タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について [タイタニック&カリフォルニアン]

タイタニック号の遭難とカリフォルニアン号との関係について

 タイタニック号が氷山に衝突して浸水し、救命ボートを準備している頃、船首左舷方向数海里の先に、船の灯りが見えた。その船は、タイタニック号に近づいて来る様に見えた。しかし、タイタニック号からモールス信号灯で呼びかけても応答せず、遭難信号弾を打ち上げても反応せず、やがて去っていった。

 タイタニック号の遭難に関して開かれたアメリカとイギリスの査問会において、このタイタニック号の「謎の船」は、カリフォルニアン号であるとされた。そして、カリフォルニアン号のスタンリー・ロード船長は、タイタニック号の遭難信号を無視して救助を怠り、救えたはずの人命を失わせたとして非難された。

 しかし、これには当時から反論があった。特にイギリスの査問会については、古い規則の見直しを怠ってきた商務省、および安全に対する配慮に欠けたホワイトスター社の責任から世間の目をそらすために、ロード船長は「スケープゴート」にされた、と一部の人々は見ていた。

 日本ではほとんど関心を持たれていないが、米英では、事故から1世紀近く経た今日でも、「カリフォルニアン号がタイタニック号の謎の船であったかどうか」という論争が続いている。

この経過を追ってみると...


§ タイタニック号の事故当時のカリフォルニアン号
 タイタニック号は1912年4月12日11.40pm(船の時間)氷山に衝突し、15日2.20am(船の時間)沈没した。

 15日5.30am頃、カリフォルニアン号は無線で「CQ」(受信した全ての船に情報提供を求める)を発信した。この後、(マウント・テンプル号)、フランクフルト号、ヴァージニアン号、バーマ号と無線通信を行った。
 15日7.00~7.30am頃、タイタニック号が無線で送った遭難位置=CQD地点の近くで停船していたマウント・テンプル号の近くを、カリフォルニアン号が北から南に通過した。
 15日8.00am頃、タイタニック号の救命ボートを救助しているカルパチア号の西南西5~6海里の先からカリフォルニアン号が氷原を越えて来るのが目撃された。カリフォルニアン号は8.30am頃カルパチア号と合流した。交信により、カルパチア号は港へ向かい、カリフォルニアン号は他に生存者がいないか探索を引き継ぐことになった。
 16日、カリフォルニアン号からカルパチア号に、捜索の結果何も発見されなかったという無線連絡が入った。

 4月19日、すなわちカルパチア号がニューヨーク港に到着した(18日の)翌日、カリフォルニアン号がボストン港に到着した。


§ アーネスト・ギルの宣誓供述書
 カリフォルニアン号がボストンに到着した数日後の4月25日、『ボストン・アメリカン』紙に、カリフォルニアン号の乗組員の一人、アーネスト・ギル(Earnest Gill)なる人物の宣誓供述書が掲載された。その内容は、次のようなものであった。

『4月14日の夜、私は午後8時から12時まで機関室で仕事をしていた。11:56に私はデッキに出た。非常に澄んでいて、遙か遠くまで見ることが出来た。船の機関は10:30から停止し、船は流氷の中で漂っていた。私は右舷側の手すりから見渡し、10海里ほど離れたところに非常に大きな蒸気船の灯りを見た。その船の側面の灯りを見ることができた。その船を1分間ずっと見ていた。ブリッジ(船橋)と見張りがその船を見落とすことはあり得なかった。
 12時になり、私は船室に行った。私は同僚のWilliam Thomasを起こした。彼は船に沿って氷が立てる音を聞き、「我々は氷の中にいるのか?」と私に聞いた。「そうだ、しかし右舷側は開けているに違いない。というのは大きな船が全速で行くのを見た。その船は大きなドイツ船のように見えた」と私は返事した。
 私は寝床に入ったが、眠ることが出来なかった。半時間ほどで私は起きて、煙草を喫おうと考えた。積み荷のために私は船室で喫煙することはできなかった。それで再度デッキへ行った。
 デッキに10分ほどいた時、私は右舷側の約10海里先に白いロケットを見た。私は、流れ星であろうと考えた。7ないし8分後に私は明らかに第2のロケットを同じ場所に見た。そして「あれは遭難状態にある船に違いない」と考えた。
 ブリッジの見張りに知らせるのは私の仕事ではなかったが、彼らがそれを見落とすことはあり得なかった。 私はその後すぐに寝床に入ったが、船がそのロケットに注意を払うであろうと想像していた。
 6:40に機関長に起こされるまで、それ以上のことは何も知らなかった。彼は「起きて手を貸せ。タイタニック号が沈んだ」と言った。
 私は叫んで寝床から跳びだした。私はデッキへ行き、船が全速で航行していることを知った。船は氷原から抜け出たが、近くには氷山が沢山あった。
 私は当直(on watch)に行き、二等機関士と四等機関士が話をしているのを聞いた。J.C. Evans氏が二等機関士、Wooten氏が四等機関士であった。二等機関士は四等機関士に、三等航海士は彼の当直中にロケットが打ち上げられたと報告していた、と話した。それで、私が見たのはタイタニック号であったに違いないと知った。 二等機関士は、船長が、確かGibsonという名前の見習航海士からロケットについて知らされた、と付け加えた。船長は彼に、遭難した船にモールス灯で交信するように話した。その時の当直航海士はStone氏であった、とEvans氏は言った。
 更なる灯りが見え、更なるロケットが打ち上げられたとEvans氏が言ったのを立ち聞きした。次いで、Evans氏によれば、Gibson氏は再度船長のところへ行き、更なるロケットを報告した。船長は彼に、応答が得られるまでモールス灯を続けるように言った。応答はなかった。
 私が二等機関士から聞いた次の所見は、「一体どうして彼らは無線士を起こさなかったのだ?」というものであった。船の全乗組員は、ロケットを無視したことについて彼らの間で話をしていた。私は幾人かに私と一緒に船長の振る舞いに抗議するように自ら勧めたが、彼らは拒否した、というのは、彼らは仕事を失うのを恐れたからである。
 船が港へ着く1日か2日前、船長はロケットが打ち上げられていた時間に任務中であった操舵手を彼の船室に呼んだ。彼らは四分の三時間話をしていた。操舵手はロケットを見なかったと言明した。
 私は、カリフォルニアン号がタイタニック号から20海里以内にいたことを確信している。もしその船が10海里より遠ければ、私は見ることができなかったであろう。そして私はその船を非常にはっきりと見た。
 私は、この船の船長にも航海士の誰にも悪意を持ってはいない。そして、私はこの言明をすることにより利益の源泉を失うことになる。私は、遭難状態にある船の救助を拒否あるいは無視した船長が、船員の話をもみ消すことが出来てはならないことを示すために、この行動に駆り立てられた。』

 ギルのこの「密告」により、カリフォルニアン号は目をつけられることになった。

(続く)

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