O.K.牧場の決闘 - 親カウボーイの証言 その3 [ワイルドウエスト]

O.K.牧場の決闘 - 親カウボーイの証言 その3

§ ビーハンの証言の見直し

 O.K.コラール近くのガンファイトでは、最初に二発の拳銃による銃撃で始まったことが多くの証言で確認されている。この二発を撃ったのは誰か。
この部分について、ジョン・ビーハン郡保安官の証言を引用すると、

「彼らがクラントンたちとマクローリーたちの数フィート内に達した時、彼らの一人が――私はワイアットであったと思うが、”You sons of-bitches, you have been looking for a fight, and now you can have it!” と言うのを聞いた。また、大体このとき私はある声が “Throw up your hands!” と言うのを聞いた。

 この間に拳銃(複数)が向けられていた。私は特にニッケル鍍金された拳銃を見ていた、それは一団のある一人に向けられていた。私はビリー・クラントンに向けられていたと思う。その時の私の印象はホリディがそのニッケル鍍金された拳銃を持っていたというものであった。私は彼が確かに持っていたというつもりはない。私が話したこれらの拳銃はアープたちの手にあった。

 “Throw up your hands!”という命令が与えられたとき、私はビリー・クラントンが “Don't shoot me. I don't want to fight!” と言うのを聞いた。トム・マクローリーは同じ時に彼のコートを開いて、”I have nothing” あるいは ”I'm not armed”、あるいは何かそのようなことを言った。彼は、彼が武器を持っていないことを私に示したときにしたのと同じ仕草をした、彼のコートの両側を持ち、それをこのように広げた[図示する]。ビリー・クラントンが闘いたくないと言ったとき、私は彼の手の位置を見なかった。私の関心は二秒ほどニッケル鍍金された拳銃に向けられていた。ニッケル鍍金された拳銃が最初に発砲した、そして直ぐに第二の射撃が-二つの射撃は正に同時に-これら二発は同じ拳銃からではありえなかった-それらは余りに同時に近かった。ニッケル鍍金された拳銃は右から二番目の者によって発砲された。右から三番目の者が二発目を撃った、もしそれを第二発と呼べるならば。次いで闘いは全面的になった。最初の二発が撃たれた後、二ないし三発が非常に速やかに撃たれた-私は誰によるのか言えない。最初の二発はアープ側によって撃たれた。私は最初の二発の直後の弾が誰によって撃たれたのか断言できない。その時の私の印象は、次の三発は最初の二発と同じ側から、即ちアープ側から来た。[弁護団は証人が彼の印象を述べることに反対した。却下された。]これは、その場所にいてそれを見たときの、私の印象であった。」

 ビーハンが反対尋問に返事が出来なかったように、散弾銃を持っていたホリディが「(ニッケル鍍金された)拳銃で最初に撃った」というのはあり得ない。では、撃ち合いの開始時にニッケル鍍金された拳銃を見たというのはホリディを陥れるための全くの絵空事の偽証なのか?しかし、別の見方もできる。

 ビーハンの証言には、この目的で偽証をするには不必要な内容がある。

 ビーハンは、「ニッケル鍍金された拳銃は右から二番目の者によって発砲された。右から三番目の者が第二発目を撃った」とも証言した。

 銃撃が始まったときのアープ側の配置は、左から右にヴァージル、ワイアット、モーガン、ホリディであり、ヴァージルは空き地に入り、ワイアットはフライの建物の角、モーガンはワイアットの少し右側の歩道上、そしてホリディはモーガンの少し右側の路上にいたことはほぼ一致した見解である。

 それによれば、右から二番目の者はモーガン、三番目はワイアットということになる。

 ビーハンの証言時に、ガンファイトの配置図が法廷にあったようだが、残念ながら参照した資料にはその図は載っていなかった。ただビーハンの説明では、8がホリディ、5がヴァージルとなっているので、やはり上記の見解と同じであったと思われる。

 ある意味、これは当然の帰結である。ヴァージルは右手に杖を持っていた。ホリディは散弾銃を持っていた。最初に発砲された二発が拳銃からのものであり、どちらもアープ側によるものであれば、拳銃を使う手が空いていたのは、ワイアットとモーガンだけである。

 ビーハンは検死官審問とスパイサー聴聞(裁判)の両方で、前記の証言をほぼ繰り返している。それなのに何故、「右から二番目の者」とホリディの矛盾を無視したのか分らない。

 アープ側の各人がどんな拳銃を使ったのかは知られていない。ドク・ホリディと『ニッケル鍍金された拳銃』を結びつけているのはビーハンとクレイボーンの証言だけであり、しかもそれは人物を特定して言っていたのではなく、『ニッケル鍍金された拳銃』=ホリディの拳銃という先入観に基づいていたとも言える。もし、本当にホリディが『ニッケル鍍金された拳銃』を使っていたとしても、モーガン・アープが『ニッケル鍍金された拳銃』を使っていなかったことは言い切れない。


〇 “Murder in Tombstone” のシナリオ

 Steven Lubet著 “Murder in Tombstone” ([コピーライト]2004)は、「アープ/ホリディ裁判」の経過を主に描いた本である。この著者は、ワイアットが証言した、ビリー・クラントンとフランク・マクローリーが拳銃を抜き始めたのを見てから、ワイアットがポケットに入っている拳銃を抜いてビリーとほぼ同時に撃つことは物理的に不可能という観点から、実はワイアットは既に拳銃を手にしていたと見る。そして、フランクの(ワイアットから見て)不審な動きに反応して撃ち、続いて、やはり拳銃を手にしていたモーガンが撃ったとする。

 アープたちが空き地にやって来たときの状況は、アープたちのほうがずっと「アグレッシブ」であり、また撃ち合いの経過から見て、最初の二発をアープ側、(どちらが先であったかは別として)ワイアットとモーガンが撃ったというのが、最もありそうなシナリオである。

 ワイアットあるいはモーガンが何故撃ったかを知ることは事実上不可能である。誰かが真実を言い当てたとしても、それを証明することはできない。

 “CooperToons”という一風変わったWebSiteの”THE GUNFIGHT AT THE OK CORRAL”では、次のようなシナリオを提示している。
「ヴァージルは“Throw up your hands!”と言った。そこでビリー・クラントンは手を上げようとした。するとヴァージルは続いて “I want your guns!” と言った。そこでビリーは先ずは銃を渡そうと考え、銃に手を伸ばした。それを見たアープたちは、ビリーが撃つために銃を抜こうとしていると思い、撃ち始めた。」

 因みに、クレイボーンの証言によれば、ビリー・クラントンの拳銃ホルスターはガンベルトの左側につけられていた。(1993年の映画『トゥームストーン』では、ビリー・クラントンのホルスターは正しく左側になっている。)

 空き地に来てビリー・クラントンとフランク・マクローリーが拳銃をガンベルトのホルウターに入れているのを見たとき、ワイアットとモーガンは彼らに拳銃を突きつけた。そして何らかの理由で彼らは撃った。というのが最もありそうなシナリオである。

 こうして “Fighting is commenced.”


§ ガンファイトの経過についてのビーハンとC.H.ライトの証言

 ビーハンは、前記の証言を次のように続けた:

「『手を上げろ!』という言葉が発せられた後、ニッケル鍍金された拳銃が発射された。私は、『手を上げろ!』と言ったのはV. [Virgil] W.アープであったと思う。多くの闘いと銃撃が進行した。次に[ここの数語は解読できない。]私は、フランク・マクローリーが通りでよろめいているのを見た、片手を彼の腹に当て、右手で拳銃を持っていた。私は彼がモーガン・アープに向けて撃つのを見た、そして拳銃の方向から彼は地面を撃ったと言うべきである。フランク・マクローリーはフライの建物に向けて二回撃った、そして彼が通りを横切り始めた、その時彼はモーガン・アープに向けて撃った。私はその方角から二発を聞いた。私は彼が通りの半ばまで横切った後、彼を見なかった。私の関心は他の方角に向いていた。次いで私はその方角を見て、フランク・マクローリーが走っていて、一発の弾丸が発射され、彼は頭から倒れた、そして私はモーガン・アープが『彼を仕留めた!』と言うのを聞いた。

 それが大体闘いの終わりであった。その後二発ほどあったかもしれないが、私は覚えていない。私は最初の二発の効果を見たとは言えない。私が闘いの間に倒れたのを見た関与者は、モーガン・アープとフランク・マクローリーだけであった。私は最初の二発の効果を示す人のどんな動きも見なかった。私はどんな兆候にも気づかなかった[解読不能]。

 私が撃たれたと確信した最初の人物はフランク・マクローリーであった。私は彼がよろめき混乱しているのを見て、彼が撃たれたことを知った。彼は最初の二発が撃たれた少し後であった。私はマクローリー側の誰の手にもどんな武器も見なかった、フランク・マクローリーとビリー・クラントン以外には。私はフランク・マクローリーが歩道上にいるのを見た、フライの建物とその先の貸間屋の間の空き地と反対側のロットの前面のリール(Lille)からほんの二、三フィート以内であった。

 マクローリーあるいはクラントン側の誰かの手に武器を見るまでに、八ないし十発が撃たれたと思う。私が拳銃を手にしているのを最初に見たのはフランク・マクローリーである。アイク・クラントンは最初の五発が撃たれた後に脱して逃げた。私は彼をフライの家の角の背後に見た、私が最後に彼を見たのはそこであった。私は彼がフライの建物の背後の建増に走って入ったと判断した。」

 夫のC.H. ライトは、フレーモント通りと三番通りの北西の角にあったアズテックハウスの三番通り側の窓からガンファイトを目撃した。彼が一階から見たのか二階から見たのかは知られていない。彼が見たのは二発の銃声に始まる最初の数秒が過ぎてからであった。彼はマシューズ医師による検死官審問でのみ証言し、スパイサー聴聞には召喚されなかった。

「私が『1、2』と数えることができるほど速やかに二発が発砲された、私は三番通りの窓に向かって跳び、フレーモント通りを見た、私は数人が撃っているのを見た。私が見たとき、一人の者[Tom McLaury]がよろめきフレーモントと三番通りの角の南側、丁度角の家に倒れるのを見た。私はその者が誰か知らなかった。」

 このフレーモント通りと三番通りの角に倒れた者がトム・マクローリーであったことは間違いなく、この証言によればトムは最初の数発の銃撃の間に撃たれたことになる。

 「私は再度通りを見た。私は三人[WyattとVirgil EarpとDoc Holliday](*1)が約10ないし15フィート(3-4.5m)離れて、大体通りの中央に立っていてフライの写真館とその西側(below)の家に面しているのを見た。私はもう一人の者が空き地に隣接した建物(bulding)に寄りかかっているのを見た[Billy Clanton](*2)。二人の者が家(house)の側に立っている者(*3)に発砲しているようであった[WyattとVirgil Earp]。
 その者(*3)は彼のする動きから撃たれたようであった。次いで彼(*3)は一発こちら側の者(lower man)(*4)に、北西側の者(*4)に向けて撃った、後に彼はホリディだと理解した。」

(*1)原文の説明では、WyattとVirgilとHollidayとなっているが、Wyatt、Morgan、Hollidayではないか?
(2*)原文の説明ではBilly Clantonとなっているが、Virgilで、右脚脹脛を撃たれて倒れたた後立ち上がりフライの建物に寄りかかっていたのではないか?
(*3)はBilly Clantonで、彼が一発Holliday(*4)に向けて撃ったと解する。

「馬と共にいる者(*5)によって撃たれた射撃は効果があったようにみえた、というのは、相手(the other man)(*6)は部分回転した。次いで私は家に向かっている者を見ていて、彼らの誰かが倒れるのではないかとずっと予想していた、そして彼(*6)は地面に倒れ落ちる(slide down)動きをして、明らかに負傷した。その瞬間馬が見えなくなった。わたしは彼が何処へ行ったのか知らない。このこちら側の者(lower man)(*5)は明らかに通りに向かって撃っていた。彼は一発か二発撃った。次いで私は、家(house)の横に倒れ落ちた者(*3)見た、頭と肩を家に寄りかかり、彼の拳銃を膝に載せ、二発を撃った。彼は第三発を撃とうとしたが、明らかに弱り過ぎていた。射撃は外れた。同時に背が高くグレーの衣服と鍔広の帽子を着た者がいて(*4)、通りの中ほどに立っていて、二発を明らかに家に寄りかかっていた者の方角に撃った。次いで、一人 (?) が通りの中ほどに現われて通りに撃った。家の角近くの地面に横たわったこの者(*3)は三発だけしか撃たなかった。彼は力を失ったように見えた。次いで、通りの北側にいた者たち(*7)によって更に二、三(a few)発が撃たれ、彼らは私の視野から去り、私は彼らを見ることができなかった。」

(*5)はフランク・マクローリーで、(*6)はモーガン・アープと考えられる、ビーハンが「フランクがモーガンに向けて二発撃った(一発は地面に当たった)」と証言しているのと符合する。
(*7)ガンファイトが終わる前にフレーモント通りに北側に行ったのはフランクだけなので、はっきりしないが、フランクとホリディか?

「次に私が見たことは、建物の角の南側に倒れている者の側に二人の者(*8)が立っていることであった。黒い服を着た背の高い者(*9)が手にライフル銃を持って現場に現われ、『その拳銃をその者から取り去れ、そうでないと私は彼を殺す!』と言った。このとき撃ち合いは全て終わり、私は全体で10ないし15秒を超えなかったと思う、この黒い服を着た背の高い者は、乱闘の関与者ではなかった。

(*8)はヴァージルとワイアットと思われる。
(*9)はフライの写真館の主人カミラス・フライ(Camillus Fly)である。

 六人が発砲したように見えた、四人は通りの中ほどに、一人は通りの南側、そして一人は馬と共にいた。後に、私はグレーのコートを着た者がドク・ホリディだと知った。全部で25ないし30発が発射されたと思う。散弾銃を持っていた者を見なかった。闘いは私のいるところから130ないし140フィート(39.6m-42.7m)離れていた。音から、最初の二発は拳銃で撃ったものと思う。散弾銃からの音が一回あったと思う。
 
 私は通りの角に倒れた者が闘いの間中そこに横たわっていたのを見た。私は彼が撃ったのを見なかった。彼は撃たれた最初の者であったように見えた。最初の二発の間には、人が拳銃を抜いて撃つのに十分な時間はなかった。それらは二つの拳銃からに違いない。二発目を発砲した者は、最初の弾が発射されたときに発砲する準備がされていたに違いない。私が聞いた二発は私が窓へ行く前に発砲されたが、そこへ行くのに一秒はかからなかった。」

 ライトはシルズと同様に関与者を知らなかった。彼の証言はそういう人の「生の目撃証言」の例を示している。彼はこれを検死官審問で証言したが、彼の証言はアープ側の有罪/無罪には関係しないので、アープ裁判には証人として召喚されなかった。
 
ライトが目に入った全てを正確に証言しているとは言わないが、フランクがモーガンを撃った描写はビーハンの証言と符合し、ビーハンの証言が「デタラメ」ではないことを傍証している。



O.K.牧場の決闘 - 親カウボーイの証言 その2 [ワイルドウエスト]

O.K.コラール近くのガンファイト - 親カウボーイの証言 その2

§ ガンファイトはどのようにして始まったのか

 O.K.コラール近くの空き地でのガンファイトはどのようにして始まったのか。誰が最初に撃ったのか。多くの証言では、最初に拳銃によるほとんど同時に近い二発の銃撃があり、その後識別できる暫しの間を置いて撃ち合いが全面的になったとする。

 これには、親アープと親カウボーイの相反するシナリオがある。親アープのシナリオでは、ビリー・クラントンとワイアット・アープが最初に撃ったとする。親カウボーイのシナリオでは、ドク・ホリディとモーガン・アープが最初に撃ったとする。

〇親カウボーイのシナリオ

 一般に言われている親カウボーイのシナリオは、ジョン・ビーハン郡保安官、アイク・クラントン、ビリー・クレイボーン、ウェズリー・フラー、ウィリアム・アレンなどの証言を総合したもので、実際にはそれぞれ少しずつ異なっている。一般に言われているのは、

 「アープたちがクラントンたちと対峙した時、アープ側の誰かが、“You sons of bitches, you have been looking for a fight, and now you can have it.” と言った。それに続いてヴァージル・アープが “Throw up your hands!” と言った。同時に、アープたちは拳銃をクラントンたちに向けた。ビリー・クラントンは “Don’t shoot me! I don’t want to fight!” と言い、手を上げた。トム・マクローリーは上着を開いて武器を持っていないことを示し、“I’m not armed.” と言った。その時銃撃が始まった。ドク・ホリディとモーガン・アープが最初に撃った。」

 このシナリオが疑問視される点の一つは、親カウボーイ以外の『中立な第三者』の証人に、クラントンたちが『手を上げた』と認める目撃証言がないことである。

 もう一つの点は、『ドク・ホリディが(拳銃で)最初に撃った』とする点である。
ビーハンは、「ホリディの『ニッケル鍍金された拳銃』がビリー・クラントンに突きつけられ、最初に撃った。」と証言したが、ドク・ホリディは散弾銃を持っていたことが知られている。ビーハンは弁護側からの

 「ホリディから撃たれた最初の弾は散弾銃からであった、彼が散弾銃を放り出してニッケル鍍金された拳銃を抜き、次いでニッケル鍍金された拳銃を撃った、というのは事実ではないのか?」

という反対尋問に、ビーハンは答えられなかった。

 また、コチーズ郡地区検事補W.S. ウィリアムズ (‘Winfield Scott Williams)は、10月26日のガンファイトの日の夕方、ビーハンがヴァージルを訪ねたとき、ビーハンがヴァージルに

 「私は君が『諸君、手を上げろ、私は諸君の武装解除に来た』と言うのを聞いた、その時マクローリーの一人が ‘We will,’ と言って銃を抜いた。撃ち合いが始まった。」

と話すのを聞いた、と証言した。これに関して問われたビーハンは、

 「私は、彼が『手を上げろ!』と言うのを聞いたと彼に話したと思うが、マクローリーが何か言うのを聞いた、あるいは彼が拳銃を抜くのを見たと彼に話したことはない。」

と答えた。しかし、ビーハンの証言の信用性はダメージを受けた。


〇親アープのシナリオ

 親アープのシナリオは、ワイアットとヴァージル・アープの証言に基づいている。要約すれば、

 ヴァージル・アープは右手に杖を持って、 “Throw up your hands! I want your guns!” と言った。フランク・マクローリーとビリー・クラントンが拳銃に手をかけ、抜く動きをした。ヴァージルは “Hold! I don’t want that!”と言った。ビリー・クラントンとワイアット・アープがほとんど同時に撃った。

ワイアット・アープの証言では:

 「我々は彼らに近づき、フランク・マクローリー、トム・マクローリーとビリー・クラントンがフライの写真館の西の建物の空き地の反対側の建物の東側を背にして並んで立っていた。アイク・クラントンとビリー・クレイボーンと私が知らない者(ウェズリー・フラー)は写真館と西の次の建物の間の空き地の大体半ばに立っていた。 ビリー・クラントンとフランクとトム・マクローリーは彼らの手を横にして、フランク・マクローリーとビリー・クラントンの六連発銃ははっきり見えた。ヴァージルは「手を上げろ、私は君たちの武装解除に来た!」("Throw up your hands; I have come to disarm you!")と言った。ビリー・クラントンとフランク・マクローリーは彼らの手を六連発銃に添えた。ヴァージルは、「止めろ、そうではない!」("Hold, I don't mean that!")と言った。次いでビリー・クラントンとフランク・マクローリーは彼らの拳銃を抜き始めた。同時に、トム・マクローリーは彼の手を右の腰に下ろし、彼のコートをこのように[どのようにかを示す]投げ、そして彼の馬の後ろに跳んだ[実際にはそれはビリー・クラントンの馬であった。]
 
 私は拳銃をオーバーコートのポケット入れていた。ビーハンが他の一団を武装解除したと我々に話したとき、私はそれをそこに入れていた。ビリー・クラントンとフランク・マクローリーが彼らの拳銃を抜いたとき、私は拳銃を抜いた。ビリー・クラントンは私に銃を向けたが、私は彼を狙わなかった。私は、フランク・マクローリーが優れた射撃の腕で危険な者であるという評判を知っていて、私はフランク・マクローリーを撃った。最初の二発はビリー・クラントンと私によって発射された。彼は私に向けて撃ち、私はフランク・マクローリーに向けて撃った。私はどちらが先に発射されたかわからない。我々はほとんど同時に撃った。次いで闘いは全面的になった。」

ヴァージル・アープは:

 「彼等を見るや否や、私は「諸君、手を上げろ、銃を渡せ」("Boys, throw up your hands, I want your guns,")あるいは「武器」(“arms”)であった。それとともに、フランク・マクローリーとビリー・クラントンは銃を抜きそれらをコックし、私はそれらが「クリック、クリック」そるのを聞いた。アイク・クラントンは彼の手をこのように(描く)胸に上げた。そこで私は、両手を上げるように言った、その時右手に杖を持っていた。「止めろ、私はそれを望まない!」("Hold on, I don't want that!") 私がそれを言ったとき、ビリー・クラントンは彼の六連発銃を前に向け、フルコックした。私は、私の隊の左に立っており、彼(ビリー)はフランクとトム・マクローリーの右に立っていた。彼は私を狙っていなかったが、彼の拳銃(の狙い)は大体私を通った。二つの銃撃が正しく一緒に放たれた。ビリー・クラントンはその一人であった。同時に、私は杖を左手に持ち替え、銃撃を始めた。それは全般的になり、誰もが闘いに入った。」

(Q) 君は、闘争の開始時に二発が同時に近く撃たれた、そしてビリー・クラントンがその一人であったと言った。もう一発を撃ったのは誰か?
(A) ワイアットがそれを撃ったと考えるようになった。

 このシナリオに符合する証言をした『中立な第三者』の証人は一人だけいた。H.F. シルズ(Sills)である。彼の証言では、

 「・・・私は会話を聞くには十分近くはなかったが、彼らが拳銃を直ちに抜くのを見た。保安官はそのとき右手に杖を持っていた。彼は手を上げて話していた。・・・そのときまでにビリー・クラントンとアイワット・アープが彼らの銃を撃った。・・・」

 親カウボーイのシナリオと違って、親アープのシナリオは一応筋が通っているように見えるが、疑問はある。

 一つは、クラントン&マクローリー側はフランクとビリーしか拳銃を持っていなかった。アープたちは知らなかったかもしれないが、フランクもビリーも当然それを知っていた。それで四人を相手にして、しかもその一人は散弾銃を持っているのに、撃ち合いをする気になるだろうか?

 もう一つは、アープたちは「決闘」(duel)をしに来たのではなく、クラントンたちの武装解除に来た。例え本当にビーハンがアープたちに「彼らを武装解除した」と言ったとして、そしてアープたちがそれを信じで拳銃を収めたとしても、フランクとビリーが拳銃を携帯しているのを見たのに、相手が拳銃を抜くのを待ってから自分の拳銃を抜くようなことをするだろうか?

 ワイアット・アープの言ったことは、ある意味自己矛盾である。「(相手が武器を持っていると考えたので)武器を手にしていたが、ビーハンの言葉で相手が武器を持っていないと信じたので武器をポケットに入れた」にもかかわらず、「(相手が武器を持っているのを見て確認したのに)相手が銃を抜くまで抜く動作をしなかった。」本当は、相手が武器を持っているのを見たら、その時点で銃を取り出したのではないか?

 ワイアット・アープとヴァージル・アープの証言は、全面的には信用できない。


§ シルズの証言について

 H.F. シルズは次のように証言した:

(Q) 1881年10月26日に彼が聞いた脅しについて問われる
(A) 私は四、五人の者がO.K.コラールの前面に立っているのを見た、彼らがヴァージル・アープと持った何か揉め事について話していた、そしてその時彼らは脅しをした、即ち、彼らは彼に会ったら彼を殺すだろうと言った。その一団の誰かがその時大声で話し、彼らはアープの一団に会ったら彼ら全体を殺すだろうと言った。次いで私は通りを(東へ)歩き、ヴァージル・アープとアープたちは誰か知りたいと聞いた。路上のある人がヴァージル・アープを私に指し示し、彼は市保安官だと言った。私はそこへ行って、彼を一方の側に呼び、彼に私が立ち聞きした、この一団がした脅しを話した。彼らの一人はそのとき頭に包帯をしていた、そして葬儀の日に彼はアイザック・クラントンであると教えられた。私は彼をその一団の一人と認識した。

(Q) 撃ち合いについて質問される
(A) 私が保安官に話した数分後、私はある一団が四番通りを下り始めたのを見た。私は彼らについて郵便局まで下った。次いで私は、それらの脅しをしているのを私が聞いた一団が視野に入った。私は揉め事があるだろうと考え、そして通りを横切った。私は保安官と一団が行って、他の一団に話すのを聞いた。私は会話が聞こえるほど近くはなかったが、彼らが直ちに拳銃を抜くのを見た。保安官はその時杖を彼の右手に持っていた。彼は手を上げて話した。しかしながら、私は言葉を聞かなかった。そのときまでに、ビリー・クラントンとワイアット・アープが彼らの銃を撃ち、保安官は杖を片手から他方の手に変え、拳銃を抜いた。彼はその時撃たれたようで倒れた。彼は直ちに起き、撃ち始めた。銃撃はそのとき全面的になり、(私は)コートハウスの脇のある玄関に後退した。

(Q) 君はどのようにしてビリー・クラントンを知ったか?
(A) 私は彼が死んだ後で見た、そして彼がワイアット・アープに向けて撃った者だと認識した。

 シルズの主尋問に対する証言はこれだけである。そしてこれはアープ側が必要とするものの全てでもある。即ち、

・クラントンたちは、アープたちを殺すと脅していた。これはアープ側がクラントンたちの武装解除に行き、その後の行動が自衛の行動であったことを立証する。
・ビリー・クラントンとワイアット・アープが最初に撃った。それはワイアット・アープの証言の正しさを示し、クラントン側が先に銃を抜く動きをしたというワイアットの証言を傍証する。

 告訴側は反対尋問でシルズが何者なのか、以前にアープたちとの関わりがなかったか詮索したが、彼の尻尾をつかまえることはできなかった。

 シルズの証言は、既に「製錬された」もので、弁護側にとって必要な情報だけで構成されている。もし実際に彼がこれらを目撃したならば、彼の目にはもっと多くのものが入って来たはずであるが。

 では、シルズの証言に信憑性はあるのか?

 アレン通りのO.K.コラールの入口付近でクラントンたちを見たのはシルズ一人ではない。しかし、他の証言者は、彼らがO.K.コラールの前面で止まって話をしたのを見ても聞いてもいない。

 コールマンによれば、彼らはその前に通りの反対側のダンバーのコラールで話をしていて、O.K.コラールの前では止まらずに通過して行った。コールマンはビリー・クラントンが馬に乗り、フランク・マクローリーは馬を曳いていたと証言したが、シルズは馬を見なかったと言った。

 マーサ・キングは、マクローリー兄弟を「異様に目立つ服装」と言っていたが、シルズは彼らの服装について何の記憶もなかった。

 シルズの証言で、クラントンたちがヴァージル・アープの名だけを出していたというのも奇妙である。確かにアイクを拳銃で殴ったのはヴァージルであったが、前夜アイクが口論していたのはホリディとであり、ウォレス判事の裁判所でアイクが口論したのはワイアットとモーガンとであった。トムを殴り、銃器店の前でフランクに苦言を言ったのはワイアットであった。それなのにシルズの証言では、ヴァージルの名が出て、そしてヴァージルの名だけを聞いたので、彼はヴァージル保安官を捜しに行くことができた。

 シルズがガンファイトを見たのは、数十メートル離れた位置であった。空き地に入ったヴァージルがフライの建物やワイアットの陰に入らずに見ることが本当にできたのか疑問である。

 シルズは、ビリー・クラントンを死後に見て、彼が最初に撃った一人だと識別したと言った。しかし、どうやってワイアット・アープを識別したのかは、問われていない。ヴァージル、ワイアット、モーガンは背丈姿形が似ていて、よく知っている人でも遠目に見分けるのは難しい。しかもシルズから見て背を向けていたワイアットをどうやって識別できたのか?

 シルズによれば、彼が目撃の件を最初に話したのはジェームズ・アープに対してであった。(何日であったかは不明。)つまり、アープ側あるいは弁護側と接触する前に彼が何を知っていたかを確かめることはできない。

 どうみてもシルズは「作られた」証人である。




O.K.牧場の決闘 - 親カウボーイの証言 [ワイルドウエスト]

O.K.コラール近くのガンファイト――親カウボーイの証言

 1881年10月26日の午後、トゥームストーンの街は異様な興奮に包まれていた。拳銃を腰に差し、ライフル銃を手に持って「アープたちとドク・ホリディが通りに姿を現したら舞踏会が始まる」と言触らして回ったアイク・クラントンの言動と、一部市民の過剰反応とによって、実際の関与者が(昼過ぎに)目を覚まし、あるいは町に来る前に、市民たちは、「アープたちとカウボーイたちの間でガンファイトが起きる」と予想していた。多数の市民が通りに出て、それがいつ起きるか、彼らの動向を注視していた。
そしてガンファイトが起きた。

§クラントン&マクローリーは何をしていたか?

 アープ裁判で、ワイアットとヴァージルは繰り返し、カウボーイたちによる「アープたちを殺す」という脅しに言及している。

 10月26日の朝からヴァージル・アープによって逮捕され、ウォレス判事の裁判所で罰金を払わされるまで、アイク・クラントンが武器を持って町中でアープたちと闘うと騒いでいたことは確かであった。アープたちが昼過ぎに起きて通りに出てからヴァージルが彼らの武装解除に行くことを決意するまでの間にも、カウボーイたちがアープたちを脅そうとしているという知らせが市民から何度も届いていた。
しかし、フランク・マクローリーとビリー・クラントンが町に乗り入れた後、彼らが実際に何をしていたのかについては余り書かれていない。アープ裁判の証言をもとに彼らの跡を追うと、次のようになる。

〇トムは拳銃をサルーンに預ける
 四番通りとフレーモント通りの南西の角にあったキャピタル・サルーンの経営者アンドリュー・メーハン(Andrew Mehan)は、トム・マクローリーが1時と2時の間に、キャピタル・サルーンに彼の拳銃を預けた、その拳銃は今でもサルーンの金庫に入っている、と証言した。
 多くの資料はこれを次の「ワイアットによるトムへの拳銃殴打」の後に置くが、その前であったと思う。トムは、キャピタル・サルーンで、アイクが武器の不法所持で逮捕されたことを知り、アイクの様子を知るためにウォレス判事の裁判所に行こうとしていた。武器を不法所持してそこへ行くのは賢明ではない。

〇ワイアットによるトムへの拳銃殴打
 アイクが罰金を払ってウォレス判事の裁判所から去った後、裁判所の近くでワイアットとトム・マクローリーが行き合った。
ワイアット・アープの証言では、

 「私は次いで司法事務所近くの裁判所の外に歩き出て、トム・マクローリーに会った。彼は私のところに来て、「もし君が闘いを望むなら、私は君とどこででも闘うぞ。」("If you want to make a fight I will make a fight with you anywhere.")と言った。私はその時、彼はアイク・クラントンと私の間で交わされたことを聞いたと推測した。私は彼が私を脅してきたことを知っており、そして丁度アイク・クラントンについてと同様に、もし闘わねばならないならは、私が自衛のために対等な機会にするのが望ましいと感じた。それで私は彼に「よろしい、ここで闘おう!」("All right, make a fight right here!")と言った。そして同時に私の左手で彼の顔を平手打ちし、右手で拳銃を抜いた。彼は彼のズボンの右腰に拳銃をはっきり見せていた(in plain sight)が、それを抜く動きをしなかった。私は彼に「銃を取って使え」("Jerk your gun and use it!") と言った。彼は返事をせず、私は彼の頭を六連発銃で打って、ハフォードの角に向けて歩き去った。私はハフォードに入り葉巻を手に入れて出てドアの側に立った。」

 しかし、この出会いの目撃者たち、トゥームストーンの肉屋A. バウアー(Apollinar Bauer)、地元商店の会計係J.H. バッチャー(Batcher)、地元の大工トーマス・キーフ(Thomas Keefe)の証言はワイアットとは違っていた。
バウアーによれば:

 「私とハイネス氏は共にトム・マクローリーがウォレスの裁判所から来るのを、そしてアープ氏とマクローリーが対面して非常に接近して歩いているのを見た。ハイネス氏と私は止まってアープ氏とトム・マクローリーを見た。彼らは共に互いに何かを言っていたが、私はそれを理解しなかった。私がウォレスの裁判所へ行くために彼ら二人を通り去ろうとした瞬間、アープ氏は彼の左手あるいは拳を上げ、トム・マクローリーの顔を打った。トムは両手を彼のズボンのポケットに入れていた。アープ氏は、「君は武器を持っているかいないか?」("Are you heeled or not?")と言った。トム・マクローリーは「いや、私は武器を持っていない。私は誰とも諍い持っていない」("No, I am not heeled. I have got nothing to do with anybody.")と返事した。トム・マクローリーは彼の両手をポケットから出して殴打を避けようとした。トム・マクローリーはアープ氏から離れるように歩道から通りへ後退した。アープ氏は彼について行き、彼のコートのポケットから右手で銃を抜き、彼の肩と頭を拳銃で殴った。マクローリーは通りの大体中央に倒れた。彼は右側から倒れ、左手で彼の左耳を覆った。私がちょっと周囲を見回したとき、ある老齢の紳士がトム・マクローリーを抱き、彼を四番通りに沿って導き、アレン通りを横切り先のフレーモント通りへ行った。アープ氏は二回あるいは三回、あるいは四回かもしれないが彼の拳銃でトム・マクローリーを殴った。アープ氏がトム・マクローリーを倒して去るとき、彼は「私はあのson-of-a-bitchを殺すことができた」と言った。トム・マクローリーは打たれたとき目を恐ろしげに大きく開き、ふらふらとして震えていた。」

J.H. バッチャーは、トムの最初の言葉を次のように聞いたと証言した:

 「ワイアット・アープはトム・マクローリーに何か言った。・・・トム・マクローリーは彼に対して、彼(トム)は彼に対して敵意を持ったことはなかった、そして彼の友人である。・・・そして、彼(ワイアット)が闘いを望むならばいつでも、彼(トム)は彼とともに闘う。(whenever he wanted to fight, he was with him)彼がそう言ったとき、ワイアットは拳銃を抜いて・・・」

 最初の会話は分らないが、外から見ている限り、ワイアットが一方的に無抵抗なトムを攻撃したように見える。ワイアットは「彼のズボンの右腰に拳銃をはっきり見せていた」というが、バウアーはワイアットが、「君は武器を持っているかいないか?」と問うのを聞いた。拳銃がはっきり見えていたらこんな聞き方はしないはずである。バウアーを含めて他の目撃者、J.H. バッチャー(Batcher)、トーマス・キーフ(Thomas Keefe)の誰もトムが「はっきり見せて」武器を持っているのを見ていない。
 バウアーによれば、この後トムは、ある老紳士に付き添われて、四番通りをフレーモント通りの方へ歩いて行った。

〇フランク・マクローリーとビリー・クラントンがトゥームストーンに来る
 後にマクローリー兄弟の兄ウィリアム・マクローリーが語ったことによれば、マクローリー兄弟がこのときトゥームストーンに来た理由は、暫くコチーズ郡を離れるので商売上の整理、すなわち家畜の処分と代金の回収、債務返済のためであったとされている。彼らは、テキサス州フォートワースで弁護士をしているウィリアムを訪ね、そこから彼の家族と共に、妹の結婚式に出席するため、故郷のアイオワ州に行くことになっていた。ガンファイトの後、死亡したトムの遺体には三千ドル相当の現金、小切手その他の債券が発見された。

 マクローリー兄弟の隣人の牧場主J.R. フリンク(John Randolph Frink)は、トゥームストーンで600頭の肉牛の取引の約束を得ていた。
26日、フランク・マクローリーとビリー・クラントンおよびフリンクは、午前中ラウンドアップ(放牧した家畜の駆り集め)をした後、三人で馬に乗ってトゥームストーンに来た。彼らはまず一杯やるためにグランドホテルに入った。

 グランドホテルに入ったフランクに、トムがワイアットに殴られた件を話したのは、自称無職の賭博師ウィリアム・アレンであった。

 「私はその日、グランドホテルのすぐ近くで、フランク・マクローリーたちが乗り入れたとき、彼を最初に見た。フランク・マクローリー、ビリー・クラントン、そして私が知らない老齢の紳士(フリンク)であった。これは午後2時頃であった。最初、ドク・ホリディが出てきて彼らの一人(ビリー・クラントン)と握手し、”How are you?” あるいはその種の何かを言った。ホリディはそこで彼らを去り、フランク・マクローリー、ビリー・クラントンと老齢の人はグランドホテルに入って行った。・・・私は通りを横切り、彼らの方へ行った。彼らは一杯やろうとしていた、そして私に加わるように聞いた。私はフランクを脇に呼んで、何が起きているか知っているか聞いた。
・・・
 私が聞いたこと、即ちトム・マクローリーがワイアット・アープによって頭を殴打されたことを彼らに話した後、フランクは『何で彼はトムを殴打したのか?』と言った。私は知らないと言った。彼は、『我々は飲まない』と言った、それが、私が彼から聞いた最後の言葉であった。彼らは馬に乗って行った。その前に彼は言った、『私は彼らを町から出すつもりだ。』彼がこれを言ったとき、グラスがカウンターに置かれていた。彼らは飲まなかった。」

〇銃器店へ行く
 フランク・マクローリーとビリー・クラントンは四番通りの銃器店に入って行った。アイクによれば、銃器店にはアイクが先にいた。

 「私は町にいる時にはほとんど毎日銃器店に行った。私はそこへ行き拳銃を頼んだ、そして彼は私にそれを持たせようとしなかった。店を運営している紳士は、私の頭が血を流している、私が揉め事を持っていると言い、彼は私にそれを持たせないと言った。・・・ ・・・ 私は銃器店にいた。ウィリアム・クラントンは私の後にそこに来た。私は彼が店に入ったかどうか知らなかった。トム・マクローリーがそこにいなかったことは確かだ。フランク・マクローリーは店に入って来てトムは何処かと聞いた。」

フランクとビリーはカートリッジ(弾薬)を購入し、ガンベルトに詰めた。彼らが銃器店に入るのを見たワイアットは様子を見に行った。ワイアットの証言では:

 「・・・その後すぐに、私はトム・マクローリー、フランク・マクローリーとウィリアム・クラントンが私を通り過ぎて四番通りを銃器店へ行くのを見た。私は彼らが何をしようとしているのか見るために、彼らについて行った。私がそこに着いたとき、フランク・マクローリーの馬が歩道の上に立って頭を銃器店のドアの内に入れていた。私は馬の馬勒を取り、というのは、私は保安官代理であったので、馬を歩道から降ろし始めた。トムとフランクとビリー・クラントンがドアから来た。ビリー・クラントンは彼の手を六連発銃に乗せていた。フランク・マクローリーは馬の馬勒を取り、私は、『君はこの馬を歩道から出すべきだ』と言った。彼は馬を下げて通りに入れた。アイク・クラントンは大体この時やって来て、皆銃器店に入った。私は彼らが銃器店でカートリッジをベルトに詰めているのを見た。彼らは店から出て、四番街に沿ってアレン街の角へ歩いた。私は四番街とアレン街の角まで彼らについて行った。彼らはアレン街を歩いてダンバーのコラールまで行った。」

 アイクによれば、トム・マクローリーがいたとワイアットが言ったのは見間違いであった。

〇O.K.コラールに入って行く
 銃器店を出たアイク、ビリー・クラントンとフランクにビリー・クレイボーンが合流した。クレイボーンによれば、

「私はフランク・マクローリーとビリー・クラントンに会った。私は彼らを良く知っていた、そして、私は彼らを知っていて彼らと話をするという単純な理由で彼らとともにいた。私は彼らとブラウンのホテル(ハフォードのサルーンの二階)近く、四番通りとアレン通りの南東の角で彼らと会った。私はビリー・クラントンとジョニー・ビーハンのコラール(※ダンバー&ビーハンのコラール)に行き、そこで我々はベンソンのコラール(O.K. コラール)を通った。我々はそこから揉め事の起きたところへ行き、それが起きるまでそこにいた。」

 鉱夫 R.F. コールマンは彼らがダンバーのコラールで話し合っているのを見たが、内容は聞かなかった。その後彼らはアレン通りを横切って北側のO.K.コラールに入って行った。

 「・・・その少し後に私はO.K.コラールの前にいたが、二人のクラントンとマクローリーがダンバーのコラールの中の馬屋に立って話をしていた、数分のうちに彼らは出てきて通りを横切り、O.K.コラールに入った。ビリー・クラントンは彼の馬に乗っていて、フランク・マクローリーは彼の馬を曳いていた。彼らが通ったときビリー・クラントンは私に言った、「ウエストエンド・コラールはどこにありますか。」私は彼にそれが何処にあるか話し、彼らはコラールの中に入って行き、私はアレン通りに行った。そのときヘッドクォーター・サルーンの反対側でビーハン郡保安官に会い、彼に彼らを武装解除に行くべきだ、彼らは悪さをしようとしていると思うと話した。私は間もなくアープ保安官に会い、彼に同じことを話した。次いで私はアレン通りを再度歩いて下り、O.K.コラールを通り抜け、そこで私はクラントンたちとマクローリーたちがビーハン郡保安官と話しているのを見た。・・・」

〇トムはエヴァーハーディの肉屋に行く
 事の前後関係は不明だが、トム・マクローリーはアレン通りにあったエヴァーハーディの肉屋に入り、出てから四番通りとの角の方向へ行くのがコスモポリタンホテルの所有者ビリッキーと軍医ジョン・ガーディナーに目撃された。彼らはエヴァーハーディの店からアレン通りを隔てたほぼ反対側にあったコスモポリタンホテルの前からトムを目撃した。

 「(私は)トム・マクローリーを見たことがあった、そして10月26日に彼を最後に見た、アレン通りの南側を歩き下り、エヴァーハーディの肉屋に入り、すぐに再び出てきて、通りを数歩下り、アレン通りを斜めに四番通りの角に横断した。これは二時頃であった。
(Q) 彼が肉屋の店に入って行ったときと彼が出てきた時との間で、何か変化があったか観察したか、何か武器の所持に関して述べよ。
(A) 私は彼が肉屋の店に入った時も出てきたときも、彼に武器を見なかった。
(Q) 彼が入ったときの外見はどうであり、彼が出てきた時の外見はどうであったか、隠された武器の所持に関して?
(A) 彼が肉屋の店に入ったとき彼のズボンの右側のポケットは平らで何も入っていないように見えた。彼が出てきた時、彼のズボンのポケットは突き出ていた、あたかもその中に回転式拳銃があるかのように(as if there was a revolver therein)。」

 弁護側がこのような問答をしたのは、ガンファイトのときにトムが拳銃を持っていた可能性を主張するためであった。告訴側は、彼が何故そのように注意深く見ていたのか尋問した。

 「闘争が起きた日、全ての善良な市民は、これらのカウボーイたち全てを非常に注意深く見ていた、そして彼が通りを下っているとき、私の関心はある友人(ガーディナー)によってこのマクローリーに向けられ、そして私は彼を非常に注意深く見ることになった。」

 告訴側は、エヴァーハーディの肉屋の店員アーネスト・ストームス(Earnest Storms)に、トムが店に入ったとき武器を持っていず、店で武器を手に入れたこともないと証言させた。

〇フランクとトムはバウアーの肉屋の前で立ち話をする
 フレーモント通りのユニオン・マーケット(バウアーの肉屋)のバウアーとの共同事業者ジェイムズ・キーオ(James Kehoe)の証言によれば、キーオは店の前でフランクとトム・マクローリーと話をしていた。

 「我々、彼と彼の兄弟は、私が属している商会のある金について誤解があった。フランクは我々の商会に債務を負っていた、そして私は我々の店の前に立っていて、フランクおよびトム・マクローリーと話をしていた。」

 店に来ていた家政婦マーサ・キングによればこのとき馬が二頭いた。

 「・・・異常に目立つ男たちが肉屋近くの歩道に二頭の馬とともに立っているのを見た。私は店に入った。中の人々は非常に興奮していた。私に応対するようには見えなかった。私はどうなっているのか尋ね、彼らはアープたちとカウボーイたちの間に騒ぎが起きようとしていると言った。・・・」
 ということは、トム・マクローリーはこの時からビリー・クラントンの馬とされている馬を連れていたことになる。

〇馬車の用意をする
 アイク・クラントンによれば、ビリー・クラントンはアイクに会ったとき、アイクに町を出るように頼んだ。彼らは馬車を預けたウエストエンド・コラールに馬車を用意するように依頼した。彼らがフライの貸間屋&写真館の西の空き地にいたのは、馬車の用意が出来るのを待っていたのだという。

 「・・・私はドク・ホリディに会うために留まった。彼らが次にしたことは、ヴァーグとモーグが私に忍び寄り武装解除したことであった。その少し後、私は弟に会った。彼は私に町を出るように頼んだ。丁度その時私は我々の馬車馬を持っている者に会った。私はそれらに馬具をつけるように話した。私は弟が残したあるものを取りに行った。次いで我々は馬車馬がいるところへ行った。そこで郡保安官と会った。・・・」

〇ビーハン郡保安官は肉屋の前でフランクに武装解除すると話した
 クラントン&マクローリーを捜し始めたビーハンは、フレーモント通りでフランクを見つけた。

 「・・・次いで私は四番通りを下りフレーモント通りの角に行った。そして私はそこで馬を持って誰かと話をしているフランク・マクローリーに会った。私は彼に挨拶した。私はマクローリーに彼を武装解除するつもりだと話した、というのは町に揉め事が起りそうで私は町で武器を持っている誰をも武装解除するつもりであった。彼は、揉め事をする気はないが、武器を手放す気はないと言った。私は彼に、彼は拳銃を手放すことになる、皆同じだと話した。大体その時、私はアイク・クラントンとトム・マクローリーを、通りを下ったフライの写真館の先に見た。・・・」

 ビーハンが来たときには店の前にいたのはフランク一人であった。

〇ビーハンは空き地でラントン&マクローリーに武装解除すると話した
 空き地でビーハンがクラントン&マクローリーに武装解除して逮捕すると言った。

 「私がそこに着いたとき、私はアイク・クラントン、トム・マクローリー、ウィリアムウ・クラントンとウィリアム・クレイボーンがそこにいるのを見つけた。フランク・マクローリーは私と共に行った。私は彼らに言った、『君たちは武器を手放さなければならない。』フランク・マクローリーは返事を渋った。彼は最初に武装解除されたくないようであった。アイク・クラントンは私に、彼は何も持っていない、彼は武器を持っていないと話した。私は彼の腰に手を置き、彼が持っているか調べた。私は彼が武器を持っていないことを知った。トム・マクローリーは彼のコートを引いて開き彼が武器を持っていないことを私に示した。私はそこに五人が立っているのを見た。私は彼らに彼らの一行は何人なのか聞いた。彼らは『四人』と言った。クレイボーンは、彼は一行の一人ではなく、彼ら一行が町を去るのを望んでいると言った。次いで私は彼らに言った、『諸君、君たちは郡保安官事務所に行き、君たちの武器を置き、そして私が戻るまでそこに留まっていなければならない。』私は彼らに、他の一行を武装解除するつもりだと話した。
 その時私は、アープ兄弟とホリディがフレーモント通りの南側の歩道をやって来るのを見た。彼らは郵便局とバウアーの店の間にいた。・・・私はクラントンたちに言った、『ここで待て。私は彼らがやってくるのを見た。私は行って彼らを止めるつもりだ。』・・・」

 アイク・クラントンは次のように証言した:

 「私とマクローリー兄弟とウィリアム・クラントンとビリー・クレイボーンと言う名の若者は、空き地に立っていて話をしていた、フレーモント通りの写真館と次の建物との間で。ジョニー・ビーハン郡保安官がやってきて我々に、我々を逮捕して武装解除すると話した。
 私は郡保安官に『何のために?』と言った。郡保安官は私に話した、『治安を保つためだ。』私しは彼に、私は武器を持っていないと話した。次いでウィリアム・クラントンは彼に、彼は丁度町を去ろうとしているところだと話した。郡保安官は、もし彼が町を去ろうとしているならば『宜しい(all right)』と言った。彼は次いでフランクとトム・マクローリーに、彼は彼らの武器を取り上げなければならないと言った、トム・マクローリーは、何も持っていないと彼に話した。フランク・マクローリーは、彼は町を出るつもりだが、彼の弟を殴打した一団が武装解除されるまで武器を放棄することを望まないと言った。郡保安官は彼に、彼はそうしなければならない、そして彼の武器を彼の、郡保安官の事務所に持って行き、それらをそこに置いておくと話した。次いでフランク・マクローリーは、町でしたいと思っている商用があるが、彼はアープたちが武装解除されない限り、武器を置かずに商用に行くと言った。次いで郡保安官は私に彼の腕を置き、私が武器を持っているか調べた。トム・マクローリーは郡保安官に言った、『私も武器を持っていない。』そして、コートの襟をつかんで、このように[証人はどのようにしたか示す]それを開いた。郡保安官はフレーモント通りを見て、彼が戻るまで我々にそこに留まるように命じた。」 

 これが、ガンファイトが始まる前の、クラントン&マクローリーの言動に言及した、主に「親カウボーイ」による証言の要約である。
 彼らの証言によれば、フランク・マクローリーとビリー・クラントンが町に来てアイクと合流した以降、彼らはアープ達と闘う意思はなかった。彼らは、町の不穏な雰囲気を感じて、出来るだけ速やかに商用を済ませて町を退散しようとしていたと言える。

〇H.F. シルズの証言
 ワイアットが証言でトムに言わせた言葉を除くと、クラントンたちがアープたちに対する脅しをしていたと証言したのは、H.F. シルズ一人である。

 「私は四、五人の者がO.K.コラールの前面に立っているのを見た、彼らがヴァージル・アープと持った何か揉め事について話していた、そしてその時彼らは脅しをした、即ち、彼らは彼に会ったら彼を殺すだろうと言った。その一団の誰かがその時大声で話し、彼らはアープの一団に会ったら彼ら全員を殺すだろうと言った。次いで私は通りを(東へ)歩き、ヴァージル・アープとアープたちは誰か知りたいと聞いた。路上のある人がヴァージル・アープを私に指し示し、彼は市保安官だと言った。私はそこへ行って、彼を一方の側に呼び、彼に私が立ち聞きした、この一団がした脅しを話した。彼らの一人はそのとき頭に包帯をしていた、そして葬儀の日に彼はアイザック・クラントンであると教えられた。私は彼をその一団の一人と認識した。」

 シルズは謎の人物とされている。シルズは、本人によれば、アチソン・トピーカ&サンタフェ鉄道の従業員であったが、休暇で10月25日、すなわちガンファイトの前日にトゥームストーンに来ていた。彼は関与者の誰も知らなかった。

 シルズの証言は明らかにコールマンの証言と矛盾し、どちらかが嘘を言っている(どちらも嘘を言っている場合もあり得るが)。多くくの論者は彼の証言に疑惑を持っている。にもかかわらず否定する材料がないとして、コールマンではなくシルズの証言を採用している。




ビリー・ブレッケンリッジの「ヘルドラド」 [ワイルドウエスト]

ビリー・ブレッケンリッジの「ヘルドラド」

 ビリー・ブレッケンリッジ (William Milton ‘Billy’ Breakenridge, 1846.12.25-1931.01.31)は、映画「トゥームストーン」(1993)で、軟弱な人物に描かれているが、実際のブレッケンリッジに対する一般的な評価は、「トゥームストーンでかつて仕えた最も丁重で控え目な治安維持官(most cordial and modest peace officer)」であった。彼は銃を最後の手段としてのみ使用したが、必要な場合には、素早く精確に使用した。

 ビリー・ブレッケンリッジは1846年12月25日ウィスコンシン州ウォータータウンに生まれた。14歳まで地元の学校に通った後、列車の中の新聞売りとして働いた。
 南北戦争中の1862年冬(15歳)に家を飛び出してミズーリ州ローラで軍需品部門の輸送隊の手伝いをした。その後、兄のいるコロラド準州デンヴァーで臨時雇いの荷馬車による物資輸送、家畜の管理、準州議会における議員奉仕係(page)などをした。
 1864年、対インディアン作戦のために百日間徴用で新たに編成された第三コロラド騎兵連隊に入隊して伝令として仕えた。この部隊はチヴィントン大佐に率いられて1864年11月29日、サンドクリークのインディアンの村を襲撃した(「サンドクリークの虐殺」)。
 1864年末に除隊後、コロラド北部、ネブラスカ、ワイオミングの境界を流れるプラット川流域で、荷馬車による物資輸送、家畜の管理、車掌などをした。1869年コロラド準州キットカーソンを訪れたとき、保安官トーマス・スミス(後にアビリーンの保安官となり、 “No Gun Marshal”と呼ばれた、1830-1870)と面識を得て、感銘を受けた。
 1870年春、デンヴァー&リオグランデ鉄道に、最初枕木材伐採の樵として雇われ、後に測量の手伝いをして測量を習い、測量技師として働いた。

 こうした辺境地での暮らしの中でブレッケンリッジは、荒野で生きる術、家畜の扱い、追跡術、インディアンの習性、銃器の扱いなどフロンティアマンとしての技量を修得していた。彼は最後の手段として、相手が撃ってきたとき以外には使わなかったが、銃の名手であった。

 1876年、アリゾナへの移住集団にガイドとして雇われ、トリニダド(コロラド)からアルバカーキ(ニューメキシコ)を経由してアリゾナ準州プレスコットに旅した。そのままアリゾナに留まり、フェニックスで荷馬車による物資輸送などに従事し、ブロードウェイ(Broadway)郡保安官の下で代理(deputy)に任命された。
 1879年末、多くの者たちと同様に銀に惹き寄せられてトゥームストーン周辺で探鉱をしたが成功しなかった。その後トゥームストーンに留まり1880年秋まで鉱山施設への木材輸送などをしていた。
 1881年1月、ジョン・ビーハン(John Behan)がコチーズ郡保安官に任命されると、ビーハンはブレッケンリッジを代理(の一人)に指名した。上司のビーハンと同様に、ブレッケンリッジは「カウボーイズ」とある程度折り合いをつけながら法を執行した。
 1881年10月26日の「O.K.コラール近くのガンファイト」当日には、彼は別の犯罪捜査でトゥームストーンには不在であった。
 1882年3月末の、モーガン・アープ暗殺に続くアープ隊とビーハンの追跡隊との「追いかけっこ」には加わらなかった。同じころに起きた鉱山会社強盗殺人犯人追跡中の3月26日、撃ち合いとなり、ブレッケンリッジの治安維持官としての経歴の中で唯一相手の一人を射殺した。

 コチーズ郡保安官代理の地位を去った後、ブレッケンリッジは一時牧場を経営し、その後1884年春、H.C. フッカー(Henry Clay Hooker)のシエラボニータ牧場(Sierra Bonita Ranch)で働いた。
 1886年、W.K. ミード (William Kidder Meade)がアリゾナの連邦保安官になると、彼はブレッケンリッジをフェニックスでの代理に指名した。同年9月、アパッチのジェロニモが最終的にマイルズ将軍に降伏したとき、ミードの指示でブレッケンリッジは逮捕状を持って軍にジェロニモ等の引き渡しを要求したが、軍に拒否された。
 1888年マリコパ郡の選挙でブレッケンリッジは郡の測量技師に選ばれた。1889年、ソルト川とヴェルデ川の流域でダムを建設するのに適した地の調査を行い、ソルト川とトント川の合流点近くの地点を選定した。彼の報告書は却下されたが、1911年、彼が選定したのと同じ地点にルーズヴェルト・ダムが完成した。
 連邦保安官代理の任期を終えた後、1892年、ブレッケンリッジはサザンパシフィック鉄道にスペシャルオフィサーとして雇われ、鉄道犯罪(主に列車強盗)の犯人追跡・逮捕に携わった。
 1903年、年齢を感じるようになったブレッケンリッジは、同じ鉄道会社のクレームエージェント(苦情処理担当)となり、1918年、72歳で引退した。

 ブレッケンリッジはトゥーソンで引退生活を送り、昔の話を語るのを好んだ。タイプライタを習得し、友人たちの勧めもあって、回想録を書いた。それは1928年、”Helldorado, Bringing the Law to the Mesquite” の表題で出版された。ワイアット・アープと彼の妻ジョセフィン・マーカスは、この本のアープに関する記述に憤慨して「大部分事実よりもフィクションに基づいている」と批判した。この本は世間的には好評を博した。トゥームスーン市は、この本に着想を得て、1929年から毎年”Helldorado Days”の催しを始め、それは今日まで続いている。

 Helldoradoとは、Hell(地獄)とDorado(黄金郷)の造語と思われるが、Wikipediaによると、当時のある鉱夫がナゲット紙に投稿した文中でトゥームストーンにつけた綽名という。

 ブレッケンリッジは第二作を構想していたが、それを果たす前に1931年1月31日に85歳で世を去った。ブレッケンリッジの墓はトゥーソンにあるが、その墓石には、彼の名が “BRECKENRIDGE” と、恐らく発音に従って誤って刻まれている。



友寄英隆著 『アベノミクスと日本資本主義 差し迫る「日本経済の崖」』 [読書感想]

『アベノミクスと日本資本主義 差し迫る「日本経済の崖」』
友寄英隆 著  新日本出版社 刊  2014.06.20初版発行

反アベノミクスの本である。
アベノミクスの経済政策を、現代資本主義の経済理論の混迷状態の表れと見る。
第1の矢:通貨・金融政策・・・・ニューケインジアン的な通貨・金融政策(インフレ目標)
第2の矢:財政政策・・・・オールドケインジアン的なスペンディング政策(公共事業政策)
第3の矢:成長政策(ミクロ政策)・・・・「新自由主義」的な「グローバル企業成長」政策(「規制緩和」と「構造改革」)
第4の矢:税制政策(消費税増税)・・・・「新自由主義」的な国民収奪政策(逆進的税制)
第5の矢:社会保障政策・・・・「福祉政策」縮滅による“反所得分配”政策

【構成】
第Ⅰ部 アベノミクスと日本経済の二極化
第1章 アベノミクスの全体構造
第2章 アベノミクスで二極化する日本経済
第3章 「成長戦略」と「新自由主義路線」
第4章 安倍政権のもとで、差し迫る「日本経済の崖」

第Ⅱ部 世界と日本の資本主義――現状と変革の課題
第5章 世界資本主義の現局面をどう見るか
第6章 日本資本主義の現段階をどう見るか
第7章 日本経済再生のために何が必要か――「成長戦略」に代わる「長期経済計画」の策定を

〈補論〉多国籍企業と国民経済

【考察】
1.この本の中で特に現状の問題で重要と思われるところ:

第Ⅱ部・第5章 (5) 世界金融危機後の資本主義の理論的・政策的な特徴――アベノミクスの背景
ニューケインジアンのインフレ・ターゲット論者(クルーグマンなど)は、
「――中央銀行が現在の通貨供給量を大胆に増大させ、それとともに、将来にわたって通貨供給量を大幅に増大するという約束をして、人々がその約束を信じて行動すれば、予想インフレ率が上昇することになる。そして、人々が予想インフレ率の上昇を見越して経済行動を行うようになれば、現在の家計の消費性向や投資意欲が高まり、デフレから脱却できる。」とする。
「予想(期待)」は、商品取引や金融商品の取引などにおける「先物取引」として発展している。そこでは「予想(期待)」が取引の前提であり、投機的投資に不可欠である。

※ 現代の「エコノミスト」は金融関係者がほとんどだから「予想(期待)」を常に口にするが、金融市場と実体経済には相違がある。実体経済の商品は生産され取引され消費される。しかし、現代の金融経済学は取引しか見ない。
実体経済では「家計は中期的にみて、収入以上の支出をすることはできない(したら破産する)」。また、「来年の食料を今年中に買っておこう」とする人もいない(そんなことしたら賞味期限を過ぎてしまう。)もしできたとしても、それは景気の波を作るだけである。即ち、今年は好況、来年は不況となる。

第Ⅱ部・第7章 (5) 「デフレ・不況」を脱却する「経済の好循環」のために
安倍内閣は・・・デフレを脱却して企業の利益が増えるようになったら、そのあとで賃上げが可能になるなどと慎重な構えである。
しかし、それは順序が違う。まず大企業が過去の儲けを蓄積した「内部留保」を活用して賃上げを先行させ、非正規雇用の正規雇用化などを先行させることが必要である。・・・大企業の賃上げと雇用安定の先行によって、日本経済をデフレから脱却させる突破口を切り開くことができる。そうすれば、企業の利益も増え、「経済の好循環」の道が開ける。

※ 国内経済に限って、資本主義を単純化すれば、家計が企業に労働を提供して、企業はその見返りに家計に賃金を払い、家計はその賃金で企業家ら商品を購入する。つまり、賃金を介して労働と商品が交換されている。企業が賃金を下げれば購入される商品も減る。これが「賃金デフレ」である。先ず企業が賃金を上げなければ、デフレは脱却できない。

〈補論〉多国籍企業と国民経済 (1) 「租税国家」の危機
各国とも「法人税引き下げ競争」に巻き込まれてきた。・・・「法人税率が高いと国際競争の上で不利になる」(国際競争力論)、あるいは「多国籍企業や大企業たちによるタックスヘイヴン(租税回避地)を利用した税金逃れが課題となる。」

※これも、「新自由主義」あるいは「(政治を伴わない)経済のグローバル化」の悪い面の表れである。各国が協調して、タックスヘイヴンを排除し、多国籍企業・大企業そして投機的金融取引に税をかけられるようにすべきなのだが、彼らが政治に強い影響力を働かせている現状では難しい。

2.アベノミクスの行方
私もアベノミクスには否定的だが、ある人が「悪法を悪法と知らしめる一つの方法は、一度それを厳密に実行することである」と言ったように、実行されているアベノミクスの結果はいずれ明らかになる。
安倍首相は
一年目には、結果(円安、株高)が(正しさを)示している、と言い、
二年目には、「途半ば」と言った。
アベノミクスの成否は、三年目に「家計の実質可処分所得」を増加に転じさせることができるかどうかにかかっている。アベノミクスの正の効果を受けている大企業や金融業界にとってこれは容易であろうが、負の効果を受けている輸入に依存する中小企業にできるであろうか?

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日銀による財政ファイナンスは「貨幣改鋳」と同じ [経済雑感]

日銀による財政ファイナンスは「貨幣改鋳」と同じ

 市中銀行が国債を購入し、その国債を日銀が市中銀行から購入するのは、法律的にどうであれ、その効果は日銀による国債の直接買い取りと変わりはない。
これは、パチンコで景品を間に置いて換金するのが、法律的にどうであれ、金銭ギャンブルであるのと同じである。

 財政ファイナンスされた国債は事実上償還されないのだから、政府による紙幣発行と何ら変わりはない。その効果は、「(金含有分を低下させる)貨幣改鋳」と同じで、貨幣価値の減価(depreciation)である。
 市中に存在する通貨の総量をPとし、財政ファイナンス(あるいは政府発行紙幣)による通貨の増加量をpとする。この時、通貨の総量がPから(P+p)に増加しても、総量の(対物)価値は変わらない。その結果単位当たりの通貨の価値はP/(P+p)だけ減価する。これは、実際には既存の通貨を持っている者からその量に応じて税を取っているのと同じである。

 もしPに比べてpが非常に小さければ(P>>p)、この減価の効果は明確には感じられない。その一方で、pを使って消費をすれば、いかにも景気が良くなったように見える。
 pが微小な時の偽りの効果に騙されてこれを大規模に行い、Pに比べてpが無視できない量になると物価高になり、漸く国が貧しくなっていることに気付く。しかし国のリソースは政府によって消費(浪費)されてしまっているので、元に戻すことは不可能である。その貧しくなった状態から再出発して努力しなければならない。



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ピラミッド建設と国債 [経済雑感]

ピラミッド建設と国債

§経済学的にみたピラミッド建設の三つの方法

 前提条件として、エジプトは豊かな国で、農民は半年働いて1年分の収穫を得ることができるものとする。

(1) エジプト王は、農閑期に農民に労働奉仕を命じる。農民は生活費自前でピラミッド建設に労働を提供する。

(2) エジプト王は、収穫の半分を税として徴収する。農閑期に徴収した税を賃金として支払い、ピラミッド建設に農民を労働者として雇う。農民は農閑期の暮らしを賃金で賄う。

(3) エジプト王は、国債を発行して農民に買ってもらう。国債発行で得た金を賃金として支払い、農閑期に農民を労働者として雇う。

 要は、エジプトにはピラミッドを建設する労働力(および知識・技能)が存在するのであるから、どのようにしてそれをピラミッド建設に結集するかにある。

(3)の場合、国債は償還されずに毎年毎年発行され、累積していく。しかし、日本のエコノミストによれば、
 1) 国債はほとんどすべて国内で保有され、海外で保有されていなから問題はない。あるいは、
 2) 国の負債の分だけ国民は預金を持っているのだから問題はない。

(3)の代わりに、エジプト王は貨幣を作ってそれを賃金として支払い、ピラミッド建設に農民を労働者として雇い、農民が得た貨幣を税として徴収しても同じである。農民は農業で得た収穫で一年間暮らしていけるので、賃金として受け取った貨幣を使う必要はないからである。


§日本の政府債務累積問題

 翻って日本の政府債務累積問題を考えると、古代エジプトと同様に日本経済は経常収支で赤字ではない、即ち支出に見合った以上の収入を得ているのであるから、国債発行で財政に費やされる費用を賄うだけの経済力を持っていることになる。
 
 それゆえ「国債を累積しても問題ない」のではなく、国債を発行せずに全て税収で財政を賄うことも可能であることを意味している。

 もし、毎年毎年100兆円の財政が本当に必要ならば、100兆円の税収を得るのが正しいやり方である。

 日本経済を、企業、家計、政府、海外に分けてそれぞれの収支をみると、政府の支出は約100兆円、収入は約50兆円で約50兆円の赤字。家計はやや黒字といわれるが、ほぼ±0、海外は経常収支でみて仮に約10兆円の赤字(海外からみて。日本から見れば黒字)とする。すると全体の収支は±0であるから、企業は約60兆円の黒字となる。この企業の黒字分から50兆円を税として徴収すれば、政府の収支は±0となる。

 このようにしても、日本経済に何の影響も与えない。もう一度同じ経済の経過をたどれば、同じように企業に60兆円の黒字が出る。(その50兆円をまた税として徴収する。)使われずに貯めている黒字分で内部留保を増すか(間接的に)国債を買う代わりに税として収めるだけである。

 財政の赤字分を企業から税で取れと言えば、経団連は当然反対するであろうが、「経済成長すればXX年に財政のプライマリーバランスがとれる」という場合、(そのようなことが本当に起こるかどうかは別として、)その時の「企業、家計、政府、海外」の収支はどうなっていると考えているのか?まさか家計を赤字にするわけにはいかないから、上と同様に経常黒字分だけが企業の黒字になっているはずだ。

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ニュートン -ハイドパークの銃撃戦- [ワイルドウエスト]

§ ニュートン -ハイドパークの銃撃戦-

 カンザス州ニュートンは、鉄道がニュートンに到来した1871年と、鉄道がウイチタに達した1872年の2シーズンだけ、主要な「牛の町」の1つであった。

 ニュートンは、二人の開拓者によって1871年3月に創設された。そこはウイチタの北約30マイル、アビリーンの南約60マイルにあった。サンタフェ鉄道がその地点を通るという噂を聞くと、入植者が集まった。7月17日、鉄道がその地点に達したときまでに、ホテル1軒、鍛冶屋1軒、そしてサルーン1軒が既に建てられていた。アビリーンの「牛の町」の創設者であり、当時アビリーンの市長であったジョセフ・マッコイ(Joseph McCoy)は、ニュートンに家畜置場を建設する監督をした。間もなく、27軒のサルーン、8軒の賭博ホール、10軒のダンスホールを持ち、「ハイドパーク」として知られる売春宿の地区が出来上がった。同様にホテル、レストラン、雑貨店などの基本的な施設が用意され、到来する牛の取引の関係者の需要を満たした。町は完全な無法状態であった。

 ニュートンの市民は、ウイチタ&サウスウエスタン鉄道の建設のための郡債券の発行に12,000ドルを援助する件の賛否について、1871年8月11日に投票することを計画した。このための臨時警官として、マイク・マクラスキー(Mike McCluskie)とビリー・ベイリー(Billy Bailey)が雇われた。

 マイク・マクラスキーはオハイオ州に生まれ、サンタフェ鉄道に夜警として雇われてカンザスに来ていた。彼はニュートンに来る少し前に、カンザスシティ鉄道のテキサス人A.R. フレンチによって強盗容疑で告発されたが、証拠不十分で無罪となっていた。
 ビリー・ベイリーはウィリアム・ウィルソン(William Wilson)としても知られるテキサス人で、これまでに3度の銃撃戦を経験し、少なくとも2人を殺したと言われていた。ニュートンには、テキサス人の友人が何人かいた。

 2人は、ほとんど何についても常に口論していた。8月11日の投票日にも、2人は日中から口論をしていた。2人は一旦別れたが、夜に入って共にレッドフロント・サルーンで酒を飲み、再び口論を始めた。マクラスキーは激昂して、力一杯ベイリーを殴ったので、ベイリーはドアの外まで跳ばされて地面に打ちつけた。マクラスキーはベイリーを追って外へ出た。ベイリーは拳銃を抜いて立ち上がったが、マクラスキーは拳銃を抜き先にベイリーを撃った。2発のうち1発がベイリーの胸に当たり、ベイリーは翌日に死亡した。

 翌日、マクラスキーは忠告されてニュートンを去った。しかし彼は、8月19日の夕方、ニュートンに戻ってきた。ベイリー殺害の件は、ベイリーが過去に2人を殺したことで知られているので、正当防衛認められると考えたためと言われている。彼は、夜の10時頃ハイドパークにあるペリー・タトルのダンスホールへ行き、テキサス人の友人ジム・マーチンとともに、ファロ・ゲームをして楽しんでいた。

 その間、マクラスキーが戻ったことを知ったビリー・ベイリーの友人のテキサス人たちは、ベイリーの復讐にマクラスキーを殺す計画を立てていた。それは、ヒュー・アンダーソン(Hugh Anderson)、ビリー・ガーレット(Billy Garrett)、ヘンリー・カーニス(Henry Kearnes)、ジム・ウィルカーソン(Jim Wilkerson)の4人であった。

 彼らの頭目ヒュー・アンダーソンは、テキサス州ベル郡の裕福な牧場主の息子であった。この年、アビリーンへ牛をドライブする途中で、ボスのビリー・コーロン(Billy Cohron)を殺したメキシコ人カウボーイ、ジュアン・ビデノ(Juan Bideno)を、ジョン・ウェズリー・ハーディンとともに追跡して殺害に協力していた。

 日が変わった20日の午前2時頃、ガーレット、カーニス、ウィルカーソンの3人がタトルのダンスホールに入ってきた。彼らは人混みを分け入り、マクラスキーがファロをしているテーブル近くに場所を占めた。やがてアンダーソンが入ってきた。彼は、拳銃を抜いて真直ぐマクラスキーに近づき、"You are a cowardly son-of-a-bitch! I will blow the top of your head off!"と叫んだ。マクラスキーの友人ジム・マーチンは椅子から跳びあがってアンダーソンを止めようとしたが、アンダーソンは彼を無視してマクラスキーを撃った。1発がマクラスキーの頚を貫通し、致命傷を負わせた。マクラスキーはよろめきながら立ち上がり拳銃を抜いて引金を引いたが、不発に終わり、床に俯せに倒れた。アンダーソンは倒れているマクラスキーの背中を更に撃った。マクラスキーは数時間後に死亡した。

 この後、ガーレット、カーニス、ウィルカーソンの3人は、周囲に向けて発砲し始めた。それは誰かを撃つためではなく、ホールの中の人々を退らせるためであった。元々灯りの乏しい部屋の中は硝煙で視野が遮られた。

 このとき、一人の者が二挺の拳銃を抜き、テキサス人たちに向けて撃ち始めた。最初に弾を受けたのは、マクラスキーの友人ジム・マーチンであった。彼は頸を撃ち抜かれ、ホールのドアから駆け出し、クルムのダンスホールの前の階段に倒れて死亡した。テキサス人たちは拳銃の弾をほとんど撃ち尽くしていたので、十分に反撃できなかった。彼らを銃撃した者は、二挺の拳銃を撃ち尽くすと、ホールのドアから出て行った。ホールには、彼に撃たれた6人の死傷者が残されていた。

   アンダーソンは太腿と脚を撃たれたが、後に回復した。
   ガーレットは肩と胸を撃たれ、後に死亡した。
   カーニスは胸を撃たれ、8月27日に死亡した。
   ウィルカーソンは鼻と脚を撃たれたが、後に回復した。
他の二人は、争いに無関係な、たまたまダンスホールにいたサンタフェ鉄道の関係者であった。
   ヒッキー(Hickey)は脹脛を撃たれたが、後に回復した。
   パトリック・リー(Patrick Lee)は胃を撃たれ、8月22日に死亡した

 この結果が正しいならば、この者が二挺の拳銃から撃った弾10発(各5発装填の場合)あるいは12発(各6発装填の場合)のうちの10発が誰かに当たったことになる。

 この銃撃戦は、ニュートンの「ハイドパークの銃撃戦」(Gunfight at Hide Park)あるいは、「ニュートンの大虐殺」(”Newton’s General Massacre”)と呼ばれ、マクラスキーを含めて5人が死亡し、3人が負傷した。

 この「大虐殺」を行った者は、ジム・ライリー(Jim Riley)であったと言われている。
ジム・ライリーは18歳の結核患者で、この夏にニュートンにやってきた。どういう理由かは不明だが、マクラスキーは彼を引き取って世話をするとともに、拳銃を与えて射撃を教えていた。ライリーは常に二挺のコルト拳銃を携帯し、影のようにマクラスキーに寄り添っていたと言われているが、この夜まで彼が揉め事に関わったことはなかった。

 ジム・ライリーがどこから来たのか誰も知らなかったように、この後彼がどこへ行ったのか誰も知らなかった。

 負傷したヒュー・アンダーソンには、合衆国保安官ハリー・ネヴィルによってマクラスキー殺害の逮捕状が出されたが、執行されることはなかった。友人のテキサス人たちは彼を匿い、事件を知ったテキサスの彼の父親が来て、アンダーソンをテキサスの故郷へ帰す手配をした。

 テキサスの故郷で傷を癒すと、1873年、ヒュー・アンダーソンは再びカンザスへ出発し、メディシンロッジの交易所でバーテンダーの仕事を得た。
 
 やがて、アンダーソンの居所は、マイク・マクラスキーの兄弟アーサー・マクラスキーの知るところとなった。兄弟の殺害者に対する復讐心に燃えていたアーサーは直ちにメディシンロッジに向かい、交易所にいたアンダーソンを呼び出した。1873年7月4日、二人は衆目の前で決闘をした。

 この決闘の状況を伝える資料は、その内容を「神話(myth)」、結果だけは真実と語っているが、それによると:

 アーサー・マクラスキーは、巨漢で全身鹿革の服を着て、拳銃とボウイーナイフを着用していた。彼はアンダーソンに「銃か、ナイフか?」と聞いた。彼よりずっと小柄なアンダーソンは前者を選んだ。

 二人は背中合わせに立ち、ニ十歩、歩み離れた。交易所の所有者ハーディングの合図で、二人は向き合い互いに撃ち合った。初弾は共に外し、マクラスキーが先に第二弾を放ち、アンダーソンの左腕に命中した。アンダーソンは体勢を崩しかけたが膝立ちの姿勢で撃った。弾はマクラスキーの口に当たり、マクラスキーは血だらけになった。激痛と流血で逆上したマクラスキーは、アンダーソンに向かって突進した。アンダーソンは撃ち続け、マクラスキーの胃、続いて肩に命中し、マクラスキーは地面に倒れた。

 見物人はこれで勝負がついたと思ったが、マクラスキーは、倒れたまま顔を起こし、銃をアンダーソンに向けて撃った。弾はアンダーソンの腹に命中した。見物人の何人かが流血の争いを終わらせようとしたが、ハーディングが制止した。

 両者とも弾を撃ち尽くすと、マクラスキーはボウイーナイフを抜き、路上に血の川を残しながらアンダーソンに向かって這って行った。アンダーソンは半ば坐った姿勢でナイフを抜き、マクラスキーの頚に切りつけた。体勢の崩れたアンダーソンの脇腹にマクラスキーのナイフが突き刺さった。こうして二人は共に息絶えた。

 マイク・マクラスキーとビリー・ベイリーの口論に始まったこの復讐劇は、関係者6人、無関係な被害者2人の死亡で幕を下ろした。


【参考文献】
Joseph Rosa “The Gunfighter; Man or Myth?”
WebSite “August, 1871 The Bloodbath: Newton's General Massacre”



コルトと西部の拳銃 その2 [ワイルドウエスト]

§コルトと西部の拳銃

(その2)金属カートリッジ・レボルバー

 1850年代初期、コルト社の従業員であったローリン・ホワイト(Rollin White)は、金属カートリッジを使ったレボルバーを開発した。当時の金属カートリッジは、強度のあるものが作れず、ホワイトのレボルバーは .22インチ口径、リムファイアで火薬の量も少なく(4グレイン)非力であったので、コルトはこれを玩具として顧みなかった。ホワイトはコルト社を退社し、その後も開発を続けた。1855年特許を取り、1856年その独占使用権をスミス&ウェッソンに与えた。この特許の主要な点は、シリンダーの穴(薬室、chamber)が前後に貫通しているという、今では当たり前すぎるものであった。

 1857年に出たスミス&ウェッソンによる金属カートリッジを用いた最初の「モデル1」はローリン・ホワイトのものとほとんど同じで、 .22インチ口径、5連発であったが、少しずつ大口径化がなされた。1861年の「モデル2」は .32口径6連発となった。このモデル1と2は、引金の周囲を囲うトリガー・ガードではなく引金の形をしたフレームに引金が収容され、ハンマーをコックすると引金が前方に出る形式をしていた。装填は、トップヒンジ方式で銃身を上に跳ねあげ、シリンダーを前方へ引き出して本体から外し、シリンダー単体でおこなう。モデル2は、火薬の量が9グレインで非力ではあっても、金属カートリッジの利便性から、南北戦争中に非常に人気があった。
 1866年寺田屋で襲撃されたとき坂本竜馬が使用した拳銃は、このS&W モデル2であったとされている。また、1876年ワイルド・ビル・ヒコックがデッドウッドで暗殺されたき、モデル2を携帯していたという。

 スミス&ウェッソンは更に強力な拳銃を開発していたが .44インチ口径の「モデル3」が市販されたのは1869年になってからであった。モデル3は、金属カートリッジによる装填の優位だけでなく、「中折れ式」であったので、空薬莢を一度に排出できた。

 特許によって守られたスミス&ウェッソンの金属カートリッジ・レボルバーの出現は、パーカッション式レボルバーのメーカーを苦境に陥れた。レミントン社は、1868年スミス&ウェッソンに特許料を払い、リムファイア金属カートリッジを使えるように改造したコンバージョン・タイプを製造した後、1875年からセンターファイア金属カートリッジを使用したニューモデル・アーミーを製造した。

 コルト社は、ローリン・ホワイトの特許を回避して金属カートリッジを使用する試みを幾つかしたがものにならなかった。さりとて、あと少しで期限切れとなる特許に高い特許料を払う気にならず、ホワイトの特許が切れる(1869年4月)のを待つことにした。

 そして1873年から発売されたのが、センターファイア金属カートリッジを使用する「シングルアクション・アーミー」略してS.A.A.であった。.45インチ口径であったので、「コルト45」とも呼ばれ、“西部に平和をもたらした”とされることから、「ピースメーカー」とも呼ばれる。
 S.A.A.は、カートリッジの装填および空薬莢を排出するのに、ハンマーをハーフコックにしておいて、シリンダーの右背面に設けられたローディング・ゲートから、シリンダーを手で回転させながら1発ずつ排出・装填しなければならない。カートリッジの再装填にかかる時間ではスミス&ウェッソンの中折れ式と比べて明らかに不利であったが、命中精度、打撃力、造りの単純さからくる過酷な環境・使用への耐久性、信頼性といった点で優り、「西部を代表する拳銃」となった。
 合衆国陸軍は、1872年から1876年にコルトS.A.A.、スミス&ウェッソン・モデル3、レミントン1875ニューモデル・アーミーの比較テストを行い、コルトS.A.A.を採用した。

 一般に、
   銃身長7 1/2インチのモデルは、「キャバルリー・モデル」(Cavalry Model)、
   銃身長5 1/2インチのモデルは「アーティラリー・モデル」(Artillery Model) 、
   銃身長4 3/4インチのモデルは、「シビリアン・モデル」(Civilian Model)、
   銃身長4インチでエジェクターロッドを省いたモデルは「シェリフズ・モデル」(Sheriff’s Model)
と呼ばれた。民間における拳銃の使用の大部分は、サルーンの中での撃ち合いなど、数メートル以下の近距離でなされた。そのような用途には、拳銃を取りだしやすく、取り回しの容易な短い銃身が選ばれるようになった。

コルトS.A.A.とともに西部を代表する小銃ウインチェスターM1873用のカートリッジ「.44-40」(.44インチ口径-40グレインの火薬、.45コルトのカートリッジも40グレインの火薬を使用)を使用するモデルが1878年から供給され、「フロンティア・モデル」と呼ばれた。

 イギリスのメーカー、ウェブリー(Webley)社は、1867年ダブルアクション式レボルバーRIC (Royal Irish Constabulary)モデルを出した。1872年には「ブルドッグ」(”The British Bull Dog”)という同じくダブルアクションのポケット・ピストルを出した。

 これらから米国内でもダブルアクションへの関心が高まり、コルト社は1877年にM1877ダブルアクション・レボルバーを出した。
   .41口径は「サンダラー」 (”Thunderer”)、
   .38口径は「ライトニング」 (”Lightning”)、
   .32口径は「レインメーカー」 (”Rainmaker”)
と呼ばれた。ビリー・ザ・キッドは1881年に射殺されたときに、コルト・サンダラーを持っていたと言われている。
 1878年のM1878は
   .45口径で 「ダブルアクション・アーミー」あるいは「フロンティア」
と呼ばれた。
 これらは、S.A.A.を基にダブルアクション化したもので、S.A.A.と同様にカートリッジはローディング・ゲートから1発ずつ装填・排出する。これらコルトのダブルアクション・レボルバーのグリップは、S.A.A.の優美な形状と異なり、その形状から「鳥の頭」(bird’s head)と呼ばれた。

 コルトのダブルアクション・レボルバーはヨーロッパでも西部でも人気がなかった。西部のガンマン、あるいはガンマンを気取る若者は、ダブルアクション式の引金の重さを嫌い、軽蔑したという話が伝わっている。

 十九世紀末から無煙火薬が使用されるまでは、これらの全ては黒色火薬を用いていた。

【参考文献】
 Wikipedia
 別冊Gun 「コルトのすべて」 1991.11.15 発行
 Joseph Rose “The Gunfighter: Man or Myth?”, 1969
 Joseph Rose “Age of the Gunfighter”, 1993
 橋下毅彦著『「ものづくり」の科学史』



コルトと西部の拳銃 その1 [ワイルドウエスト]

§コルトと西部の拳銃

(その1)パーカッション式レボルバー

 サミュエル・コルトがパーカッション式レボルバー(Revolver)の特許をイギリスで取ったのは1835年、アメリカで特許を取ったのは1836年であった。コルトは投資家から資金を募り、ニュージャージー州パターソンにパテント・アームズ製造会社(The Patent Arms Manufacturing Company)を設立した。

 最初に生産されたレボルバーは「パターソン・モデル」(Paterson Model)と呼ばれ、1836年から生産された。パターソン・モデルには各種あったが、テキサス・レンジャーで使用された「ホルスター・モデル」は
   .36インチ口径、5連発、八角形の銃身、22グレインの火薬
   銃身長4、5、6、7-1/2、9インチの各種、重さ約1.2kg
という仕様であった。後のレボルバーを見慣れた人から見ると、このパターソン・モデルは奇異に見える。それは見慣れたトリガー・ガードがないためである。トリガー・ガードがないばかりでなく、ハンマーレストの状態では引金(trigger)がフレームに収容されていて、ハンマーをコックすると引金が現われる。テキサス海軍に納入されたパターソン・モデルが後にテキサス・レンジャーに払い下げられ、対インディアンの抗争で絶大な威力を発揮し、高く評価された。

 パーカッション式は、分離した火薬、弾丸(bullet)、パーカッション・キャップを使うため、5発あるいは6発を装填するには、数分を要し、入り乱れての戦闘中に再装填するのは不可能である。そのため、5発ないし6発では不足する場合には、予備の銃を用意した。ここから、「二挺拳銃」が生まれたという。

 パターソン・モデルは高い評価を得たが、事業としては成功せず、1842年にパテント・アームズ社は倒産し、コルトは一旦銃の製造から手を引き、パターソンにあった工場も処分された。当時は部品の互換性、規格化といったことが進行していた頃であった。パターソンの工場はこれらの技術がレボルバーを製造するには十分ではなかったためらしい。

 1845年合衆国がテキサスを併合したことで、メキシコとの関係が悪化し、1846年メキシコ戦争が勃発した。テキサス・レンジャーであったサミュエル・ウォーカー(Samuel H. Walker) は合衆国陸軍に入隊していたが、当局にレボルバーの採用を働きかけた。その話を聞いたコルトは、ウォーカーに会う機会をつくり、彼からパターソン・モデルに対する彼の評価、特に改善すべき点を詳しく聞いた。ウォーカーの強い働きかけによって、政府は、新たなレボルバー1,000挺をコルトに発注した。

 この新たなモデルは「ウォーカー・モデル」(Walker Model)と呼ばれ、見慣れたトリガー・ガードが設けられ、これに続くコルトのパーカッション式レボルバーの原型が完成された。ウォーカー・モデルは、強力な打撃力を主眼としたもので、
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、60グレインまでの火薬、
  銃身長9インチ、銃全体の長さは40cm近く、銃本体の重さは2kgを超えていた。
当初火薬の量は60グレインとされたが、これは少々危険であったので、コルトは50グレインを推奨したという。身に着けて持ち運ぶには適さず、馬の鞍にホルスターを装着して携行した。

 コルトは自前の工場を持っていなかったので、ホイットニー社に製造を依頼した。1847年に生産されたウォーカー・モデルはシリンダーの爆発などの事故が多発したと言われているが、戦場で使用されたものは、有用性を評価され、コルトは民間用に100挺を追加生産した。ウォーカー・モデルから得た利益によって、コルトは自前の工場をコネティカット州ハートフォードに持って、新たなモデルの生産を開始した。
 サミュエル・ウォーカーは、メキシコ戦争において1847年10月9日に戦死した。

 ハートフォード工場で最初に生産されたのは、ウォーカー・モデルの改良版といえる「ドラグーン・モデル」(Dragoon Model) で、「1848ドラグーン」とも呼ばれた。
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、50グレインまでの火薬
   銃身長7.5インチ、銃本体の重さ約1.9kg
ドラグーン・モデルは後のモデルと比べると、重く扱いにくかったが、一層強力な打撃力を有していた。インディアンなどの“未開”の戦士は、戦闘中の興奮状態では致命傷を受けない限り、.36口径弾を何発も受けても怯まずに闘う場合があった。こういった場合にはドラグーン・モデルがより有効であり、数は少ないが他のモデルと並行して生産され続けた。

 より軽く扱いやすいパターソン・モデルのサイズにしたのが、「ネイビー・モデル」(Navy Model)あるいは「1851ネイビー」と呼ばれるもので、
   .36インチ口径、6連発、八角形の銃身、
   30グレインまでの火薬、通常20-25グレインで使用
   銃身長7 1/2インチ、銃本体の重さ約1.2kg。
1851ネイビーは、持った時のバランスが良く、命中精度が優れていたので、ワイルド・ビル・ヒコック、ドク・ホリディなど多くの愛好者を得た。こうした有名人ばかりではなく、当時の記事には「二挺のコルト・ネイビーを携帯し・・・」といった表現が多く現れる。

 1851ネイビーのサイズで.44インチ口径にしたのが、「アーミー・モデル」(Army Model) あるいは「1860アーミー」で、
   .44インチ口径、6連発、円形の銃身、30グレインの火薬
   銃身長8インチ、銃本体の重さ約1.2kg
1860アーミーが1851ネイビーと異なるのは、口径の他に、銃身の下のローディングレバーがクランク式からラチェット式に変わり、銃身の付け根あたりが曲線を帯びた形になっている。1860アーミーは、1851ネイビーとともに、南北戦争で大量に使用された。

 コルト社は、これら“メイン・フレーム”と並行して、ポケット・レボルバー呼ばれる小型レボルバーを製造した。代表的なものは「1849ポケット・レボルバー」で、
   .31インチ口径、5連発、後には6連発も、八角形の銃身、12グレインの火薬
   銃身長は3~6インチ、銃本体の重さは600gを少し超える程度。
ポケット・モデルは民間人が初めて容易に手に入れることができたレボルバーであった。丁度ゴールドラッシュのカリフォルニアでは、治安の悪さ(あるいは無さ)から、必需品であったという。コルトのパーカッション式拳銃では、このポケット・モデルが最も多く作られた。

 これらのパーカッション式のレボルバーは、幾つかのバージョンを伴いながら1870年代初期まで製造された。

 1850年代にコルトの特許が切れると、他のメーカーもパーカッション式レボルバーの生産を始めた。それらの中にはコルトのコピーもあったが、機構的、機能的にコルトに優っているものもあった。その代表的なものが、レミントンの「ニューモデル・アーミー」(New Model Army) で1858年から生産販売された。パーカッション式コルト・レボルバーは、銃身とローディングレバーを主にシリンダー軸で支えていて、シリンダーの上にフレーム(トップストラップ)が通っていない(オープントップ)。このため通常トップストラップに設けられる照門がハンマーに設けられ、ハンマーをフルコックしたときのみ使える。これに対してレミントンは固定フレーム方式で、シリンダーをフレームが囲み、銃身はフレームに固定され、トップストラップに照門を設けられる。また、シリンダーの取り外しが容易なので(コルトも手間がかかるわけではないが、一体となった銃身&ローディングレバーを外さなければならない。)、予備の銃の代わりに装填済みの予備シリンダーを用意しておくことで、シリンダーの交換で射撃を継続することができる。レミントンのレボルバーは銃身の下のローディングレバーのカバーが3角形なのが特徴である。ただし、レミントンのレボルバーは不発が多かったという評価もある。

 パーカッション式レボルバーの性能について、Joseph Rosaの“The Gunfighter, Man or Myth?”によると、1924年に、古いパーカッション式レボルバーの試験がコルト・ネイビー (.36口径) とレミントン・ニューモデル・アーミー (.44口径) を使って行われた。新品同様の状態のものに慎重に弾薬を装填し、距離50ヤードで、球形弾丸では5インチ(約12.7cm)の円に収束し、コニカル(円錐)弾では7インチ(約17.8cm)に収束したという。

(注) 銃のスペックについては、資料により異なる。上記は主としてWikipediaに拠っている。



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