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片岡剛志著 「奇跡の経済教室 基礎知識編」 [読書感想]

奇跡の経済教室 基礎知識編
片岡剛志 著 KKベストセラーズ 刊 2019.04.22

本書は、第1部では「需要の過不足を原因とするインフレとデフレ」を中心として日本経済の現状を読み解いている。第2部では、現代経済学の誤りを解説している。

【構成】
はじめに
第1部 経済の基礎知識をマスターしよう
第1章 日本経済が成長しなくなった単純な理由
第2章 デフレの中心で、インフレ対策を叫ぶ
第3章 経済政策をビジネス・センスで語るな
第4章 仮想通貨とは、何なのか
第5章 お金について正しく理解する
第6章 金融と財政をめぐる勘違い
第7章 税金は、何のためにある?
第8章 日本の財政破綻シナリオ
第9章 日本の財政再建シナリオ
第2部 経済学者たちはなぜ間違うのか?
第10章 オオカミ少年を自称する経済学者
第11章 自分の理論を自分で否定する経済学者
第12章 変節を繰り返す経済学者
第13章 間違いを直せない経済学者
第14章 よく分からない理由で、消費増税を叫ぶ経済学者
第15章 主流派経済学は、宗教である

本書のまとめ
1. 平成の日本経済が成長しなくなった最大の原因は、デフレである。
2. デフレとは、「需要不足/供給過剰」が持続する状態である。インフレとは、「需要過剰/供給不足」が持続する状態である。
3. 新自由主義は、本来、インフレ対策のイデオロギー。デフレ対策のイデオロギーは、民主社会主義。
4. 平成日本は、デフレになったのに、新自由主義のイデオロギーを信じ、インフレ対策(財政支出の削減、消費増税、規制緩和、自由化、民営化、グローバル化)をやり続けた。
5. 貨幣とは、負債の特殊な形式である(「信用貨幣論))
6. 貨幣には、現金通貨と預金通貨がある。
6. 「現代貨幣理論」の貨幣理解のポイント
    国家は、国民に対して納税義務を課し、「通貨」を納税手段とすることを法令で決める。
8. 量的緩和(マネタリー・ベースの増大)では、貨幣供給量は増えない。
9. 財政に関する正しい理解(「機能的財政論」)
10.財政赤字を拡大しても、それだけでは金利は上昇しない。
11. 国内民間部門の収支+国内政府部門の収支+海外部門の収支=0
12. 税収=税率×国民所得
13. 政政策の目的は、「財政の健全化」ではなく、デフレ脱却など「経済の健全化」でなけてばならない。
14. 自由貿易が経済成長をもたらすとは限らないし、保護貿易の下で貿易が拡大することもある。
15. 主流派経済学は、過去30年間で、進歩するのではなく退歩した。非主流派経済学者は、一般均衡理論という、信用貨幣を想定していない非現実的な理論を信じている閉鎖的な集団の一員である。
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【考察】
本書の内容は「現代貨幣理論(MMT)」と同じである。それで「反MMT」の側に立って批判する。
米山隆一氏の「MMT(現代貨幣理論)なんてあり得ない!」によれば:
「 ***この中では、MMTは「地動説」的発想の転換であるとして、以下のような主張がなされています。
  1.銀行の預金が貸し出されるのではなく、預金は貸し出しによって生まれる
  2.通貨発行権を持つ国は財政赤字では破綻しない
  3.財政赤字は民間の貯蓄を増やす
  4.財政赤字によって通貨供給量が増える
  5.財政赤字は金利上昇をもたらさない
  6.財政赤字がインフレを招いたら、財政赤字を止めればいい(やめる事が出来る)
ところが、このうち1~5は標準的経済学でも同じ結論になります。」
そして、「MMT批判者の争点は6になる」としている。

〇市場経済とマネー
市場経済で取引されるものは、究極的には「物(財・サービス)」と「物(財・サービス)」の交換であり、マネーはその交換を媒介するだけである。市場経済のプレイヤーは、なにがしかを生産・販売してマネーを手に入れ、そのマネーで必要なものを購買し消費する。物(財・サービス)は生産され消費され続けるが、マネーはプレイヤーからプレイヤーへと流通し続ける。それゆえ市場経済のマネーは「通貨(流通貨幣)」と呼ばれる。

ある実物経済の規模を支えるのに必要な貨幣量は定まっている。
実物経済を拡大するには、それに応じた貨幣の供給が必要である。それ以上の貨幣を供給しても、それは実物経済で流通せずに資産市場に流れる。
実物経済から貨幣を引き上げれば、実物経済の規模は縮小せざるを得ない。
一方、物(財・サービス)とマネーの交換取引だけでは市場経済は「均衡しない」

〇市場経済と財政の関係
政府を市場経済に組み込む場合、政府は「行政サービス」を提供してその費用の対価を「税」として徴収することで、均衡を保つ。

市場での取引は、「ゼロサム」である。著者が第9章で説明している通り、

    国内民間部門の収支+国内政府部門の収支+海外部門の収支=0

海外部門の収支≦0 つまり黒字国であれば、国内民間部門は、政府財政支出を含めて、支出を賄うだけの「購買力」を生み出していることを意味する。

日銀による財政ファイナンス以前にも、国債を国内で消化できたのは、日本が黒字国で、政府支出を賄うだけの生産力、あるいは「購買力」があり、それで国債を購入して「購買力」を政府に渡し財政支出を支えていたからだ。
この意味で、「政府の財政赤字がGDPの〇〇%を超えたら問題だ」とか、「毎年の財政赤字をGDPの〇〇%内に収めれば問題ない」などというのは、全く根拠がない。

この状態で政府が赤字国債を累積し続けることになったのは、国内生産力が生み出す収入あるいは「購買力」の政府への分配(つまり税収)と財政支出との不均衡のためであり、政府財政赤字の結果として生じる民間黒字を税として徴収していれば、赤字を累積させる必要はなかった。「永久に借り続けて返さない」のと「徴収する」のは同じことで、徴収した方がはるかに良かった。 プライマリーバランスを取るとは、正にそうすることである。

〇不均衡の累積
政府の赤字財政が継続することは、”不均衡”の累積である。中央銀行が財政ファイナンスを続ければ、その分市場にはマネーが累積する。
この累積マネーは実物市場で流通せずに、「退蔵」されるか、あるいは金融・資産市場に流れ、金融資産・地価などの上昇を起こす。これらは、「物価」を構成する品目には含まれていないから、「物価上昇はない」とされるが、格差の拡大、居住費の増大を引き起こす。

不均衡の累積は、最初の数年間は目立たないが年数を重ねるに連れて弊害が生じ、そのときにはもう「後戻りはできない」。

累積赤字分のマネーは実物市場で流通しているのではないから、実物市場に対する課税(所得税、消費税など)で回収しようとしてはならない。そんなことをすれば実物経済を圧迫し、不況に陥る。では、どのようにして回収すべきか?資産課税できるのか?放っておいて何時か高インフレが起きて解決してくれるのを待つのか?それは財政赤字を累積させた人たちに責任をもって答えてもらおう。

累積赤字を減らす一つの方法は、貿易黒字を拡大し、それを税で徴収することである。「米国民が”馬鹿みたいに”過剰消費する」のを期待し、「中国政府が”馬鹿みたいに”過剰投資する」のを期待出来たら可能かもしれないが、それは過去の話だ。

〇「インフレが起きたら課税すればよい」というが、どうなればインフレになるか
著者が第1章で説明している通り、物価の上昇・下落は「需要と供給の関係」で決まる。これは、実GDPが潜在GDPに近づけば、需給が逼迫して物価上昇に転じることを意味する。更に需要が増えれば、生産性向上がない限り、国内生産では追いつかずに輸入増となる。

政府が「物価上昇を引き起こさずに財政を拡大できる限度」とは、GDPギャップを埋める範囲内で、(同じことだが)対外赤字を出さない範囲内ということになる。

市場経済は競争で成り立っているからその基調は「供給力過剰」である。したがって多少の需要増加では物価は上昇しない。戦後復興期のような時代を別にすれば、物価が上昇に転ずるのは、主に石油の輸入物価上昇など専ら外部要因による。それは「増税すれば済む」ものではない。

一方で、日本の雇用の現状は、(雇用の質は別として)完全雇用に近いから、財政による事業の更なる増加は民間経済に対する労働力の「クランディングアウト」を引き起こす。そして、新たなインフラ整備のような「新たな取引」を生み出すもの以外の政府事業は、民間経済の自発的な成長に何の効果もないから、(何らかの状況で民間の自発的成長が始まらない限り)財政赤字は半永久的に続けることになり、それを財政ファイナンスし続ければ、市場に供給されるマネーは無限大に向けて増大し続け、格差を広げ続けることになる。

もし政府がそれ以上の財政支出をすれば、民間が支出を減らさざるを得なくなり、国民の暮らしを圧迫するすることになる。(戦時経済がその例。)
個人であろうが(政府ではなく)国であろうが、中期的に見れば、生産力あるいは収入以上の支出はできないという当たり前のことである。

〇 奇跡は起きない
MMTは「奇跡」を起こさない。マネーをつくり出して財政を穴埋めしようとする誘惑は、今に始まったことではない。ジョン・ローのミシシッピ計画(資産に基づくマネー発行)、貨幣改鋳(品質低下)、グリーンバック紙幣(マネープリント)、***。実物経済の拡大を伴わないマネーだけの限りない増加はいずれ破綻する。
一方、よく言われる「ハイパーインフレ」は、マネープリントから起きたというよりも、実物経済における生産・流通システムの破壊に起因する。

考えるべきは、どのようにして必要とする生産力、従って購買力を(労働人口減少の中で)維持あるいは増加させるか、そして、政府が必要な税額をどこから(負担できるところから)徴収するかという実物経済の地道な努力であって、「奇跡」を願っても役に立たない。
現状それが難しいのは、「経済はグローバル、政治はローカル(国別)」という中で、政府が国際化した企業をコントロールできないからである。
しかし、「マネーを作って解決」しようとするのは、目先の安楽を願う「麻薬」に手を出すことである。

MMT を歓迎しているのは、相異なる二つのグループで、
一つは、金融業界。金融業界は金融市場にマネーが流入し続けることで、キャピタルゲインを得られる。マネーが流入しなければ、ゼロサムゲームになってしまう。それゆえ、「理屈は何であれ」マネーを増加させることは全て歓迎する。
もう一つは、「反緊縮!」を掲げる急進左派。本来は、一次分配の格差是正を目指すべきなのだが、それを「待っていられない」と MMT という「麻薬」に手を出そうとしている。




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高橋洋一 著 「「年金問題」は嘘ばかり」 [読書感想]

年金問題」は嘘ばかり ダマされて損をしないための必須知識 高橋洋一 著 PHP親書 2017.03.29 初版発行


【構成】
プロローグ 「年金が危ない」と強調して「得をする」のは誰だ?
第1章 これだけで年金がほぼ分かる「三つのポイント」
第2章 「日本の年金制度がつぶれない」これだけの理由
第3章 年金に「消費税」は必要ない
第4章 欠陥品「厚生年金基金」がつぐれたのは当然だった
第5章 利権の温床 GPIF は不必要かつ大間違い
第6章 「歳入庁」をつくれば多くの問題が一挙に解決する
第7章 年金商品の選び方は、「税金」と「手数料」がポイント


【考察】
著者の主張について:

●公的年金は賦課制・マクロ経済スライドをしているので、公的年金が破綻することは無い

著者の言う通り、賦課制で現役からの徴収額を引退世代に分配するのだから、その意味では破綻はしないかもしれない。しかしこれは、「所得代替率4割(あるいは5割)」が確保でき「年金で生活できる」ことを意味しない。
著者は、必要なことは経済成長だと言っているが、それが出来ていたら誰も心配はしない。2017年の時点で、未だ安倍政権に期待をしている(p.98-99)とはどういうことか?
少子高齢化時に必要なことは、D. アトキンソン氏が言うように、経済成長つまりGDPを拡大することよりも、「生産性を上げる」こと。つまり、少ない労働力で現在と変わらない付加価値を生産し、それを引退世代にも(所得代替率4割ないし5割で)分配する税制上の仕組みにすることだ。

●GPIF は不必要かつ大間違い
賦課制のはずの公的年金でなぜ百何十兆もの「積立金」があるのか不思議でならなかったが、少しは分かった。これは言うなれば、「引退世代」から「将来世代」への移転だ。この積立金の最大の問題は、「どのように運用するのか」ではなく「どのように使うのか」が決まっていないことにある。
著者の言う通り、GPIF は廃止すべきだが、株式を止めて国債にしろというのは:
「積立金はリスクヘッジののために株式運用必要」(p.151)という著者の主張と矛盾する。
GPIF の持ち株を短期間に大量に売りに出したら、株式市場はどうなるか?株式は「買うは良いよい売るのは怖い」
国債で運用するにも、日銀が国債を放出しないとならない。そうしたら、安倍・黒田金融緩和と逆行してしまう。出来るか?「物価連動国債」「変動利付国債」など発行されるか?「変動利付国債」が発行されても黒田日銀の「ゼロ金利政策」が続く限り意味がない。

● 歳入庁
歳入庁を設けるのには賛成。財務省が「内閣府歳入庁」に反対するなら、「財務省歳入庁」にすれば良いのではないか?内閣府は「省庁間の調整役」であって「実務機関」を持つべきではない。



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岩本充 著 『金融政策に未来はあるか』 [読書感想]

金融政策に未来はあるか 岩本充 著 岩波新書 1723 2018.06.20 初版発行

【構成】
はじめに
第1章 日本の経験
  1.高度成長とその終わり
  2.流動性の罠とインフレ目標論
  3.そして異次元緩和へ
第2章 物価水準の財政理論
  1.誰が貨幣価値を支えているのか
  2.物価水準の財政理論と金融政策の役割
第3章 マイナス金利からヘリマネまで
  1.成長の屈折と自然利子率の問題
  2.マイナス金利政策の意味と限界
  3.ヘリマネはタブーか
第4章 金融政策に未来はあるか
  1.貨幣の最適供給問題
  2.仮想通貨から考える
  3.通貨が選択される時代で

【考察・感想】
 始まりは、2008年リーマン・ショックに端を発した金融危機。米・EUが金融緩和に転じたのに対して、(既に緩和をし尽していたと当時の白川日銀は考えていた)日本は、(産業界から見れば)日銀の無策のために空前の円高に苦しむことになった。そこで白川日銀非難の大合唱となった。
  2013年、「白川日銀」に代わって「黒田日銀」が期待を担って登場し「異次元の緩和」が始まった。

  その結果、確かに円安と株高が実現し、それにより輸出大企業は空前の利益を上げた。
  他方、黒田日銀約束の2年が経っても2%の物価目標は達成できず、達成目標を何度先送りしても達成できていない。

 この間に、『経済政策を売り歩く人々』(P. Krugman の著書の日本語題名を借用)が、

   ■ 「クルーグマンのインフレ目標」(p.18)
   ■ バーナンキの提言(p.32)
   ■ シムズ論(物価水準の財政理論、p.36)
   ■ サマーズの「長期停滞論」(p.80)
   ■ ターナーの日銀保有国債消却論(p.111)
   ■ ヘリコプターマネー論(P.112)
   ■ スティグリッツの政府紙幣論(p.117)

等々、日本のデフレへの処方箋と称して口を挟んできた。幸い今のころどれも採用されていないが。

 黒田日銀の緩和政策は続き、誰が考えてももはや「真っ当な後戻り」は出来ない。緩和の出口は「誰も考えたくない」、唯々先送りの状況が続いている。
  こうして溢れ続ける法定貨幣はいつか制御不能のインフレを起こして紙くずになるかもしれない。そうした事態に対応するものとして仮想通貨が登場してきた。仮想通貨が「通貨」として成功しているとは言えないが。

  この著書に登場する諸説・理論を見ていると、「人間の体を血量と血圧だけで処置しようとする医者」を想像したくなる。出血して血の量が減っていれば、(止血ではなく)輸血せよ。血の巡りが悪ければ、(障害を取り除くのではなく)血圧を上げよ。・・・

 実体経済から現代経済の現状を見ると:

  ■ グローバル化された開放経済では一国の経済政策で自国の経済を完全にコントロール
    することは    できない。
  ■ 世界的に経済成長が低下・停滞している主要因は、経済成長の主要因の人口ボーナス
    (人口増加)が減った、あるいは、なくなったため。
  ■ 格差拡大とその結果の過剰供給力と過少購買力
  ■ 日本の長期停滞の主要因は賃金デフレ、大企業の内部留保
  ■ 世界的な赤字財政のため、市中には流通から外れた緩和マネーが金融市場に溢れ、
    経済を攪乱ている。
  ■ 金利の低下は(投資)マネー需要がないため。
  ■ 中央銀行がベースマネーを増やしても、国債購買か、資産市場に向かうか、市中銀行
    に滞留するだけで、実体市場の投資には向かわない。

こうした状況下で、 中央銀行の金融政策だけでデフレを克服可能か?
出来る訳がない。そもそも、黒田日銀の異次元の緩和政策は、「デフレは貨幣的現象」(p.35)、「物価を上げれば経済が良くなる」(p.9)という誤った根拠に基づくものであった。

今や「市場(マーケット)」と言えば金融市場を指し、天気予報以上に「株価と為替」がニュースになっている。中央銀行は「市場との対話」が重要と、当然のように語られている。『金融が乗っ取る世界経済』(Ronald Doreの著書の題名)ならぬ『金融が乗っ取った黒田日銀』。

金融業界は、金融市場にマネーが流入し続けることで、ゼロサムゲームにならずにキャピタルゲインを得られる。それゆえ金融業界の言うことは唯一つ、「マネーを増やせ」。「景気が悪ければマネーを増やせ」「景気が動かなければマネーを増やせ」「景気が良ければマネーを増やせ。」結局、黒田日銀は金融業界を潤しているだけだ。

なすべきことは、中央銀行を金融業界から実体経済に取り戻すことだ。


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福田慎一著 「21世紀の長期停滞論」 [読書感想]

21世紀の長期停滞論 -日本の「実感なき景気回復」を探る
福田慎一 著 平凡社新書(Kindle版) 2018.01.15 初版発行

【構成】
はじめに

第1章 「長期停滞」という新たな時代へ
第2章 なぜ、長期停滞は起こったのか
第3章 日本の「実感なき景気回復」
第4章 長期停滞論からみた日本の景気
第5章 長期停滞下での経済政策
第6章 なぜ、構造改革は必要なのか
第7章 少子高齢化が進む日本の現状
第8章 イノベーションは日本を救うか
第9章 財政の持続可能性を問う
終 章「豊かな社会」を実現するために

あとがき

****

 この著書は、
   ・「サマーズの長期停滞論」の視点から、世界経済の低成長の説明(第1章、第2章)
   ・経済の長期停滞論から見た日本経済の状況(第3章~第5章)
   ・日本経済が長期停滞脱却するための構造改革の必要性(第6章~第9章)
そして、終章で「GDP成長を目標」とする経済の見方に対する疑問を呈している。

 終章で提示されるように、「GDPの成長」が究極の目標ではなく、「豊かさ」が目標であるとすれば、長期停滞といわれる現状への対処も変わる。つまり、「なぜGDPは成長しないのか、どうすれば成長するのか」を問うよりも、「「豊かさ」という目標に対してどんな問題があるのか、その解決策は何か」、あるいは「パイ(GDP)が不足しているのか」それとも「パイの分配に問題があるのか」を問うべきなのだが・・・。
 「最も望ましくない政策」は、財政赤字を拡大させて公共事業を拡大したり、需要の先取りをしたりて、現在のGDPの数字を無理やり引き上げていかにも政策が成功しているように見せ、課題や弊害を後の世代に押し付けるような政策である。

 本書では、「長期停滞」下の日本経済の課題として、急速に進行する「少子高齢化」と巨額に累積した「財政赤字」を挙げている。これを解決するために「構造改革」が必要としているが、何をどのように改革すればどのように解決できるのか、明確には示されていない。

 少子高齢化の問題は、一方で労働人口が減少し、他方で高齢人口の増加による社会保障費の増加である。これに対処するには、イノベーションにより生産性を高めることが必要であることは確かだ。
企業側から見ると、少子化による労働人口の減少を生産性の向上で補って生産力を維持することが目的となる。

 しかし、高齢人口増加による社会保障費の増加問題を解決するという観点からは、これだけでは不足である。生産性向上で企業が生み出す産出の増加分から、(企業に直接課税するかあるいは賃金の増加分に課税するかして)増える社会保障費にまわさなければならない。そうすると、日本の企業には減少する労働人口と増加する社会保障費の両方を負担しながら、国際競争力を維持するだけのイノベーションが求められる。

 現状では、このような企業への負担増加は「企業の海外逃避」の恐れを生じる。政治は国別、経済はグローバル化という現状の問題点は、政治が国際化した企業を統制できず、どの国でも企業に必要な課税ができないことにある。これは一国で解決できる問題ではなく、国際的な協調が必要であり、協力しない国は排除するような国際的な仕組みが必要となる。

 政府の累積債務については、「プライマリーバランス」をとるのが先決で、財政赤字で債務を累積させながら累積債務をどうしようかと論じても意味がない。
 債務をどこまで累積可能かについては、「状況次第」。日本が経常黒字を出し続け、(日銀ではなく)民間が国債を消化できる限り、どこまでも累積可能かもしれない。

 しかし、これと返済可能性とは別で、既に「まともな方法で」返済可能な範囲を超えている。
 民間が消化した国債を半永久的に償還しないで済めば、それは事実上徴税したのと同じで、しかも「税は負担できる者が負担する」という好ましい徴税の仕方になる・・・。




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川端祐人著 「我々はなぜ我々だけなのか」 [読書感想]

我々はなぜ我々だけなのか -アジアから消えた多様な「人類」たち
川端裕人 著 海部陽介 監修 講談社ブルーバックス 2012.12.20 初版発行

【構成】
はじめに
プロローグ 「アジアの原人」を発掘する
第1章 人類進化を俯瞰する
第2章 ジャワ原人をめぐる冒険
第3章 ジャワ原人を科学する現場
第4章 フローレス原人の衝撃
第5章 ソア盆地での大発見
第6章 台湾の海底から
終 章 我々はなぜ我々だけなのか
監修者あとがき

****

以前は、アジアの化石人類と言えば、ジャワ原人 Homo erectus erectus(以前は「直立猿人 Pithecanthropus erectus」と呼ばれた)、北京原人 Homo erectus pekinensis がすべてで、彼らがその後どうなったのか、恐らく新人が出現する前に絶滅していたと何となく考えていた。2003年にインドネシアのフローレス島で体長1m程度、脳容量も小さい小型の人類化石が発見され注目された。


本書は、主として本書の監修者海部陽介氏の調査研究に基づく、アジアの化石人類研究についてのルポルタージュ風解説書。
化石人類史といえば、アフリカ大陸におけるホモサピエンス登場までの進化史、ホモサピエンス「出アフリカ」後の拡散の歴史がほとんどの中で、本書は、アジアにおける化石人類研究の現状を俯瞰する貴重な本である。

本書によれば、ジャワ原人は、当初発見された120万年前~80万年前の化石から、断続的に5万年前までの化石が発見されている。アフリカの化石人類と異なり、この間原人→旧人→新人といった方向への進化はしていない。
    前期のジャワ原人(サンギラン、トリニール)  120~80万年前
    中期のジャワ原人(サンブンマチャン)         30万年前
    後期のジャワ原人(ガンドン)            10~5万年前

フローレス島で発見された小型の人類、フローレス原人(Homo floresiensis)は、当初12,000年前頃まで生存していたとされたが、最近の研究により5万年前に訂正された。また、同島の他の場所ソア盆地から発見された化石により、70万年前にはすでに小型化されていたことがわかった。
彼らがジャワ原人から進化したのか、あるいはより小型の現生人類から進化したのか、論争があるが、100万年前頃までにフローレス島にやってきたとされる。
フローレス島はオーストラリア区に属し、彼らがアジア区側からどうやって海を越えてオーストラリア区側に渡ることができたのかも謎とされている。

一方、北京原人は40万年前までに消滅したとされるが、台湾海峡の澎湖島の海底から、人類の下顎の化石が発見された。地引網に引っかかって引き上げられたとされるが、それが何年のことかは書かれていないので分らない。2008年頃から研究が始まり、2015年に「アジア第4の原人」とされた。19万年~13万年前程度とされる。

この他、中国の和県から出土した原人と考えられる化石が出土している。
「中国の旧人」については、名前だけで内容は具体的に示されていない。
これらは、未だ正式な分類がなされていない。

つまり、ホモ・サピエンス拡散以前のアジアの化石人類の研究については発展途上というより発展が開始されたところであり、今後が期待される。


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鯨岡 仁 著 「日銀と政治 暗闘の20年史 [読書感想]

日銀と政治 暗闘の20年史
鯨岡 仁 著 朝日新聞出版 刊 2017.10.30 初版発行


【構成】
まえがき
序章 「独立」した日本銀行
第1章 ゼロ金利解除の失敗
第2章 量的緩和の実験
第3章 リーマン・ショックと白川日銀
第4章 日銀批判のマグマ
第5章 レジーム・チェンジ
第6章 異次元緩和の衝撃
第7章 金融と財政、「合体へ」
あとがき


「金融政策は紐のようなものであり、引くことはできるが押すことはできない」-。金融政策について語るとき、こんな比喩を良く使う。
「インフレのときには金利を上げて引き締めればよい(紐を引く)が、デフレのときに物価を金融政策で押し上げる(紐を押す)のは難しい」(第1章 p.49-50)

この本は、「紐を押せ!」と要求するリフレ派・マネタリストの政治家・エコノミストと、「紐を押しても効果はない」と否定する速水優・白川方明などプロパー日銀総裁の「論争史」を時系列に解説したものである。
「あとがき」で著者が書いているように、評価や批判を避けて、「政策が誰の手により提唱され、どのような力学で決められ、実行されていったのかを克明に記録する」ことを目的としている。

※ 19世紀資本主義の登場から現在までを通して見れば、戦後先進国復興期の、需要が供給を上回ることから生じた「高度成長」、それに伴う「継続的な物価上昇」は「例外的な状況」であった。しかし、最近までの主流派の経済学は、この「例外的な状況」に基づいており、多くの人々の経済観もそうであった。今でも「成長し続けるのが経済の正常な状態」とされている。
中央銀行と金融についていえば、
    ・資金は常に不足し、投資資金需要は常にある。     ・中央銀行は、金利操作により市場に供給されるマネーの量を調整することで、経済(の過熱と冷却)をコントロールできる。
とされていた。
しかし、経済のグローバリゼーションが進んだ現在、一方では市場に(あるところには)マネーがあり余り、投資先を求めている。他方では、需要の伸びは鈍く、その結果(実体経済の)投資資金需要は減り続け、マネーに対する「需要と供給の関係」で市場金利は下がり続けた。中央銀行は金利を下げれば経済を活性化できると信じて、実体経済の金利低下の後追いで政策金利を下げ続け、ついには「ゼロ金利」に達した。


日本が戦後、苦しんできたのはインフレであった。・・・物価の上昇に目を光らせるのが、これまでの政府・日銀の役割であった。・・・(デフレーションは)少女アリスが迷いこんだ「不思議の国」のようなものであった。(第1章、p.48)

東大経済学部小山ゼミの小宮隆太郎教授は、1973年~74年の狂乱物価論争で、金利操作だけに執着していた日銀に対して、「マネーサプライを適正な伸びに抑えるべきだ」と主張した。
小宮ゼミに学んだ山本幸三と岩田規久男は、小宮理論を延長していけば、「マネーサプライを増やすことができれば、物価を引き上げることができ、デフレから脱却できる」という結論に行き着くと考えた。
小宮本人は、山本や岩田の議論を否定した。小宮は、マネーサプライの抑制がインフレ退治に効果を発揮するが、逆に無理に増やしても、ゼロ以下となった物価指数を押し上げる効果はないと考えた。小宮の側についたのは、白川方明であった。

「マネーサプライ論争」(1992、第1章、p.81)
    岩田規久男:『日銀理論』(金利操作だけに着目した金融政策)を放棄せよ。
    翁邦雄:『日銀理論』は間違っていない。(第1章、p.75~76)

1997年6月11日、改正日銀法成立。これは中央銀行の政府からの独立性を高めたものである。(序章、p.39)

2001年3月16日、麻生財務相による「デフレ宣言」

日銀総裁の速水優は、量的緩和を導入した(2001年)3月19日の記者会見でこう(「長期国債の引き受けなど絶対にするつもりはない。これは法律でも認められていない・・・」)力を込めた。
このとき速水が量的緩和と同時に導入したのが「銀行券ルール」、すなわち、日銀が保有する長期国債の残高を、日本銀行券の流通残高以内に収めるという運用ルールである。(2001.03、第2章、p.95)

2001年、山本幸三、渡辺喜美、舛添要一らが「日銀法改正研究会」の初会合を開いた。・・・
研究会は、物価上昇率の目標を定めて金融政策を運営する「インフレ目標政策」の導入や、日銀総裁の解任権を首相に持たせるなどを盛り込んだ法改正に向けて、検討していくことで一致した。(第2章、p.104-105)

2001年11月20日の経済財政諮問会議「デフレ対策と不良債権処理」
    ・吉川洋、平沼赳夫は、デフレ対策を求める
    ・速水日銀総裁は、不良債権処理の優先を求める

2002年、速水日銀総裁:「(インフレ目標は)インフレを抑えるために使っているので、デフレを抑えるために使っているという例はあまり聞いたことはない」(第2章 p.119)

2008年「リーマンショック」
2008年12月01日、米バーナンキFRB議長は、「バランスシートを活用」するという言葉を使うことで、「量的緩和」や「信用緩和」などあらゆる措置を講ずる意思を示した。(第3章、p.182)

2009年11月20日、菅直人副総理による(二回目の)「デフレ宣言」

2009年、白川日銀総裁、「日本の(2001~2006年の)量的緩和のときも、FRBも、超過準備も流動性もたくさん供給しているが、そのこと自体によって物価を押し上げていくという効果は乏しい」(第3章 p.193)

2012年11月15日、自民党安倍晋三総裁は読売国際経済懇談会で、「2~3%のインフレ目標を設定し、それに向かって無制限緩和していく」(第4章 p.259)

2012年12月26日、第二次安倍内閣発足

2013年1月、政府が目指すべき「物価目標」を数値で設定して日銀と共有する。日銀が様々な金融政策の手段を用いてその目標達成をめざし、責任を負う。
この政策の背景には、経済学の「貨幣数量説」という考えがある。世の中に出回っているお金の総量とその流通速度が、物価の水準を決めるというものだ。安倍(首相)のブレーン(浜田宏一、岩田規久男、本田悦郎、中原憲久など)は、金融政策が中長期的には物価水準を決めることができる、という考え方を固く信じていた。
一方白川はこれとは対極にいた。白川は、物価は世に出回るお金の量で決まるというよりは、むしろ経済の供給力と実需の差「需給ギャップ」などを反映した結果だと考えていた。(第5章、p.282)

2013年3月4日、衆議院運営委員会での日銀総裁候補黒田東彦の発言:
日銀が2000年にゼロ金利政策を、2006年に量的緩和政策を、それぞれ政府の反対を押し切って止めた。黒田はこうした政策判断を「いまから見ると明らかに間違っていた」と指摘。日銀が長期国債を買う量を制限している「銀行券ルール」についても、「私が知る限り、日銀だけにしかないルールだ」として見直しを示唆した。・・・
「(目標)をいつ達成できるのか分らないのでは物価安定目標にならない。グローバルスタンダードでは2年程度であり、2年は1つの適切な目途だ」
「2年で2%」を公約にした。・・・
(副総裁候補)岩田紀久男の発言は過激だった。・・・「就任して最初からの2年で達成できなければ、責任は自分たちにある。責任の最高の取り方は辞職することだ」。(第5章 p.315)


論争の結果は第二次安倍政権の出現で「紐を押せ!」派の勝利に終わった。黒田東彦総裁・岩田規久男副総裁の日銀は、異次元緩和と称して「紐を押しまくった」。その効果の程は、物価の現状が示している。

2016年9月5日、黒田は共同通信社主催のきさらぎ会の講演で、金融政策決定会合でおこなう「総括的な検証」について「予告」的な説明をおこなった。
黒田が「検証のポイント」としたのは「2%の物価上昇率目標が達成できていない理由」と「マイナス金利の効果と影響」の二つであった。
異次元緩和の開始から3年半たったが、足元の物価上昇率(生鮮品を除く)は前年比マイナス0.5%に留まっている。黒田は、こうした物価低迷の理由として「原油価格の下落」「消費増税後の消費など需要の弱さ(本書によれば黒田は日銀の政策が財政ファイナンスではないことを示すために増税を主張した)」「新興国経済の減速」の3点を挙げた。
3つとも、日銀がコントロールできない「外的要因」である。裏を返して言えば、これらの外的要因がなければ、目標を達成していた、という意味でもあった。(第7章、p.395-396)

更に裏を返せば、物価が上昇しても、それは日銀の政策結果ではなく、「外的要因」のためかもしれない。
もし、黒田総裁の検証が正しいならば、「(日銀政策で)購買量は増加したが、(外的要因のために)物価は上がらなかった」となるはずである。
現在、安倍首相が必死に財界を説得して賃金を上げようとしているのを見れば、どちらであるかわかる。



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友寄英隆著 『アベノミクスと日本資本主義 差し迫る「日本経済の崖」』 [読書感想]

『アベノミクスと日本資本主義 差し迫る「日本経済の崖」』
友寄英隆 著  新日本出版社 刊  2014.06.20初版発行

反アベノミクスの本である。
アベノミクスの経済政策を、現代資本主義の経済理論の混迷状態の表れと見る。
第1の矢:通貨・金融政策・・・・ニューケインジアン的な通貨・金融政策(インフレ目標)
第2の矢:財政政策・・・・オールドケインジアン的なスペンディング政策(公共事業政策)
第3の矢:成長政策(ミクロ政策)・・・・「新自由主義」的な「グローバル企業成長」政策(「規制緩和」と「構造改革」)
第4の矢:税制政策(消費税増税)・・・・「新自由主義」的な国民収奪政策(逆進的税制)
第5の矢:社会保障政策・・・・「福祉政策」縮滅による“反所得分配”政策

【構成】
第Ⅰ部 アベノミクスと日本経済の二極化
第1章 アベノミクスの全体構造
第2章 アベノミクスで二極化する日本経済
第3章 「成長戦略」と「新自由主義路線」
第4章 安倍政権のもとで、差し迫る「日本経済の崖」

第Ⅱ部 世界と日本の資本主義――現状と変革の課題
第5章 世界資本主義の現局面をどう見るか
第6章 日本資本主義の現段階をどう見るか
第7章 日本経済再生のために何が必要か――「成長戦略」に代わる「長期経済計画」の策定を

〈補論〉多国籍企業と国民経済

【考察】
1.この本の中で特に現状の問題で重要と思われるところ:

第Ⅱ部・第5章 (5) 世界金融危機後の資本主義の理論的・政策的な特徴――アベノミクスの背景
ニューケインジアンのインフレ・ターゲット論者(クルーグマンなど)は、
「――中央銀行が現在の通貨供給量を大胆に増大させ、それとともに、将来にわたって通貨供給量を大幅に増大するという約束をして、人々がその約束を信じて行動すれば、予想インフレ率が上昇することになる。そして、人々が予想インフレ率の上昇を見越して経済行動を行うようになれば、現在の家計の消費性向や投資意欲が高まり、デフレから脱却できる。」とする。
「予想(期待)」は、商品取引や金融商品の取引などにおける「先物取引」として発展している。そこでは「予想(期待)」が取引の前提であり、投機的投資に不可欠である。

※ 現代の「エコノミスト」は金融関係者がほとんどだから「予想(期待)」を常に口にするが、金融市場と実体経済には相違がある。実体経済の商品は生産され取引され消費される。しかし、現代の金融経済学は取引しか見ない。
実体経済では「家計は中期的にみて、収入以上の支出をすることはできない(したら破産する)」。また、「来年の食料を今年中に買っておこう」とする人もいない(そんなことしたら賞味期限を過ぎてしまう。)もしできたとしても、それは景気の波を作るだけである。即ち、今年は好況、来年は不況となる。

第Ⅱ部・第7章 (5) 「デフレ・不況」を脱却する「経済の好循環」のために
安倍内閣は・・・デフレを脱却して企業の利益が増えるようになったら、そのあとで賃上げが可能になるなどと慎重な構えである。
しかし、それは順序が違う。まず大企業が過去の儲けを蓄積した「内部留保」を活用して賃上げを先行させ、非正規雇用の正規雇用化などを先行させることが必要である。・・・大企業の賃上げと雇用安定の先行によって、日本経済をデフレから脱却させる突破口を切り開くことができる。そうすれば、企業の利益も増え、「経済の好循環」の道が開ける。

※ 国内経済に限って、資本主義を単純化すれば、家計が企業に労働を提供して、企業はその見返りに家計に賃金を払い、家計はその賃金で企業家ら商品を購入する。つまり、賃金を介して労働と商品が交換されている。企業が賃金を下げれば購入される商品も減る。これが「賃金デフレ」である。先ず企業が賃金を上げなければ、デフレは脱却できない。

〈補論〉多国籍企業と国民経済 (1) 「租税国家」の危機
各国とも「法人税引き下げ競争」に巻き込まれてきた。・・・「法人税率が高いと国際競争の上で不利になる」(国際競争力論)、あるいは「多国籍企業や大企業たちによるタックスヘイヴン(租税回避地)を利用した税金逃れが課題となる。」

※これも、「新自由主義」あるいは「(政治を伴わない)経済のグローバル化」の悪い面の表れである。各国が協調して、タックスヘイヴンを排除し、多国籍企業・大企業そして投機的金融取引に税をかけられるようにすべきなのだが、彼らが政治に強い影響力を働かせている現状では難しい。

2.アベノミクスの行方
私もアベノミクスには否定的だが、ある人が「悪法を悪法と知らしめる一つの方法は、一度それを厳密に実行することである」と言ったように、実行されているアベノミクスの結果はいずれ明らかになる。
安倍首相は
一年目には、結果(円安、株高)が(正しさを)示している、と言い、
二年目には、「途半ば」と言った。
アベノミクスの成否は、三年目に「家計の実質可処分所得」を増加に転じさせることができるかどうかにかかっている。アベノミクスの正の効果を受けている大企業や金融業界にとってこれは容易であろうが、負の効果を受けている輸入に依存する中小企業にできるであろうか?

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一ノ瀬俊也 著『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』 [読書感想]

一ノ瀬俊也 著『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』
講談社現代新書 2014.01.20 初版発行

 たまたま書店で見つけて購入した本であるが、大変興味深い内容のものであった。
 日本の戦争(第二次大戦)に関する大部分の書物あるいはTV番組等は、「全肯定」か「全否定」の立場に基づくものが多く、どちらにしても客観的な分析がない。また、評価の対象は作戦指導部に対するものが大部分で、実際の戦闘については、「ステレオタイプ」な説明で終わっているものが多い。
 それに対して、この著者は、対戦した「米軍の視点から見た日本軍」という視点で、どのような戦闘が戦われたのかを分析している。このように日本の戦争について客観的に検証しようとする日本の著書が増えることを期待したい。

【構成】
はじめに
片山杜秀『未完のファシズム』
 ・・・結局、総力戦遂行を可能にする政治権力の一元的集中は、権力の多元性――つまり独裁を許さぬ体制を定めた明治憲法にはばまれて実現せず、仕方がないので物質力に対する精神力の優位を呼号しているうちに本物の総力戦=対米戦に突入してしまい、あとはひたすら敵の戦意喪失を目指して「玉砕」を繰り返すしかなかったのだという。
 ・・・しかし、太平洋戦争時の日本陸軍は「玉砕」ばかりを絶唱していたのではない。・・・
では、対米戦時における日本陸軍の実像をどうとらえたらよいのだろうか。・・・米軍という戦争のもう一方の当事者の視点を導入してみたい。

 本書は、米陸軍軍事情報部が1942年~46年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌(Intelligence Bulletin; IB)に掲載された日本軍のその将兵、装備、士気に関する多数の解説記事などを使って戦闘組織としての日本陸軍の姿や能力を明らかにしてゆくことにする。

戸部良一『日本の近代9 逆説の軍隊』
 「各部隊はしばしば善戦敢闘したが、それはアメリカ軍に出血を強要し、その反抗のスピードを若干遅らせただけであった」とされる。
 本書の課題はその「善戦敢闘」の具体的な中身を検討することである。

 「なぜあの戦争はあれだけ長く続いたのか」、「なぜ戦争はもっと早く止めることができなかったのか、そうすれば多くの生命が助かったはずだ」という、未だ解決されざる問いに答える手掛かりにはなりうると考える。

第1章 「日本兵」とは何だろう
小括:
 「日本兵とは何か」について、その身体的特徴から考えると、”l”と”r”の発音の区別こそ苦手だが、米国の連合国たる中国人と同じアジア人であることには間違いなく、米兵に比べて体格が劣るためか銃剣突撃や格闘戦を忌避し、集団で将校の命令通り射撃するという戦法で戦っていた人々、ということになる。
 彼らの食べ物の種類や好みは米国人とそれなりに似通っていた。確かに刀や千人針といった日本兵ならではの持ち物は米兵にとって珍しい記念品たりえたけれども、人種的要素や食べ物の面からみると、日米戦争は単純な意味での人種(異文化)戦争ではないことがわかる。
 食べ物のことでさらに言うと、日本兵たちは共に酒を飲み、同じものを喰らうことでその一体感を維持していた。日本陸軍は今日まで続くところの日本社会の延長ないしは縮図にほかならなかったし、米軍も日本兵を「ファナンティックな超人」などとは決して「評価」していなかった。このことは次章での分析によりさらに明らかとなるだろう。

第2章 日本兵の精神
小括:
 日本兵たちの生と死をめぐる心性を「天皇や大義のため死を誓っていた」などと容易にかつ単純に理解することはできない。米軍の観察によれば中には親米の者、待遇に不満を抱え戦争に倦んでいた者もいたからである。その多くは降伏を許されず最後まで戦ったが、捕虜となった者は米軍に「貸し借り」にこだわる心性を見抜かれて、あるいは自分がいかに役立つかを示そうとして、己の知る軍事情報を洗いざらい喋ってしまった。 (※捕虜となることを想定しなかったので、捕虜となった場合の教育を受けていなかった。)
 日本兵は病気になってもろくな待遇を受けられず、内心不満や不安を抱えていた。戦死した者のみを大切に扱う (※”Good Japanese is Dead Japanese!”) という日本軍の精神的風土が背景あり、捕虜たちの証言はそれへの怨恨に満ちていた。これで戦いに勝つのは難しいことだろう。にもかかわらず兵士たちが宗教や麻薬に救いを求めることはないか、あっても少なかった。それが何故なのかは、今後の課題とせざるを得ない。

第3章 戦争前半の日本軍に対する評価 ―― ガダルカナル・ニューギニア・アッツ
小括:
 ソロモン・ニューギニアの戦いとは、米軍が日本陸軍とその兵士の攻撃能力を「ハッタリ」と見切り、攻撃への自身を深めた過程であったといえる。日本兵たちは意外にも白兵戦には及び腰で、集団で戦うのを得意とし、射撃は下手で、勝っている時は勇敢だったが、負けると臆病になった。それでも彼らはフィリピンを目指して西進する米軍を阻止すべく、ジャングルの地形を生かして数十~数メートルまで引きつけてから突如機関銃を撃つという戦法で対抗した。逃げ場はあらかじめ断たれており、文字通りの決死である。さらにどの戦場でも「穴掘り屋」と化して穴を掘り、もしくは洞窟に籠って抵抗するという戦法で長期戦を試みた。彼らは最初から「玉砕」それ自体を目標としていたわけではない。しかし米軍が戦車を押し立てて進撃を始めると、それを阻止、撃退する手段はなかった。

第4章 戦争後半の日本軍に対する評価 ―― レイテから本土決戦まで
小括:
 戦争後半、すなわちフィリイン戦以降の日本軍は水際抵抗も安易な「玉砕」も止めて内陸の洞窟に立てこもるという戦法で抵抗したし、沖縄では過去の戦訓に従って戦法をさらに改善、長期抵抗を目指した。これは米軍も一定程度「評価」するところとなった。しかし同時に、一貫して始末に困った戦車への対抗策として、人間地雷原たる「蜘蛛の穴」陣地がかいはつされてもいた。これは一見狂気の産物のようだが、実際に戦う米軍からすれば自軍と異なり人命を尊重しない戦法ゆえ脅威であった。とはいえ来るべき本土決戦において、日本軍はしょせん決められた規則通りの戦法しかとらず水際抵抗に回帰するだろう、と見透かされてしまっていた。

おわりに ―― 日本軍とは何だったのか
*IBから見た日本陸軍
 兵たちは将校の命令通り目標に発砲するのは上手だが、負けが込んで指揮官を失うと狼狽し四散した。
日本軍は、緒戦時の攻勢では奇襲・包囲戦法を活用して成功を収めた。やがて防御に回っても、その戦い方は死を決意したものであるが故に、米軍にとっても脅威となり続けた。各戦線で地下に穴を掘って不意打ちをしかけ、最期は「びっくり箱」陣地まで造って米軍を文字通り「びっくり」させた。高度に機械化された軍隊にとって、原始的な戦法は(特に死を決してかかられた場合)逆に脅威である。とはいえ米軍は、本土防衛の日本軍は結局従来の「水際撃滅」の方針を捨てないだろうと読んでいた。これは奇しくも日本軍上層部の意図を見抜いていたことになる。

*日本陸軍戦法の〈合理性〉について
 恒石重嗣の回想記『大東亜戦争秘録 心理作戦の回想』(1978):米軍の人的損害をあらゆる角度から衝き、厭戦機運を醸成することにあった。・・・という発想は、それはそれで一つの「戦略」と言えよう。
・・・これを「非合理的」「ファナティック」とはなから決めつけるのは、正しい歴史の理解とはいえない。
日本陸軍の「非合理性」を否定することと、それを正当化、賛美することとは全く別の話である。・・・本書でみてきた普通の日本兵たち、例えば樹上の狙撃兵や「蜘蛛の穴」陣地の穴のなかに肉攻兵たちの人命が惜しげもなく犠牲に供された事実は改めて強調しておかねばならない。

【所感】
〇「おわりに」に書かれた「高度に機械化された軍隊にとって、原始的な戦法は(特に死を決してかかられた場合)逆に脅威である。」は、ベトナム戦争を思い起こされる。
 アメリカは、対日戦におけるこのような経験から有効な対応策を持てなかった、というよりは、核戦略にばかり目を向けて、忘れてしまったのだろう。その結果、ベトナムで同じような苦戦をすることになった。

〇「はじめに」で『「なぜあの戦争はあれだけ長く続いたのか」、「なぜ戦争はもっと早く止めることができなかったのか、そうすれば多くの生命が助かったはずだ」という、未だ解決されざる問いに答える手掛かりにはなりうると考える。』とあるが、これは日本の第二次大戦だけに言えるものではない。
 戦争は「掛け金を持たすに大博打をする」のと同じで、掛け金を払わずに済ますには勝利以外にはない。そして、大戦では勝者もまた莫大な人命・資源をつぎ込んでいるから、「一時休戦に過ぎない和平」で終わらせることはできない。
 ベトナム戦争でアメリカは、この戦争が失敗であったことを認識してからも、「名誉ある撤退」を求めて、手を引くまでに数年を要した。失敗とわかっても「戦争を早期の終わらせる」ことは、日本ばかりでなく、どの国でも不可能なのだ。


松元雅和著 『平和主義とは何か 政治哲学で考える戦争と平和』 [読書感想]

松元雅和緒 『平和主義とは何か 政治哲学で考える戦争と平和』
中公新書 2207 2013.03.25 初版発行

【構成】
はじめに
第1章 愛する人が襲われたら ―― 平和主義の輪郭
第2章 戦争の殺人は許されるか ―― 義務論との対話
第3章 戦争はコストに見合うか ―― 帰結主義との対話
第4章 正しい戦争はありうるか ―― 正戦論との対話
第5章 平和主義は非現実的か ―― 現実主義との対話
第6章 救命の武力行使は正当か ―― 人道介入主義との対話
終 章 結論と展望
あとがき

【感想】
 かなり「うんざり」しながら読んだ(読み飛ばした)というのが正直な感想。

 普通の人間としての自分の見解を述べれば、

〇「殺してはならない」という戒は何を意味するか
 実社会において「絶対に殺してはならない」は決して守られない。何故なら、殺人の忌避の他にも守らねばならないもの(例えば自身・家族そのた親しいものの生命・財産、正義、名誉、等々)があり、それを守ることが時に殺人の忌避と相容れないからである。
 「絶対に殺してはならない」が守れるのは、何時でも自分の身を捨てられる特別な人間だけである。
 同様に、自らの生命、あるいは正義、その他何れも「絶対至上」とはならない。他の守るべきものにも“譲れない一線”があるからである。この一線がどこにあるかは、人により異なる。
 それ故、著者が例示する義務論、帰結主義(効用)、正戦論といったこれら守るべきものの一面だけを捉えた議論は決して普通の人を納得させない。

〇戦争と平和の選択
 クラウゼヴィッツによると「侵略者は皆平和愛好家である」。(『戦争論』)クラウゼヴィッツのいう侵略者とはナポレオンのことであり、ナポレオンの戦争に対する言い訳は、「平和的に解決したかった。しかし、相手が言うことを聞かないから、戦争に訴えざるを得なかった」。
 著者のいう平和主義も現実主義も、「平和的解決の模索が先にあり、戦争に訴える(応じる)のは後」であることに変わりはない。譲れない一線がどこにあるかの相違である。

〇戦争への備えとエスレーション
 戦争と平和で「平和を選択する」最大の問題は、相手のあることであるから、(絶対的非戦主義でない限り)一国ではで決められないことである。
 軍備が必要と認めた場合、純軍事的観点から、「必要十分な軍備」というのは一国で絶対的に決定することはできない。軍備の十分・不十分は相対的な問題であり、クラウゼヴィッツのいう交互作用が働いて、常に経済力その他の限界まで「エスカレート」していく。
 「いかなる場合にも国を守る」を突き詰めて行くと、国の全ての資源を国防に振り向け、「ハリネズミのように」防備を固めるべきだということになり、更には、相手を先制して滅ぼすべきだというところまで行き着く。これも国防と言う一面だけを捉えて、他の面を無視したもので一般に受け入れられない。
 一方、「エスカレート」を自国だけ抑えようとするのは、「自国の足を引っ張る」結果になり、「現実主義者」に忌避される。「相手が先に軍縮すべきだ」と言っても無理なように「自国が先に軍縮すべきだ」というのも無理なのだ。常に同時にでなければならない。

〇二種類の平和
 争いには原因がある。著者は「戦争状態とは、何らかの国内的な原因が生み出す症状の一種であり、原因の除去とともに自然と収まるものだ」と国内要因だけを挙げているが、国内だけではなく、国家間の利害の対立の存在という原因もある。自国が何でも譲って国内要因にするというのは、「絶対に殺してはならない」が一般に受け入れられないのと同様に受け入れられない。
 一方、戦争に勝利しても「絶滅戦で相手を絶滅」させなければ、一時的解決でしかなく、最終的には解決できないことも事実である。
 イスラエルは何度戦争に勝っても平和を手に入れられない。

 そこで、平和には二種類があることになる。「一方または双方が不満を抱えたまま戦争に至っていない状態としての平和」と、「紛争の原因がない状態としての平和」である。
 平和的解決とは前者を平和的に後者に変えることである。平和主義者に何より必要なのは、「実績をあげる」ことである。それも出来るだけ速やかに。紛争の原因が残っている限り、紛争の起こる可能性は消えない。実績を積んで、その実績を本に著せば、一層説得的になる。

***
 『暴走する路面電車』の議論の空しさは、何が最善かを議論している間に、(警笛を鳴らしても効果がなければ)間違いなく路面電車は5人の線路作業員をはねることにある。

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鈴木光太郎著 『ヒトの心はどう進化したのか―― 狩猟採集生活が生んだもの』 [読書感想]

『ヒトの心はどう進化したのか―― 狩猟採集生活が生んだもの』
鈴木光太郎 著 ちくま新書 1018 2013.06.10 初版発行

【構成】
はじめに
 生き物の心の特性や能力も、環境への適応によって変化を遂げる。心も進化の産物である。
ヒトの心は、この600万年の間にどのように形作られ、どのような進化を遂げてきたのか?他の動物に比べて、その心はどのような点で特殊といえるか?これが本書のテーマである。

第1部 ヒトをヒトたらしめているもの ―― ヒトの6大特徴
 現在の人類がどのように誕生したのかを観ながら、その中で、ヒトの6大特徴――大きな脳、直立の足歩行、言語と言語能力、道具の製作と使用、火の使用、文化――についてみてゆく。

第2部 狩猟採集生活が生んだもの ―― 家畜、スポーツと分業
 第1部の6大特徴を踏まえて、重要と思うヒトの特性についてみてゆく。とりあげるのは、動植物に対する強い関心、遊びやスポーツ、性差と分業である。これらはヒトが長く狩猟採集生活を送ってきたことの産物として考えると、よく理解できる。

第3部 ヒトの間で生きる ―― ことば、心の理論とヒトの社会
 ヒト特有の社会と社会性について考えながら、それを成り立たせているものが、他者の心を想定するヒトの能力(「心の理論」)と、言語能力だということを論じる。


【所感】
 本書を読む以前のことであるが、内容を知らずに「心の理論」という言葉を最初に聞いた(見た)とき、「心」とは「思いやり」といった類のもの、つまり”heart”だと思ったが、この「心」は”mind”、つまり「思考・意思などの働きをする心(精神)」であり、「心の理論」とは ”Theory of Mind” で、「他者が(自分と異なる)心、即ち、信念、欲望と意図を持つことを理解する能力」(Wikipediaより)であった。

 本書を読んで何となくすっきりしないのは、表題および「はじめに」に書かれた「本書のテーマ」からみると、第1部、第2部の内容とが多少ずれていて、筋が通っていないように見ることにある。第1部、第2部は、それぞれ単独に見れば、ひとつのまとまった知見ではある。しかし、主要なテーマとしての「心の理論」と「言語能力」との関連が(特に第2部で)弱い。元々、非常に困難な課題ではあるが。

 心(“mind”)も言語も物的証拠が残らないから、先史時代を遡ることは難しい。
 世界に異なる文法(統語法)の言語が存在することは、文法が形成されたのは人類が世界に拡散した以降であることを示している。一方で、全ての現生人類が文法を持つ言語を持っていることは、それを形成する能力と原初的な言語を拡散以前から持っていたか、拡散前に既にあった文法(統語法)を、拡散した後に変えたか(これはありそうもない)になる。

 私が以前に読んだ本でも、人類がいつ言語能力を獲得したかについては見解が分かれている。ある人々は、5万年前を想定する。(リチャード・クライン、ブレイク・エドガー『5万年前に人類に何が起きたか』、但し、この著者は出アフリカを5万年前以降としていて、ホモ・サピエンスが出アフリカする前に言語を獲得したとする。)ある人々は、250万年前のホモ・ハビリス以来少しずつ進化してきたとする。(スティーヴン・オッペンハイマー『人類の足跡 10万年全史』)。
 言語がいつ、どのように進化してきたについては、定見がないばかりでなく、そのような探究自体を無意味とする見解もあるようだ。

〇言語についての連続性のパラドックス(the Paradox of Continuity)
 言語は、何かしら先行システムから進化したはずでありながら、言語の進化のもとになったと思えるシステムが存在しない。(デレク・ビットカーン『ことばの進化論』より)

 心(”mind”)の進化となると、更に難しい。心の進化を推定するには(言語の進化もそうだが)、先史時代(あるいは古人類)がどのような社会で、社会の構成員の間にどのような社会構造があり、どのような暮らしをして、その間でどのようなコミュニケーションが必要であったか、を推定しなければならない。


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