鯨岡 仁 著 「日銀と政治 暗闘の20年史 [読書感想]

日銀と政治 暗闘の20年史
鯨岡 仁 著 朝日新聞出版 刊 2017.10.30 初版発行


【構成】
まえがき
序章 「独立」した日本銀行
第1章 ゼロ金利解除の失敗
第2章 量的緩和の実験
第3章 リーマン・ショックと白川日銀
第4章 日銀批判のマグマ
第5章 レジーム・チェンジ
第6章 異次元緩和の衝撃
第7章 金融と財政、「合体へ」
あとがき


「金融政策は紐のようなものであり、引くことはできるが押すことはできない」-。金融政策について語るとき、こんな比喩を良く使う。
「インフレのときには金利を上げて引き締めればよい(紐を引く)が、デフレのときに物価を金融政策で押し上げる(紐を押す)のは難しい」(第1章 p.49-50)

この本は、「紐を押せ!」と要求するリフレ派・マネタリストの政治家・エコノミストと、「紐を押しても効果はない」と否定する速水優・白川方明などプロパー日銀総裁の「論争史」を時系列に解説したものである。
「あとがき」で著者が書いているように、評価や批判を避けて、「政策が誰の手により提唱され、どのような力学で決められ、実行されていったのかを克明に記録する」ことを目的としている。

※ 19世紀資本主義の登場から現在までを通して見れば、戦後先進国復興期の、需要が供給を上回ることから生じた「高度成長」、それに伴う「継続的な物価上昇」は「例外的な状況」であった。しかし、最近までの主流派の経済学は、この「例外的な状況」に基づいており、多くの人々の経済観もそうであった。今でも「成長し続けるのが経済の正常な状態」とされている。
中央銀行と金融についていえば、
    ・資金は常に不足し、投資資金需要は常にある。     ・中央銀行は、金利操作により市場に供給されるマネーの量を調整することで、経済(の過熱と冷却)をコントロールできる。
とされていた。
しかし、経済のグローバリゼーションが進んだ現在、一方では市場に(あるところには)マネーがあり余り、投資先を求めている。他方では、需要の伸びは鈍く、その結果(実体経済の)投資資金需要は減り続け、マネーに対する「需要と供給の関係」で市場金利は下がり続けた。中央銀行は金利を下げれば経済を活性化できると信じて、実体経済の金利低下の後追いで政策金利を下げ続け、ついには「ゼロ金利」に達した。


日本が戦後、苦しんできたのはインフレであった。・・・物価の上昇に目を光らせるのが、これまでの政府・日銀の役割であった。・・・(デフレーションは)少女アリスが迷いこんだ「不思議の国」のようなものであった。(第1章、p.48)

東大経済学部小山ゼミの小宮隆太郎教授は、1973年~74年の狂乱物価論争で、金利操作だけに執着していた日銀に対して、「マネーサプライを適正な伸びに抑えるべきだ」と主張した。
小宮ゼミに学んだ山本幸三と岩田規久男は、小宮理論を延長していけば、「マネーサプライを増やすことができれば、物価を引き上げることができ、デフレから脱却できる」という結論に行き着くと考えた。
小宮本人は、山本や岩田の議論を否定した。小宮は、マネーサプライの抑制がインフレ退治に効果を発揮するが、逆に無理に増やしても、ゼロ以下となった物価指数を押し上げる効果はないと考えた。小宮の側についたのは、白川方明であった。

「マネーサプライ論争」(1992、第1章、p.81)
    岩田規久男:『日銀理論』(金利操作だけに着目した金融政策)を放棄せよ。
    翁邦雄:『日銀理論』は間違っていない。(第1章、p.75~76)

1997年6月11日、改正日銀法成立。これは中央銀行の政府からの独立性を高めたものである。(序章、p.39)

2001年3月16日、麻生財務相による「デフレ宣言」

日銀総裁の速水優は、量的緩和を導入した(2001年)3月19日の記者会見でこう(「長期国債の引き受けなど絶対にするつもりはない。これは法律でも認められていない・・・」)力を込めた。
このとき速水が量的緩和と同時に導入したのが「銀行券ルール」、すなわち、日銀が保有する長期国債の残高を、日本銀行券の流通残高以内に収めるという運用ルールである。(2001.03、第2章、p.95)

2001年、山本幸三、渡辺喜美、舛添要一らが「日銀法改正研究会」の初会合を開いた。・・・
研究会は、物価上昇率の目標を定めて金融政策を運営する「インフレ目標政策」の導入や、日銀総裁の解任権を首相に持たせるなどを盛り込んだ法改正に向けて、検討していくことで一致した。(第2章、p.104-105)

2001年11月20日の経済財政諮問会議「デフレ対策と不良債権処理」
    ・吉川洋、平沼赳夫は、デフレ対策を求める
    ・速水日銀総裁は、不良債権処理の優先を求める

2002年、速水日銀総裁:「(インフレ目標は)インフレを抑えるために使っているので、デフレを抑えるために使っているという例はあまり聞いたことはない」(第2章 p.119)

2008年「リーマンショック」
2008年12月01日、米バーナンキFRB議長は、「バランスシートを活用」するという言葉を使うことで、「量的緩和」や「信用緩和」などあらゆる措置を講ずる意思を示した。(第3章、p.182)

2009年11月20日、菅直人副総理による(二回目の)「デフレ宣言」

2009年、白川日銀総裁、「日本の(2001~2006年の)量的緩和のときも、FRBも、超過準備も流動性もたくさん供給しているが、そのこと自体によって物価を押し上げていくという効果は乏しい」(第3章 p.193)

2012年11月15日、自民党安倍晋三総裁は読売国際経済懇談会で、「2~3%のインフレ目標を設定し、それに向かって無制限緩和していく」(第4章 p.259)

2012年12月26日、第二次安倍内閣発足

2013年1月、政府が目指すべき「物価目標」を数値で設定して日銀と共有する。日銀が様々な金融政策の手段を用いてその目標達成をめざし、責任を負う。
この政策の背景には、経済学の「貨幣数量説」という考えがある。世の中に出回っているお金の総量とその流通速度が、物価の水準を決めるというものだ。安倍(首相)のブレーン(浜田宏一、岩田規久男、本田悦郎、中原憲久など)は、金融政策が中長期的には物価水準を決めることができる、という考え方を固く信じていた。
一方白川はこれとは対極にいた。白川は、物価は世に出回るお金の量で決まるというよりは、むしろ経済の供給力と実需の差「需給ギャップ」などを反映した結果だと考えていた。(第5章、p.282)

2013年3月4日、衆議院運営委員会での日銀総裁候補黒田東彦の発言:
日銀が2000年にゼロ金利政策を、2006年に量的緩和政策を、それぞれ政府の反対を押し切って止めた。黒田はこうした政策判断を「いまから見ると明らかに間違っていた」と指摘。日銀が長期国債を買う量を制限している「銀行券ルール」についても、「私が知る限り、日銀だけにしかないルールだ」として見直しを示唆した。・・・
「(目標)をいつ達成できるのか分らないのでは物価安定目標にならない。グローバルスタンダードでは2年程度であり、2年は1つの適切な目途だ」
「2年で2%」を公約にした。・・・
(副総裁候補)岩田紀久男の発言は過激だった。・・・「就任して最初からの2年で達成できなければ、責任は自分たちにある。責任の最高の取り方は辞職することだ」。(第5章 p.315)


論争の結果は第二次安倍政権の出現で「紐を押せ!」派の勝利に終わった。黒田東彦総裁・岩田規久男副総裁の日銀は、異次元緩和と称して「紐を押しまくった」。その効果の程は、物価の現状が示している。

2016年9月5日、黒田は共同通信社主催のきさらぎ会の講演で、金融政策決定会合でおこなう「総括的な検証」について「予告」的な説明をおこなった。
黒田が「検証のポイント」としたのは「2%の物価上昇率目標が達成できていない理由」と「マイナス金利の効果と影響」の二つであった。
異次元緩和の開始から3年半たったが、足元の物価上昇率(生鮮品を除く)は前年比マイナス0.5%に留まっている。黒田は、こうした物価低迷の理由として「原油価格の下落」「消費増税後の消費など需要の弱さ(本書によれば黒田は日銀の政策が財政ファイナンスではないことを示すために増税を主張した)」「新興国経済の減速」の3点を挙げた。
3つとも、日銀がコントロールできない「外的要因」である。裏を返して言えば、これらの外的要因がなければ、目標を達成していた、という意味でもあった。(第7章、p.395-396)

更に裏を返せば、物価が上昇しても、それは日銀の政策結果ではなく、「外的要因」のためかもしれない。
もし、黒田総裁の検証が正しいならば、「(日銀政策で)購買量は増加したが、(外的要因のために)物価は上がらなかった」となるはずである。
現在、安倍首相が必死に財界を説得して賃金を上げようとしているのを見れば、どちらであるかわかる。



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