松元雅和著 『平和主義とは何か 政治哲学で考える戦争と平和』 [読書感想]

松元雅和緒 『平和主義とは何か 政治哲学で考える戦争と平和』
中公新書 2207 2013.03.25 初版発行

【構成】
はじめに
第1章 愛する人が襲われたら ―― 平和主義の輪郭
第2章 戦争の殺人は許されるか ―― 義務論との対話
第3章 戦争はコストに見合うか ―― 帰結主義との対話
第4章 正しい戦争はありうるか ―― 正戦論との対話
第5章 平和主義は非現実的か ―― 現実主義との対話
第6章 救命の武力行使は正当か ―― 人道介入主義との対話
終 章 結論と展望
あとがき

【感想】
 かなり「うんざり」しながら読んだ(読み飛ばした)というのが正直な感想。

 普通の人間としての自分の見解を述べれば、

〇「殺してはならない」という戒は何を意味するか
 実社会において「絶対に殺してはならない」は決して守られない。何故なら、殺人の忌避の他にも守らねばならないもの(例えば自身・家族そのた親しいものの生命・財産、正義、名誉、等々)があり、それを守ることが時に殺人の忌避と相容れないからである。
 「絶対に殺してはならない」が守れるのは、何時でも自分の身を捨てられる特別な人間だけである。
 同様に、自らの生命、あるいは正義、その他何れも「絶対至上」とはならない。他の守るべきものにも“譲れない一線”があるからである。この一線がどこにあるかは、人により異なる。
 それ故、著者が例示する義務論、帰結主義(効用)、正戦論といったこれら守るべきものの一面だけを捉えた議論は決して普通の人を納得させない。

〇戦争と平和の選択
 クラウゼヴィッツによると「侵略者は皆平和愛好家である」。(『戦争論』)クラウゼヴィッツのいう侵略者とはナポレオンのことであり、ナポレオンの戦争に対する言い訳は、「平和的に解決したかった。しかし、相手が言うことを聞かないから、戦争に訴えざるを得なかった」。
 著者のいう平和主義も現実主義も、「平和的解決の模索が先にあり、戦争に訴える(応じる)のは後」であることに変わりはない。譲れない一線がどこにあるかの相違である。

〇戦争への備えとエスレーション
 戦争と平和で「平和を選択する」最大の問題は、相手のあることであるから、(絶対的非戦主義でない限り)一国ではで決められないことである。
 軍備が必要と認めた場合、純軍事的観点から、「必要十分な軍備」というのは一国で絶対的に決定することはできない。軍備の十分・不十分は相対的な問題であり、クラウゼヴィッツのいう交互作用が働いて、常に経済力その他の限界まで「エスカレート」していく。
 「いかなる場合にも国を守る」を突き詰めて行くと、国の全ての資源を国防に振り向け、「ハリネズミのように」防備を固めるべきだということになり、更には、相手を先制して滅ぼすべきだというところまで行き着く。これも国防と言う一面だけを捉えて、他の面を無視したもので一般に受け入れられない。
 一方、「エスカレート」を自国だけ抑えようとするのは、「自国の足を引っ張る」結果になり、「現実主義者」に忌避される。「相手が先に軍縮すべきだ」と言っても無理なように「自国が先に軍縮すべきだ」というのも無理なのだ。常に同時にでなければならない。

〇二種類の平和
 争いには原因がある。著者は「戦争状態とは、何らかの国内的な原因が生み出す症状の一種であり、原因の除去とともに自然と収まるものだ」と国内要因だけを挙げているが、国内だけではなく、国家間の利害の対立の存在という原因もある。自国が何でも譲って国内要因にするというのは、「絶対に殺してはならない」が一般に受け入れられないのと同様に受け入れられない。
 一方、戦争に勝利しても「絶滅戦で相手を絶滅」させなければ、一時的解決でしかなく、最終的には解決できないことも事実である。
 イスラエルは何度戦争に勝っても平和を手に入れられない。

 そこで、平和には二種類があることになる。「一方または双方が不満を抱えたまま戦争に至っていない状態としての平和」と、「紛争の原因がない状態としての平和」である。
 平和的解決とは前者を平和的に後者に変えることである。平和主義者に何より必要なのは、「実績をあげる」ことである。それも出来るだけ速やかに。紛争の原因が残っている限り、紛争の起こる可能性は消えない。実績を積んで、その実績を本に著せば、一層説得的になる。

***
 『暴走する路面電車』の議論の空しさは、何が最善かを議論している間に、(警笛を鳴らしても効果がなければ)間違いなく路面電車は5人の線路作業員をはねることにある。

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