、それが科学的な真理であるとする、ポール・サミュエルソンの確信。
3.統計的有意性と黒板上での証明の2つは、経済政策の策定に応用できるとするヤン・ティンバーゲンの確信。
を挙げている。1と2は、アメリカ経済学者の論議が全く現実と遊離した仮定に立った数学的お遊びに過ぎないことを示している。それを学者の間だけでしているのであればまだましだが、3でそれを現実の経済政策に適用しようとしたところに最大の罪がある、という。

〇ジャーナリズムの戦後における変遷(体制順応化)については、魚住昭氏が、共同通信社における同様な経験を書いている。

【内容に無関係な寸評】
p.150 「会社はもちろん人間ではなく、人間が集まって作った組織にすぎない。」
p.152 「企業-会社-株式会社は果たして実体なのか。人間は実体であり、誰の目にも見えるが、会社は目に見えないし、実体がない。」

顕微鏡を使って人間を観察すると、それは細胞が集まって作った組織に過ぎない。活動しているのは個々の細胞である。人間の実体はどこにあるのか?人間の心はどこにあるのか?
蟻は実体であり、誰の目にも見え、身体があるが、1匹の蟻を観察しただけでは蟻というものを理解できない。蟻の集団社会を観察してはじめて、蟻が理解できる。

Moneyの保存則 [経済学批判]

数年前、『日本を滅ぼす経済学の誤り』(堂免信義著、光文社刊、2005.09.30初版発行)という本の第1章冒頭に、

「貨幣経済では、支出は必ず誰かの収入になります。」

という文章をみつけた。この本全体は全く同意できない内容であるが、これだけは「なるほど」と感心した。経済学の本を読んで理解に苦しむのは、「保存則」が存在しないからだと判った。

Moneyは、取引により所有者は移転するが、市場経済に現存するMoneyは常に誰かの所有にあり、虚空に消えたり空から舞い降りてくることはない。そして、Moneyは、誰かが新たに市場に投入しなければ増えず、誰かが市場から引き上げなければ減らない。

ところが多くの経済に関する本では、このMoneyの保存則が考慮されていない。その代表的な例が「需給曲線」だ。色々需給曲線を動かしているが、Moneyをどうやって増減させているのか根拠が不明だ。
また、経済は全ての部分が全体に関連しているから、ある部分の議論でMoneyが増減すれば、それは必ず他の部分に影響する。しかし、他の部分への影響は考慮されていない。
これは、現実の経済で、1銭の計算違いも許されない経理や簿記と対照的だ。

これに関連して、「貯蓄」という言葉の曖昧さが問題だ。
新古典派的な「均衡した市場経済」には貯蓄は存在しない。「均衡した市場経済」にMoneyを導入しても、全てのMoneyは資産の減価を償却するための引当金であり、常に市場を流通し続け、どこかに溜まることはない。つまり「余ったMoneyとしての貯蓄」は存在しない。
然るに、新古典派的な「均衡した市場」をベースにしながら「余ったMoneyとしての貯蓄」が議論されている。その代表的な例がIS/LM分析に出てくる「貯蓄≡投資」という式だ。
『ケインズ『一般理論』を読む』(宇沢弘文著、岩波現代文庫、2008.08.19初版発行)によると、(p.86)

「いま個々の経済主体 j についてみると、その所得 Yj は、一部分は消費購買 Cj となり、一部分は実物財の購入、つまり投資 Ij となる。残余は、他の人々が発行した金融資産の購入、すなわち貯蓄 Bj となる。
(1) Yj = Cj + Ij + Bj
・・・
(5) I ≡ S」

これは恐らく、時間の存在しない「均衡した市場経済」上の設定ではなく、ある期間の取引の結果だと思うのだが、残余 Bj ≠ 0 が存在するということは、「不均衡」である。
残余で必ず金融資産を購買するとは限らない(箪笥預金だってある)から(5)が恒等式などというのは現実には誤りだが、とりあえずそうであると仮定する。この一連の期間取引を繰り返すと、 「Bj > 0 の経済主体には債権が累積し続け、Bj <0 の経済主体には債務が累積し続ける」結果になる。これは永続し得ない一時的状態であって、こんなものを一般理論として論ずるわけにはいかない。
従って私は、この本をここから先に読み進むことができない。

現実には、「余ったMoneyとしての貯蓄」は幾らでも存在する。現実の市場経済は「不均衡」だからだ。

現実の経済を見ればわかることだが、新たな投資の資金は

1. 取引の不均衡により生じた余剰のMoney
2. (銀行による)新たな信用供与(信用創造):市場に新たなMoneyを投入
3.(国内で見れば)貿易黒字によるMoneyの流入:国際的に見れば(1)と同じ
4. 政府によるMoney発行: 市場に新たなMoneyを投入

等々がある。「貯蓄≡投資」などという式は、現実には何の意味もない。


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