コルトと西部の拳銃 その1 [ワイルドウエスト]

§コルトと西部の拳銃

(その1)パーカッション式レボルバー

 サミュエル・コルトがパーカッション式レボルバー(Revolver)の特許をイギリスで取ったのは1835年、アメリカで特許を取ったのは1836年であった。コルトは投資家から資金を募り、ニュージャージー州パターソンにパテント・アームズ製造会社(The Patent Arms Manufacturing Company)を設立した。

 最初に生産されたレボルバーは「パターソン・モデル」(Paterson Model)と呼ばれ、1836年から生産された。パターソン・モデルには各種あったが、テキサス・レンジャーで使用された「ホルスター・モデル」は
   .36インチ口径、5連発、八角形の銃身、22グレインの火薬
   銃身長4、5、6、7-1/2、9インチの各種、重さ約1.2kg
という仕様であった。後のレボルバーを見慣れた人から見ると、このパターソン・モデルは奇異に見える。それは見慣れたトリガー・ガードがないためである。トリガー・ガードがないばかりでなく、ハンマーレストの状態では引金(trigger)がフレームに収容されていて、ハンマーをコックすると引金が現われる。テキサス海軍に納入されたパターソン・モデルが後にテキサス・レンジャーに払い下げられ、対インディアンの抗争で絶大な威力を発揮し、高く評価された。

 パーカッション式は、分離した火薬、弾丸(bullet)、パーカッション・キャップを使うため、5発あるいは6発を装填するには、数分を要し、入り乱れての戦闘中に再装填するのは不可能である。そのため、5発ないし6発では不足する場合には、予備の銃を用意した。ここから、「二挺拳銃」が生まれたという。

 パターソン・モデルは高い評価を得たが、事業としては成功せず、1842年にパテント・アームズ社は倒産し、コルトは一旦銃の製造から手を引き、パターソンにあった工場も処分された。当時は部品の互換性、規格化といったことが進行していた頃であった。パターソンの工場はこれらの技術がレボルバーを製造するには十分ではなかったためらしい。

 1845年合衆国がテキサスを併合したことで、メキシコとの関係が悪化し、1846年メキシコ戦争が勃発した。テキサス・レンジャーであったサミュエル・ウォーカー(Samuel H. Walker) は合衆国陸軍に入隊していたが、当局にレボルバーの採用を働きかけた。その話を聞いたコルトは、ウォーカーに会う機会をつくり、彼からパターソン・モデルに対する彼の評価、特に改善すべき点を詳しく聞いた。ウォーカーの強い働きかけによって、政府は、新たなレボルバー1,000挺をコルトに発注した。

 この新たなモデルは「ウォーカー・モデル」(Walker Model)と呼ばれ、見慣れたトリガー・ガードが設けられ、これに続くコルトのパーカッション式レボルバーの原型が完成された。ウォーカー・モデルは、強力な打撃力を主眼としたもので、
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、60グレインまでの火薬、
  銃身長9インチ、銃全体の長さは40cm近く、銃本体の重さは2kgを超えていた。
当初火薬の量は60グレインとされたが、これは少々危険であったので、コルトは50グレインを推奨したという。身に着けて持ち運ぶには適さず、馬の鞍にホルスターを装着して携行した。

 コルトは自前の工場を持っていなかったので、ホイットニー社に製造を依頼した。1847年に生産されたウォーカー・モデルはシリンダーの爆発などの事故が多発したと言われているが、戦場で使用されたものは、有用性を評価され、コルトは民間用に100挺を追加生産した。ウォーカー・モデルから得た利益によって、コルトは自前の工場をコネティカット州ハートフォードに持って、新たなモデルの生産を開始した。
 サミュエル・ウォーカーは、メキシコ戦争において1847年10月9日に戦死した。

 ハートフォード工場で最初に生産されたのは、ウォーカー・モデルの改良版といえる「ドラグーン・モデル」(Dragoon Model) で、「1848ドラグーン」とも呼ばれた。
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、50グレインまでの火薬
   銃身長7.5インチ、銃本体の重さ約1.9kg
ドラグーン・モデルは後のモデルと比べると、重く扱いにくかったが、一層強力な打撃力を有していた。インディアンなどの“未開”の戦士は、戦闘中の興奮状態では致命傷を受けない限り、.36口径弾を何発も受けても怯まずに闘う場合があった。こういった場合にはドラグーン・モデルがより有効であり、数は少ないが他のモデルと並行して生産され続けた。

 より軽く扱いやすいパターソン・モデルのサイズにしたのが、「ネイビー・モデル」(Navy Model)あるいは「1851ネイビー」と呼ばれるもので、
   .36インチ口径、6連発、八角形の銃身、
   30グレインまでの火薬、通常20-25グレインで使用
   銃身長7 1/2インチ、銃本体の重さ約1.2kg。
1851ネイビーは、持った時のバランスが良く、命中精度が優れていたので、ワイルド・ビル・ヒコック、ドク・ホリディなど多くの愛好者を得た。こうした有名人ばかりではなく、当時の記事には「二挺のコルト・ネイビーを携帯し・・・」といった表現が多く現れる。

 1851ネイビーのサイズで.44インチ口径にしたのが、「アーミー・モデル」(Army Model) あるいは「1860アーミー」で、
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、30グレインの火薬
   銃身長8インチ、銃本体の重さ約1.2kg
1860アーミーが1851ネイビーと異なるのは、口径の他に、銃身の下のローディングレバーがクランク式からラチェット式に変わり、銃身の付け根あたりが曲線を帯びた形になっている。1860アーミーは、1851ネイビーとともに、南北戦争で大量に使用された。

 コルト社は、これら“メイン・フレーム”と並行して、ポケット・レボルバー呼ばれる小型レボルバーを製造した。代表的なものは「1849ポケット・レボルバー」で、
   .31インチ口径、5連発、後には6連発も、八角形の銃身、12グレインの火薬
   銃身長は3~6インチ、銃本体の重さは600gを少し超える程度。
ポケット・モデルは民間人が初めて容易に手に入れることができたレボルバーであった。丁度ゴールドラッシュのカリフォルニアでは、治安の悪さ(あるいは無さ)から、必需品であったという。コルトのパーカッション式拳銃では、このポケット・モデルが最も多く作られた。

 これらのパーカッション式のレボルバーは、幾つかのバージョンを伴いながら1870年代初期まで製造された。

 1850年代にコルトの特許が切れると、他のメーカーもパーカッション式レボルバーの生産を始めた。それらの中にはコルトのコピーもあったが、機構的、機能的にコルトに優っているものもあった。その代表的なものが、レミントンの「ニューモデル・アーミー」(New Model Army) で1858年から生産販売された。パーカッション式コルト・レボルバーは、銃身とローディングレバーを主にシリンダー軸で支えていて、シリンダーの上にフレーム(トップストラップ)が通っていない(オープントップ)。このため通常トップストラップに設けられる照門がハンマーに設けられ、ハンマーをフルコックしたときのみ使える。これに対してレミントンは固定フレーム方式で、シリンダーをフレームが囲み、銃身はフレームに固定され、トップストラップに照門を設けられる。また、シリンダーの取り外しが容易なので(コルトも手間がかかるわけではないが、一体となった銃身&ローディングレバーを外さなければならない。)、予備の銃の代わりに装填済みの予備シリンダーを用意しておくことで、シリンダーの交換で射撃を継続することができる。レミントンのレボルバーは銃身の下のローディングレバーのカバーが3角形なのが特徴である。ただし、レミントンのレボルバーは不発が多かったという評価もある。

 パーカッション式レボルバーの性能について、Joseph Rosaの“The Gunfighter, Man or Myth?”によると、1924年に、古いパーカッション式レボルバーの試験がコルト・ネイビー (.36口径) とレミントン・ニューモデル・アーミー (.44口径) を使って行われた。新品同様の状態のものに慎重に弾薬を装填し、距離50ヤードで、球形弾丸では5インチ(約12.7cm)の円に収束し、コニカル(円錐)弾では7インチ(約17.8cm)に収束したという。

(注) 銃のスペックについては、資料により異なる。上記は主としてWikipediaに拠っている。



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