ニュートン -ハイドパークの銃撃戦- [ワイルドウエスト]

§ ニュートン -ハイドパークの銃撃戦-

 カンザス州ニュートンは、鉄道がニュートンに到来した1871年と、鉄道がウイチタに達した1872年の2シーズンだけ、主要な「牛の町」の1つであった。

 ニュートンは、二人の開拓者によって1871年3月に創設された。そこはウイチタの北約30マイル、アビリーンの南約60マイルにあった。サンタフェ鉄道がその地点を通るという噂を聞くと、入植者が集まった。7月17日、鉄道がその地点に達したときまでに、ホテル1軒、鍛冶屋1軒、そしてサルーン1軒が既に建てられていた。アビリーンの「牛の町」の創設者であり、当時アビリーンの市長であったジョセフ・マッコイ(Joseph McCoy)は、ニュートンに家畜置場を建設する監督をした。間もなく、27軒のサルーン、8軒の賭博ホール、10軒のダンスホールを持ち、「ハイドパーク」として知られる売春宿の地区が出来上がった。同様にホテル、レストラン、雑貨店などの基本的な施設が用意され、到来する牛の取引の関係者の需要を満たした。町は完全な無法状態であった。

 ニュートンの市民は、ウイチタ&サウスウエスタン鉄道の建設のための郡債券の発行に12,000ドルを援助する件の賛否について、1871年8月11日に投票することを計画した。このための臨時警官として、マイク・マクラスキー(Mike McCluskie)とビリー・ベイリー(Billy Bailey)が雇われた。

 マイク・マクラスキーはオハイオ州に生まれ、サンタフェ鉄道に夜警として雇われてカンザスに来ていた。彼はニュートンに来る少し前に、カンザスシティ鉄道のテキサス人A.R. フレンチによって強盗容疑で告発されたが、証拠不十分で無罪となっていた。
 ビリー・ベイリーはウィリアム・ウィルソン(William Wilson)としても知られるテキサス人で、これまでに3度の銃撃戦を経験し、少なくとも2人を殺したと言われていた。ニュートンには、テキサス人の友人が何人かいた。

 2人は、ほとんど何についても常に口論していた。8月11日の投票日にも、2人は日中から口論をしていた。2人は一旦別れたが、夜に入って共にレッドフロント・サルーンで酒を飲み、再び口論を始めた。マクラスキーは激昂して、力一杯ベイリーを殴ったので、ベイリーはドアの外まで跳ばされて地面に打ちつけた。マクラスキーはベイリーを追って外へ出た。ベイリーは拳銃を抜いて立ち上がったが、マクラスキーは拳銃を抜き先にベイリーを撃った。2発のうち1発がベイリーの胸に当たり、ベイリーは翌日に死亡した。

 翌日、マクラスキーは忠告されてニュートンを去った。しかし彼は、8月19日の夕方、ニュートンに戻ってきた。ベイリー殺害の件は、ベイリーが過去に2人を殺したことで知られているので、正当防衛認められると考えたためと言われている。彼は、夜の10時頃ハイドパークにあるペリー・タトルのダンスホールへ行き、テキサス人の友人ジム・マーチンとともに、ファロ・ゲームをして楽しんでいた。

 その間、マクラスキーが戻ったことを知ったビリー・ベイリーの友人のテキサス人たちは、ベイリーの復讐にマクラスキーを殺す計画を立てていた。それは、ヒュー・アンダーソン(Hugh Anderson)、ビリー・ガーレット(Billy Garrett)、ヘンリー・カーニス(Henry Kearnes)、ジム・ウィルカーソン(Jim Wilkerson)の4人であった。

 彼らの頭目ヒュー・アンダーソンは、テキサス州ベル郡の裕福な牧場主の息子であった。この年、アビリーンへ牛をドライブする途中で、ボスのビリー・コーロン(Billy Cohron)を殺したメキシコ人カウボーイ、ジュアン・ビデノ(Juan Bideno)を、ジョン・ウェズリー・ハーディンとともに追跡して殺害に協力していた。

 日が変わった20日の午前2時頃、ガーレット、カーニス、ウィルカーソンの3人がタトルのダンスホールに入ってきた。彼らは人混みを分け入り、マクラスキーがファロをしているテーブル近くに場所を占めた。やがてアンダーソンが入ってきた。彼は、拳銃を抜いて真直ぐマクラスキーに近づき、"You are a cowardly son-of-a-bitch! I will blow the top of your head off!"と叫んだ。マクラスキーの友人ジム・マーチンは椅子から跳びあがってアンダーソンを止めようとしたが、アンダーソンは彼を無視してマクラスキーを撃った。1発がマクラスキーの頚を貫通し、致命傷を負わせた。マクラスキーはよろめきながら立ち上がり拳銃を抜いて引金を引いたが、不発に終わり、床に俯せに倒れた。アンダーソンは倒れているマクラスキーの背中を更に撃った。マクラスキーは数時間後に死亡した。

 この後、ガーレット、カーニス、ウィルカーソンの3人は、周囲に向けて発砲し始めた。それは誰かを撃つためではなく、ホールの中の人々を退らせるためであった。元々灯りの乏しい部屋の中は硝煙で視野が遮られた。

 このとき、一人の者が二挺の拳銃を抜き、テキサス人たちに向けて撃ち始めた。最初に弾を受けたのは、マクラスキーの友人ジム・マーチンであった。彼は頸を撃ち抜かれ、ホールのドアから駆け出し、クルムのダンスホールの前の階段に倒れて死亡した。テキサス人たちは拳銃の弾をほとんど撃ち尽くしていたので、十分に反撃できなかった。彼らを銃撃した者は、二挺の拳銃を撃ち尽くすと、ホールのドアから出て行った。ホールには、彼に撃たれた6人の死傷者が残されていた。

   アンダーソンは太腿と脚を撃たれたが、後に回復した。
   ガーレットは肩と胸を撃たれ、後に死亡した。
   カーニスは胸を撃たれ、8月27日に死亡した。
   ウィルカーソンは鼻と脚を撃たれたが、後に回復した。
他の二人は、争いに無関係な、たまたまダンスホールにいたサンタフェ鉄道の関係者であった。
   ヒッキー(Hickey)は脹脛を撃たれたが、後に回復した。
   パトリック・リー(Patrick Lee)は胃を撃たれ、8月22日に死亡した

 この結果が正しいならば、この者が二挺の拳銃から撃った弾10発(各5発装填の場合)あるいは12発(各6発装填の場合)のうちの10発が誰かに当たったことになる。

 この銃撃戦は、ニュートンの「ハイドパークの銃撃戦」(Gunfight at Hide Park)あるいは、「ニュートンの大虐殺」(”Newton’s General Massacre”)と呼ばれ、マクラスキーを含めて5人が死亡し、3人が負傷した。

 この「大虐殺」を行った者は、ジム・ライリー(Jim Riley)であったと言われている。
ジム・ライリーは18歳の結核患者で、この夏にニュートンにやってきた。どういう理由かは不明だが、マクラスキーは彼を引き取って世話をするとともに、拳銃を与えて射撃を教えていた。ライリーは常に二挺のコルト拳銃を携帯し、影のようにマクラスキーに寄り添っていたと言われているが、この夜まで彼が揉め事に関わったことはなかった。

 ジム・ライリーがどこから来たのか誰も知らなかったように、この後彼がどこへ行ったのか誰も知らなかった。

 負傷したヒュー・アンダーソンには、合衆国保安官ハリー・ネヴィルによってマクラスキー殺害の逮捕状が出されたが、執行されることはなかった。友人のテキサス人たちは彼を匿い、事件を知ったテキサスの彼の父親が来て、アンダーソンをテキサスの故郷へ帰す手配をした。

 テキサスの故郷で傷を癒すと、1873年、ヒュー・アンダーソンは再びカンザスへ出発し、メディシンロッジの交易所でバーテンダーの仕事を得た。
 
 やがて、アンダーソンの居所は、マイク・マクラスキーの兄弟アーサー・マクラスキーの知るところとなった。兄弟の殺害者に対する復讐心に燃えていたアーサーは直ちにメディシンロッジに向かい、交易所にいたアンダーソンを呼び出した。1873年7月4日、二人は衆目の前で決闘をした。

 この決闘の状況を伝える資料は、その内容を「神話(myth)」、結果だけは真実と語っているが、それによると:

 アーサー・マクラスキーは、巨漢で全身鹿革の服を着て、拳銃とボウイーナイフを着用していた。彼はアンダーソンに「銃か、ナイフか?」と聞いた。彼よりずっと小柄なアンダーソンは前者を選んだ。

 二人は背中合わせに立ち、ニ十歩、歩み離れた。交易所の所有者ハーディングの合図で、二人は向き合い互いに撃ち合った。初弾は共に外し、マクラスキーが先に第二弾を放ち、アンダーソンの左腕に命中した。アンダーソンは体勢を崩しかけたが膝立ちの姿勢で撃った。弾はマクラスキーの口に当たり、マクラスキーは血だらけになった。激痛と流血で逆上したマクラスキーは、アンダーソンに向かって突進した。アンダーソンは撃ち続け、マクラスキーの胃、続いて肩に命中し、マクラスキーは地面に倒れた。

 見物人はこれで勝負がついたと思ったが、マクラスキーは、倒れたまま顔を起こし、銃をアンダーソンに向けて撃った。弾はアンダーソンの腹に命中した。見物人の何人かが流血の争いを終わらせようとしたが、ハーディングが制止した。

 両者とも弾を撃ち尽くすと、マクラスキーはボウイーナイフを抜き、路上に血の川を残しながらアンダーソンに向かって這って行った。アンダーソンは半ば坐った姿勢でナイフを抜き、マクラスキーの頚に切りつけた。体勢の崩れたアンダーソンの脇腹にマクラスキーのナイフが突き刺さった。こうして二人は共に息絶えた。

 マイク・マクラスキーとビリー・ベイリーの口論に始まったこの復讐劇は、関係者6人、無関係な被害者2人の死亡で幕を下ろした。


【参考文献】
Joseph Rosa “The Gunfighter; Man or Myth?”
WebSite “August, 1871 The Bloodbath: Newton's General Massacre”



コルトと西部の拳銃 その2 [ワイルドウエスト]

§コルトと西部の拳銃

(その2)金属カートリッジ・レボルバー

 1850年代初期、コルト社の従業員であったローリン・ホワイト(Rollin White)は、金属カートリッジを使ったレボルバーを開発した。当時の金属カートリッジは、強度のあるものが作れず、ホワイトのレボルバーは .22インチ口径、リムファイアで火薬の量も少なく(4グレイン)非力であったので、コルトはこれを玩具として顧みなかった。ホワイトはコルト社を退社し、その後も開発を続けた。1855年特許を取り、1856年その独占使用権をスミス&ウェッソンに与えた。この特許の主要な点は、シリンダーの穴(薬室、chamber)が前後に貫通しているという、今では当たり前すぎるものであった。

 1857年に出たスミス&ウェッソンによる金属カートリッジを用いた最初の「モデル1」はローリン・ホワイトのものとほとんど同じで、 .22インチ口径、5連発であったが、少しずつ大口径化がなされた。1861年の「モデル2」は .32口径6連発となった。このモデル1と2は、引金の周囲を囲うトリガー・ガードではなく引金の形をしたフレームに引金が収容され、ハンマーをコックすると引金が前方に出る形式をしていた。装填は、トップヒンジ方式で銃身を上に跳ねあげ、シリンダーを前方へ引き出して本体から外し、シリンダー単体でおこなう。モデル2は、火薬の量が9グレインで非力ではあっても、金属カートリッジの利便性から、南北戦争中に非常に人気があった。
 1866年寺田屋で襲撃されたとき坂本竜馬が使用した拳銃は、このS&W モデル2であったとされている。また、1876年ワイルド・ビル・ヒコックがデッドウッドで暗殺されたき、モデル2を携帯していたという。

 スミス&ウェッソンは更に強力な拳銃を開発していたが .44インチ口径の「モデル3」が市販されたのは1869年になってからであった。モデル3は、金属カートリッジによる装填の優位だけでなく、「中折れ式」であったので、空薬莢を一度に排出できた。

 特許によって守られたスミス&ウェッソンの金属カートリッジ・レボルバーの出現は、パーカッション式レボルバーのメーカーを苦境に陥れた。レミントン社は、1868年スミス&ウェッソンに特許料を払い、リムファイア金属カートリッジを使えるように改造したコンバージョン・タイプを製造した後、1875年からセンターファイア金属カートリッジを使用したニューモデル・アーミーを製造した。

 コルト社は、ローリン・ホワイトの特許を回避して金属カートリッジを使用する試みを幾つかしたがものにならなかった。さりとて、あと少しで期限切れとなる特許に高い特許料を払う気にならず、ホワイトの特許が切れる(1869年4月)のを待つことにした。

 そして1873年から発売されたのが、センターファイア金属カートリッジを使用する「シングルアクション・アーミー」略してS.A.A.であった。.45インチ口径であったので、「コルト45」とも呼ばれ、“西部に平和をもたらした”とされることから、「ピースメーカー」とも呼ばれる。
 S.A.A.は、カートリッジの装填および空薬莢を排出するのに、ハンマーをハーフコックにしておいて、シリンダーの右背面に設けられたローディング・ゲートから、シリンダーを手で回転させながら1発ずつ排出・装填しなければならない。カートリッジの再装填にかかる時間ではスミス&ウェッソンの中折れ式と比べて明らかに不利であったが、命中精度、打撃力、造りの単純さからくる過酷な環境・使用への耐久性、信頼性といった点で優り、「西部を代表する拳銃」となった。
 合衆国陸軍は、1872年から1876年にコルトS.A.A.、スミス&ウェッソン・モデル3、レミントン1875ニューモデル・アーミーの比較テストを行い、コルトS.A.A.を採用した。

 一般に、
   銃身長7 1/2インチのモデルは、「キャバルリー・モデル」(Cavalry Model)、
   銃身長5 1/2インチのモデルは「アーティラリー・モデル」(Artillery Model) 、
   銃身長4 3/4インチのモデルは、「シビリアン・モデル」(Civilian Model)、
   銃身長4インチでエジェクターロッドを省いたモデルは「シェリフズ・モデル」(Sheriff’s Model)
と呼ばれた。民間における拳銃の使用の大部分は、サルーンの中での撃ち合いなど、数メートル以下の近距離でなされた。そのような用途には、拳銃を取りだしやすく、取り回しの容易な短い銃身が選ばれるようになった。

コルトS.A.A.とともに西部を代表する小銃ウインチェスターM1873用のカートリッジ「.44-40」(.44インチ口径-40グレインの火薬、.45コルトのカートリッジも40グレインの火薬を使用)を使用するモデルが1878年から供給され、「フロンティア・モデル」と呼ばれた。

 イギリスのメーカー、ウェブリー(Webley)社は、1867年ダブルアクション式レボルバーRIC (Royal Irish Constabulary)モデルを出した。1872年には「ブルドッグ」(”The British Bull Dog”)という同じくダブルアクションのポケット・ピストルを出した。

 これらから米国内でもダブルアクションへの関心が高まり、コルト社は1877年にM1877ダブルアクション・レボルバーを出した。
   .41口径は「サンダラー」 (”Thunderer”)、
   .38口径は「ライトニング」 (”Lightning”)、
   .32口径は「レインメーカー」 (”Rainmaker”)
と呼ばれた。ビリー・ザ・キッドは1881年に射殺されたときに、コルト・サンダラーを持っていたと言われている。
 1878年のM1878は
   .45口径で 「ダブルアクション・アーミー」あるいは「フロンティア」
と呼ばれた。
 これらは、S.A.A.を基にダブルアクション化したもので、S.A.A.と同様にカートリッジはローディング・ゲートから1発ずつ装填・排出する。これらコルトのダブルアクション・レボルバーのグリップは、S.A.A.の優美な形状と異なり、その形状から「鳥の頭」(bird’s head)と呼ばれた。

 コルトのダブルアクション・レボルバーはヨーロッパでも西部でも人気がなかった。西部のガンマン、あるいはガンマンを気取る若者は、ダブルアクション式の引金の重さを嫌い、軽蔑したという話が伝わっている。

 十九世紀末から無煙火薬が使用されるまでは、これらの全ては黒色火薬を用いていた。

【参考文献】
 Wikipedia
 別冊Gun 「コルトのすべて」 1991.11.15 発行
 Joseph Rose “The Gunfighter: Man or Myth?”, 1969
 Joseph Rose “Age of the Gunfighter”, 1993
 橋下毅彦著『「ものづくり」の科学史』



コルトと西部の拳銃 その1 [ワイルドウエスト]

§コルトと西部の拳銃

(その1)パーカッション式レボルバー

 サミュエル・コルトがパーカッション式レボルバー(Revolver)の特許をイギリスで取ったのは1835年、アメリカで特許を取ったのは1836年であった。コルトは投資家から資金を募り、ニュージャージー州パターソンにパテント・アームズ製造会社(The Patent Arms Manufacturing Company)を設立した。

 最初に生産されたレボルバーは「パターソン・モデル」(Paterson Model)と呼ばれ、1836年から生産された。パターソン・モデルには各種あったが、テキサス・レンジャーで使用された「ホルスター・モデル」は
   .36インチ口径、5連発、八角形の銃身、22グレインの火薬
   銃身長4、5、6、7-1/2、9インチの各種、重さ約1.2kg
という仕様であった。後のレボルバーを見慣れた人から見ると、このパターソン・モデルは奇異に見える。それは見慣れたトリガー・ガードがないためである。トリガー・ガードがないばかりでなく、ハンマーレストの状態では引金(trigger)がフレームに収容されていて、ハンマーをコックすると引金が現われる。テキサス海軍に納入されたパターソン・モデルが後にテキサス・レンジャーに払い下げられ、対インディアンの抗争で絶大な威力を発揮し、高く評価された。

 パーカッション式は、分離した火薬、弾丸(bullet)、パーカッション・キャップを使うため、5発あるいは6発を装填するには、数分を要し、入り乱れての戦闘中に再装填するのは不可能である。そのため、5発ないし6発では不足する場合には、予備の銃を用意した。ここから、「二挺拳銃」が生まれたという。

 パターソン・モデルは高い評価を得たが、事業としては成功せず、1842年にパテント・アームズ社は倒産し、コルトは一旦銃の製造から手を引き、パターソンにあった工場も処分された。当時は部品の互換性、規格化といったことが進行していた頃であった。パターソンの工場はこれらの技術がレボルバーを製造するには十分ではなかったためらしい。

 1845年合衆国がテキサスを併合したことで、メキシコとの関係が悪化し、1846年メキシコ戦争が勃発した。テキサス・レンジャーであったサミュエル・ウォーカー(Samuel H. Walker) は合衆国陸軍に入隊していたが、当局にレボルバーの採用を働きかけた。その話を聞いたコルトは、ウォーカーに会う機会をつくり、彼からパターソン・モデルに対する彼の評価、特に改善すべき点を詳しく聞いた。ウォーカーの強い働きかけによって、政府は、新たなレボルバー1,000挺をコルトに発注した。

 この新たなモデルは「ウォーカー・モデル」(Walker Model)と呼ばれ、見慣れたトリガー・ガードが設けられ、これに続くコルトのパーカッション式レボルバーの原型が完成された。ウォーカー・モデルは、強力な打撃力を主眼としたもので、
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、60グレインまでの火薬、
  銃身長9インチ、銃全体の長さは40cm近く、銃本体の重さは2kgを超えていた。
当初火薬の量は60グレインとされたが、これは少々危険であったので、コルトは50グレインを推奨したという。身に着けて持ち運ぶには適さず、馬の鞍にホルスターを装着して携行した。

 コルトは自前の工場を持っていなかったので、ホイットニー社に製造を依頼した。1847年に生産されたウォーカー・モデルはシリンダーの爆発などの事故が多発したと言われているが、戦場で使用されたものは、有用性を評価され、コルトは民間用に100挺を追加生産した。ウォーカー・モデルから得た利益によって、コルトは自前の工場をコネティカット州ハートフォードに持って、新たなモデルの生産を開始した。
 サミュエル・ウォーカーは、メキシコ戦争において1847年10月9日に戦死した。

 ハートフォード工場で最初に生産されたのは、ウォーカー・モデルの改良版といえる「ドラグーン・モデル」(Dragoon Model) で、「1848ドラグーン」とも呼ばれた。
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、50グレインまでの火薬
   銃身長7.5インチ、銃本体の重さ約1.9kg
ドラグーン・モデルは後のモデルと比べると、重く扱いにくかったが、一層強力な打撃力を有していた。インディアンなどの“未開”の戦士は、戦闘中の興奮状態では致命傷を受けない限り、.36口径弾を何発も受けても怯まずに闘う場合があった。こういった場合にはドラグーン・モデルがより有効であり、数は少ないが他のモデルと並行して生産され続けた。

 より軽く扱いやすいパターソン・モデルのサイズにしたのが、「ネイビー・モデル」(Navy Model)あるいは「1851ネイビー」と呼ばれるもので、
   .36インチ口径、6連発、八角形の銃身、
   30グレインまでの火薬、通常20-25グレインで使用
   銃身長7 1/2インチ、銃本体の重さ約1.2kg。
1851ネイビーは、持った時のバランスが良く、命中精度が優れていたので、ワイルド・ビル・ヒコック、ドク・ホリディなど多くの愛好者を得た。こうした有名人ばかりではなく、当時の記事には「二挺のコルト・ネイビーを携帯し・・・」といった表現が多く現れる。

 1851ネイビーのサイズで.44インチ口径にしたのが、「アーミー・モデル」(Army Model) あるいは「1860アーミー」で、
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、30グレインの火薬
   銃身長8インチ、銃本体の重さ約1.2kg
1860アーミーが1851ネイビーと異なるのは、口径の他に、銃身の下のローディングレバーがクランク式からラチェット式に変わり、銃身の付け根あたりが曲線を帯びた形になっている。1860アーミーは、1851ネイビーとともに、南北戦争で大量に使用された。

 コルト社は、これら“メイン・フレーム”と並行して、ポケット・レボルバー呼ばれる小型レボルバーを製造した。代表的なものは「1849ポケット・レボルバー」で、
   .31インチ口径、5連発、後には6連発も、八角形の銃身、12グレインの火薬
   銃身長は3~6インチ、銃本体の重さは600gを少し超える程度。
ポケット・モデルは民間人が初めて容易に手に入れることができたレボルバーであった。丁度ゴールドラッシュのカリフォルニアでは、治安の悪さ(あるいは無さ)から、必需品であったという。コルトのパーカッション式拳銃では、このポケット・モデルが最も多く作られた。

 これらのパーカッション式のレボルバーは、幾つかのバージョンを伴いながら1870年代初期まで製造された。

 1850年代にコルトの特許が切れると、他のメーカーもパーカッション式レボルバーの生産を始めた。それらの中にはコルトのコピーもあったが、機構的、機能的にコルトに優っているものもあった。その代表的なものが、レミントンの「ニューモデル・アーミー」(New Model Army) で1858年から生産販売された。パーカッション式コルト・レボルバーは、銃身とローディングレバーを主にシリンダー軸で支えていて、シリンダーの上にフレーム(トップストラップ)が通っていない(オープントップ)。このため通常トップストラップに設けられる照門がハンマーに設けられ、ハンマーをフルコックしたときのみ使える。これに対してレミントンは固定フレーム方式で、シリンダーをフレームが囲み、銃身はフレームに固定され、トップストラップに照門を設けられる。また、シリンダーの取り外しが容易なので(コルトも手間がかかるわけではないが、一体となった銃身&ローディングレバーを外さなければならない。)、予備の銃の代わりに装填済みの予備シリンダーを用意しておくことで、シリンダーの交換で射撃を継続することができる。レミントンのレボルバーは銃身の下のローディングレバーのカバーが3角形なのが特徴である。ただし、レミントンのレボルバーは不発が多かったという評価もある。

 パーカッション式レボルバーの性能について、Joseph Rosaの“The Gunfighter, Man or Myth?”によると、1924年に、古いパーカッション式レボルバーの試験がコルト・ネイビー (.36口径) とレミントン・ニューモデル・アーミー (.44口径) を使って行われた。新品同様の状態のものに慎重に弾薬を装填し、距離50ヤードで、球形弾丸では5インチ(約12.7cm)の円に収束し、コニカル(円錐)弾では7インチ(約17.8cm)に収束したという。

(注) 銃のスペックについては、資料により異なる。上記は主としてWikipediaに拠っている。



O.K.牧場の決闘 -決闘の経過- [ワイルドウエスト]

§ O.K.牧場の決闘の経過

§決闘の前日と当日の決闘前

1881年10月25日:

 11:00 am頃、アイク・クラントンとトム・マクローリーがスプリング・ワゴン(馬車)でトゥームストーンに来た。

 夜、アイクは深酒をして、アープ兄弟とドク・ホリディが彼についいて嘘を言っていると喚き散らした。

1881年10月26日:

 1:00 am頃、アルハンブラ・サルーンでアイク・クラントンとドク・ホリディが行き逢った。ホリディは、アイクが町中で彼の名誉を辱めていると非難し、決闘を申し入れた。アイクは銃を持っていない(I am not heeled)といって断った。ワイアット・アープの指示でモーガン・アープが二人の仲裁に入り、三人はアルハンブラから出た。

 ワイアットはイーグル醸造所の賭博売上を確認した後、ホリディと共に帰宅した。ホリディはフライの下宿屋(決闘の行われた空き地の東隣)に泊っていた。フライの写真館はその奥にあった。

 2:30 am頃からオクシデンタル・サルーンで、アイク・クラントン、トム・マクローリー、ジョン・ビーハン、ヴァージル・アープその他がポーカーを始めた。

 7:00 am頃(夜明け頃)ポーカーはお開きになった。アイクはヴァージルに、ホリディを見かけたら彼と闘うとホリディに伝えるようにと言った。ヴァージルは断り、家に帰り寝た。

 8:00 am頃、アイクは、市の電報局の前でオリエンタル・サルーンのバーテンダー、ネッド・ボイルに会い、「アープ兄弟とドク・ホリディが通りに現れたら、舞踏会が始まる」と言った。アイクは拳銃をベルトに差していた。ボイルはワイアット・アープの家に行き、彼にアイクのことを伝えたが、ワイアットは無視して昼ごろまで寝続けた。
 アイクはその後もサルーン巡りをして酒を飲みながら、アープ兄弟とドク・ホリディが通りに現れたら舞踏会が始まると言いふらしてまわった。

 昼ごろ、グランドホテルで彼のウインチェスター銃を手にして、アレン通りから四番通りへ向かった。アイクが電報局近くで目撃されたため、電報でカウボーイの加勢を呼んだと誤解され、カウボーイたちがアープたちと彼に味方する市民を殺そうとしているという風聞が町中に流れた。

 市民から「アイク・クラントンがライフル銃と拳銃を持って君たちを捜している」という警告を何度も受けて、でヴァージルはベッドから起き1:30 pm頃モーガンとともに、郵便局横の路地でアイクを見つけ、彼の頭を拳銃で殴り、銃器を取り上げた。
 ワイアットもヴァージルたちに合流し、アイクをウォレス判事の裁判所へ連れて行った。アイクは「闘うことを望む」と言いながら、ワイアットが「では今闘おう」と言うと、アイクは拒否した。
 やがてウォレス判事が到着し、アイクは罰金を払って釈放された。

 ワイアットが裁判所を出たとき、トム・マクローリーと出会い、口論になり、ワイアットはトムを平手打ちして拳銃で頭を殴った。

 アイク・クラントンはビリー・クレイボーンに付き添われて医者に行った。

 午後1:30から2:00の間頃、ビリー・クラントンとフランク・マクローリーがトゥームストーンに馬で乗り入れ、グランドホテルに入り酒を注文した。そこで、アイクとトムがアープたちに拳銃で殴られた話を聞き、飲酒はやめて二人を捜し始めた。

 ワイアットがアレン通りと四番通りの角のハフォード・サルーンの前に立っていたとき、ビリー・クラントンとマクローリー兄弟がワイアットの前を通り四番通りの銃器店に入り、フランク・マクローリーとビリー・クラントンがガンベルトにカートリッジを詰めているのを見た。アイク・クラントンも来て、拳銃を買おうとしたが、店主はアイク頭の傷から彼が揉め事を起こしているとして断った。

 ヴァージルがアレン通りの五番通りと四番通りの間にいたとき、市民ボブ・ハッチが彼に「銃器店にカウボーイたちが集まっていて、ワイアットが一人でいる。」と知らせた。ヴァージルはモーガン、ホリディとともに四番街の角へ行った。

 銃器店を出たクラントン&マクローリーはアレン通りを三番通り方向へ行き、一旦ダンバーの馬置場に入った後、O.K.馬置場に向かった。

 ヴァージルたちがアレン通りと四番通りの角に来たとき、市民のウィリアム・マーレイがヴァージルに、「カウボーイたちが君たちを脅かそうとしている。必要であれば支援に25人を集めることができる。」と言った。ヴァージルは、「彼らが馬置場に留まっている限り、何もする気はない。もし通りに出てきたら武装解除をする。」と言った。

 床屋で髭を剃っていたジョン・ビーハン郡保安官は、揉め事の発生を知り、ハフォードのサルーン前でヴァージルに会った。ヴァージルはビーハンに一緒に武装解除に行くことを求めるが、ビーハンは一人で行くと言った。

 ビーハンはフレーモント通りでカウボーイたちを見つけ、フライの下宿屋脇の空き地でクラントン&マクローリーに武器の引き渡しを求めた。アイクとトムは武器を持っていないと言った。ビリー・クラントンとフランク・マクローリーはガンベルトをして拳銃を着用していた。フランク・マクローリーは、アープたちが武装解除しない限り、武器を渡さないと言った。

 市民のジョン・フォンクがヴァージルを呼び、「カウボーイたちが君たちを脅している。援助が必要なら10人を用意できる」と言った。ヴァージルは、彼らが馬置場にいて町を去る気なら何もする気はない。もし通りに出てきたら武装解除をする。」と言った。フォンクは、彼らは皆フレーモント通りに出ていると告げた。

 そこでヴァージルは、ドク・ホリディ、ワイアット、モーガンに向きを変えて、我々に彼が彼らを武装解除するので、一緒に来て支援するように言い、彼らを臨時保安官代理に任命する。ヴァージルは持っていた散弾銃(ウェルズファーゴの護衛用で短銃身)をホリディに渡し、ホリディはそれをコートの下に隠した。ヴァージルはホリディの杖を持った。
アープたちは、四番通りを北進し、フレーモント通の角で左に向きを変えて、西へ向かう。通りにクラントンたちの姿が見えた。

 アープたちの接近を知ると、ビーハンはカウボーイたちを置いてアープたちに近づき、ヴァージルに、「お願いだから彼らのところへ行くな、そうでないと彼らは君たちを殺す」と言った。ヴァージルは、「彼らを武装解除に行く」と返事した。アープたちによれば、ビーハンは「私が皆を武装解除した」と言った(ビーハンは否定)。

 ビーハンを脇の歩道に置いて、4人はフライの下宿屋脇の空き地に向かった。このとき近くにいたマーサ・キングは、誰かが “・・・ let them have it.”と言い、ドク・ホリディが “All right.” と言うのを聞いたという。

 3:00 pm頃、アープたち四人が空き地に達した時、フライの下宿屋とハーウッドの家の間の幅15フィートから18フィート(4.6mから5.5m)の空き地(あるいはその前の歩道を含めて)にアイクとビリー・クラントン、フランクとトム・マクローリー、ビリー・クレイボーンの5人と2頭の馬がいた。彼らのそれぞれの位置については、アイクとビリー・クレイボーンが中央あたり、フランク・マクローリーとビリー・クラントンが西側のハーウッドの家近くにいたとされるが、トム・マクローリーの位置ははっきりしない。
 ヴァージルは空き地の東側(フライの下宿屋側)に少し入り、アイクと6、7フィートの近くに行く、ワイアットは同じく空き地の東側、下宿屋の角、モーガンはワイアットの右手歩道の半ば、そしてホリディはモーガンの右でフレーモント通りの歩道上にいたとされる。

Tombstoneの略図.jpg

§ガンファイトの経過

 親カウボーイ側の証言では、この時にアープ側の誰かが “You sons of bitches, you’ve been looking for a fight, and now you can have it!” と言ったとされる。

 目撃者の一人(Addie Bourland)によれば、馬の鞍のライフル銃に手をかけたトム・マクローリーの腹をホリディが散弾銃の銃口で小突いて手を戻させてから、二、三歩下がったとされる。

 ヴァージルは杖を右手に持ったまま、「手を上げろ、銃を渡せ!」("Throw up your hands, I want your guns.") あるいはこれに類することを叫んだ。

 ここから先、ガンファイトの開始に至る経過については、親アープと親カウボーイとで全く異なる見解を示している。

 20秒から約30秒と言われるガンファイトの経過については、これを正確に再現することは難しい。当事者と目撃者の証言に依存せざるをえないが、全ての関係者の全ての動きを目撃して記憶できた人はいなかったし、見誤り、記憶違い、そして利害によるバイアス、意図的な改変があり得る。
どちらのシンパであるかによって最も見解が分かれるのが、
 ① ガンファイトはどのようにして始まったのか。誰が最初に撃ったのか。
 ② トム・マクローリーは拳銃を持っていたか、持っていなかったか。
である。
 ヴァージルおよびワイアットの証言によるガンファイトの始まりを採用すると:

 ヴァージルが、「手を上げろ、銃を渡せ!」"Throw up your hands, I want your guns."と叫んだ。

 フランク・マクローリーとビリー・クラントンが拳銃に手を伸ばし拳銃をコックし、カチッという音が二回した。ヴァージルは「止めろ、そういう意味ではない!」"Hold, I don't mean (or want) that!" と叫んだ。

 ビリー・クレイボーンは空き地の奥に向かって逃げ、フライの下宿屋と写真館の間に入った。

 ビリー・クラントンとワイアットがほとんど同時に(最初に)発砲した。ビリーはワイアットを狙って外し、ワイアットはフランク狙ってフランクの腹に命中させた。

 4発ほどが撃たれた後に、アイクは手を上げながらワイアットに向かって殺到し、ワイアットの手を掴んで「武器を持っていない、闘いたくない」と言った。ワイアットは、「闘いは始まった。闘うか、去るかしろ」("The fight had commenced. Go to fighting or get away,”)と言った。アイクはフライの下宿屋に、道路側正面から逃げ込んだ。

 ビリー・クラントンは撃たれてフライの下宿屋と反対側のハーウッドの家の外壁の下に倒れ、体を起こした。どこかの時点で右手首を撃たれ、銃を左手に持ち替えて拳銃が空になるまで発砲を続けた。腕以外に2発の弾丸を胸と腹に受けた。

 トム・マクローリーは拳銃を持っていたという説もある(ワイアットとヴァージルは、彼が少なくとも1発撃ったと証言した)が、持っていなかった可能性が高い。銃撃が始まったとき彼は馬を盾にしていた。馬が逃げたとき、ホリディが散弾銃でトムの右脇の下を撃った。トムは、よろめきながらフレーモント通りを三番通りに向けて進み、角で倒れた。

 ヴァージルは、脹脛に銃弾を受け倒れた後、立ち上がり、銃撃を続けた。ヴァージル自身は、ビリー・クラントンに撃たれたと考えた。ヴァージル自身によれば、彼はフランクに1発、ビリー・クラントンに3発の計4発を撃った。

 ワイアットに腹を撃たれたフランクは体を折り曲げて馬にもたれながらフレーモント通りに出て、二三回撃った。このため馬が逃げ、フランクは倒れ、立ち上がり、ふらつきながら道路の反対側へ行った。

 モーガンは、肩に銃弾を受け「撃たれた」 (“I’m hit.”) と叫んで倒れた。弾は、右側の肩から入り、脛骨をかすめ、貫通して左側の肩から出た。モーガンはフランクに撃たれたと思った。モーガンは立ち上がった後、道路上の水道管敷設のための盛り土に足を取られてまた倒れた後、再度立ち上がった。

 「ナゲット紙の記事」では、フランクは、ホリディに向けて銃を上げ、"I've got you now," と言い、それに対してホリディは "You're a daisy if you do (or have),"と応じたとする。
 フランクの撃った弾はホリディのホルスターに当たり、ホリディの腰にかすり傷を負わせた。この直後、ホリディとモーガンがほぼ同時にフランクを撃ち、どちらかの弾がフランクの右耳近くの額に当たりフランクを殺した。モーガンは、"I got him" と叫んだ。フランクの拳銃には、2発の弾が残っていた。

 銃撃戦が終わった時、フライ写真館の主人フライが来て、”more cartridges” と言うビリー・クラントンから拳銃を取り上げ、彼をフライの建物に運んだ。ビリーは、集まった人々に「出て行ってくれ、死なせてくれ」と言った。間もなく医者が来て、彼に大量のモルヒネを注入し、ビリーは間もなく死んだ。

 トム・マクローリーは散弾銃の散弾12発を受けていた。倒れている彼の周囲に拳銃はなかった。彼を運ぼうとしたとき未だ息があったが、運ぶ途中で死亡したという。トムが拳銃を持っていたという説では、誰か(親カウボーイのウェス・フラー)が持ち去ったとするが、証拠はない。

 死者、負傷者が連れ去られた後、ビーハンはワイアットに逮捕しなければならないと言ったが、ワイアットは拒否した。

参考資料
Web Site “McLaury Brothers in Tombstone”
Web Site “The O.K. Corral Trial”
Web Site “Gunfight at the O.K. Corral: A Timeline without the Legend”
Wikipeida “Gunfight at the O.K. Corral”、他



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