ビリー・ブレッケンリッジの「ヘルドラド」 [ワイルドウエスト]

ビリー・ブレッケンリッジの「ヘルドラド」

 ビリー・ブレッケンリッジ (William Milton ‘Billy’ Breakenridge, 1846.12.25-1931.01.31)は、映画「トゥームストーン」(1993)で、軟弱な人物に描かれているが、実際のブレッケンリッジに対する一般的な評価は、「トゥームストーンでかつて仕えた最も丁重で控え目な治安維持官(most cordial and modest peace officer)」であった。彼は銃を最後の手段としてのみ使用したが、必要な場合には、素早く精確に使用した。

 ビリー・ブレッケンリッジは1846年12月25日ウィスコンシン州ウォータータウンに生まれた。14歳まで地元の学校に通った後、列車の中の新聞売りとして働いた。
 南北戦争中の1862年冬(15歳)に家を飛び出してミズーリ州ローラで軍需品部門の輸送隊の手伝いをした。その後、兄のいるコロラド準州デンヴァーで臨時雇いの荷馬車による物資輸送、家畜の管理、準州議会における議員奉仕係(page)などをした。
 1864年、対インディアン作戦のために百日間徴用で新たに編成された第三コロラド騎兵連隊に入隊して伝令として仕えた。この部隊はチヴィントン大佐に率いられて1864年11月29日、サンドクリークのインディアンの村を襲撃した(「サンドクリークの虐殺」)。
 1864年末に除隊後、コロラド北部、ネブラスカ、ワイオミングの境界を流れるプラット川流域で、荷馬車による物資輸送、家畜の管理、車掌などをした。1869年コロラド準州キットカーソンを訪れたとき、保安官トーマス・スミス(後にアビリーンの保安官となり、 “No Gun Marshal”と呼ばれた、1830-1870)と面識を得て、感銘を受けた。
 1870年春、デンヴァー&リオグランデ鉄道に、最初枕木材伐採の樵として雇われ、後に測量の手伝いをして測量を習い、測量技師として働いた。

 こうした辺境地での暮らしの中でブレッケンリッジは、荒野で生きる術、家畜の扱い、追跡術、インディアンの習性、銃器の扱いなどフロンティアマンとしての技量を修得していた。彼は最後の手段として、相手が撃ってきたとき以外には使わなかったが、銃の名手であった。

 1876年、アリゾナへの移住集団にガイドとして雇われ、トリニダド(コロラド)からアルバカーキ(ニューメキシコ)を経由してアリゾナ準州プレスコットに旅した。そのままアリゾナに留まり、フェニックスで荷馬車による物資輸送などに従事し、ブロードウェイ(Broadway)郡保安官の下で代理(deputy)に任命された。
 1879年末、多くの者たちと同様に銀に惹き寄せられてトゥームストーン周辺で探鉱をしたが成功しなかった。その後トゥームストーンに留まり1880年秋まで鉱山施設への木材輸送などをしていた。
 1881年1月、ジョン・ビーハン(John Behan)がコチーズ郡保安官に任命されると、ビーハンはブレッケンリッジを代理(の一人)に指名した。上司のビーハンと同様に、ブレッケンリッジは「カウボーイズ」とある程度折り合いをつけながら法を執行した。
 1881年10月26日の「O.K.コラール近くのガンファイト」当日には、彼は別の犯罪捜査でトゥームストーンには不在であった。
 1882年3月末の、モーガン・アープ暗殺に続くアープ隊とビーハンの追跡隊との「追いかけっこ」には加わらなかった。同じころに起きた鉱山会社強盗殺人犯人追跡中の3月26日、撃ち合いとなり、ブレッケンリッジの治安維持官としての経歴の中で唯一相手の一人を射殺した。

 コチーズ郡保安官代理の地位を去った後、ブレッケンリッジは一時牧場を経営し、その後1884年春、H.C. フッカー(Henry Clay Hooker)のシエラボニータ牧場(Sierra Bonita Ranch)で働いた。
 1886年、W.K. ミード (William Kidder Meade)がアリゾナの連邦保安官になると、彼はブレッケンリッジをフェニックスでの代理に指名した。同年9月、アパッチのジェロニモが最終的にマイルズ将軍に降伏したとき、ミードの指示でブレッケンリッジは逮捕状を持って軍にジェロニモ等の引き渡しを要求したが、軍に拒否された。
 1888年マリコパ郡の選挙でブレッケンリッジは郡の測量技師に選ばれた。1889年、ソルト川とヴェルデ川の流域でダムを建設するのに適した地の調査を行い、ソルト川とトント川の合流点近くの地点を選定した。彼の報告書は却下されたが、1911年、彼が選定したのと同じ地点にルーズヴェルト・ダムが完成した。
 連邦保安官代理の任期を終えた後、1892年、ブレッケンリッジはサザンパシフィック鉄道にスペシャルオフィサーとして雇われ、鉄道犯罪(主に列車強盗)の犯人追跡・逮捕に携わった。
 1903年、年齢を感じるようになったブレッケンリッジは、同じ鉄道会社のクレームエージェント(苦情処理担当)となり、1918年、72歳で引退した。

 ブレッケンリッジはトゥーソンで引退生活を送り、昔の話を語るのを好んだ。タイプライタを習得し、友人たちの勧めもあって、回想録を書いた。それは1928年、”Helldorado, Bringing the Law to the Mesquite” の表題で出版された。ワイアット・アープと彼の妻ジョセフィン・マーカスは、この本のアープに関する記述に憤慨して「大部分事実よりもフィクションに基づいている」と批判した。この本は世間的には好評を博した。トゥームスーン市は、この本に着想を得て、1929年から毎年”Helldorado Days”の催しを始め、それは今日まで続いている。

 Helldoradoとは、Hell(地獄)とDorado(黄金郷)の造語と思われるが、Wikipediaによると、当時のある鉱夫がナゲット紙に投稿した文中でトゥームストーンにつけた綽名という。

 ブレッケンリッジは第二作を構想していたが、それを果たす前に1931年1月31日に85歳で世を去った。ブレッケンリッジの墓はトゥーソンにあるが、その墓石には、彼の名が “BRECKENRIDGE” と、恐らく発音に従って誤って刻まれている。



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